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岸田秀再読 その32「自己分析と他者分析 自分の心をどう探るか 岸田秀 町沢静夫 1955」 [本]


自己分析と他者分析 自分の心をどう探るか 岸田秀 町沢静夫 新書館 1995

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 著者62歳の時の著書。「中年うつ病」を経験した後、精神科医・セラピスト町沢静夫(1945〜当時50歳、現78歳。町沢メンタルヘルス研究所主宰)氏との対談形式で岸田氏のうつ病、心の病理などを分析した記録。好著。


第1章 うつ病をめぐって

 町沢 「慢性軽症うつ病」あるいは「うつ病的人格障害」は十二指腸潰瘍と親和性が高い。向精神薬スルピリド(ドグマチール)を投与する。強迫性人格障害、完全癖あり、あまり感情表現しない。同じことをぐずぐず考える。几帳面 責任感が強い うつ病と親和性が高い。


町沢 僕の経験から言うと、鬱にしても強迫神経症にしても、その心の底には怒りの感情があるという気がする。フロイト流に解釈すれば、自分に怒っているときは、鬱になるし、怒りというのはいけないものなんだ、人間として許されないものなんだというモラル(超自我)が強いと、脅迫的な“儀式”が始まると思うんです。p29


→鬱、強迫神経症は心の底に怒りの感情があるとは、気づかなかった。その裏の超自我(モラル)にも。


第二章 強迫神経症をめぐって

町沢 精神分析学派は初めから裏を見てしまう癖がある。p98

岸田 精神分析は行動主義であって主観は当てにならない。p101


町沢 精神分析派、フロイト派はせいぜい何パーセント、認知療法は幅広い適用範囲。ダイナミック・サイコセラピー(力動精神療法=ヒヤ・アンドナウ=今ここで)は大体の人に適用出来る。いろんな治療方法をマスターしなければ患者を見られない時代に入っている。それを何派と言うのは、時代からも治療実績上からも取り残される。心配がある。p138


町沢 現代は衝動をどうコントロールするかの時代。コントロール出来ないから強迫神経症になったり不安発作になる時代。精神的愛情は自我に一番近い感情だから、抑圧して自我から遠ざけ自尊心が傷つかないようにする。超自我=モラルが云々と論じるのは少なくなっている。今の時代は、ほんとに好きなら性関係を持たない、たいして好きじゃないから性関係を持てるという若者が多い。


岸田 フロイトの時代は性欲と精神的な愛情が一つのカテゴリーに入っていた。(性欲の昇華が精神的な愛情)今は自尊心=ナルシシズムが傷つかないことが最重要課題。


→フロイトの時代、岸田氏の時代、現代それぞれでで文化的背景が異なることで自我の問題、精神神経症の病などはいっそう複雑になる。精神分析学者もセラピストも大変である。岸田氏のうつ病、強迫神経症も時代の背景が大きいとは新発見。それから生まれた唯幻論も?。時代の変遷に耐え続けられるものか否か。


第3章 性格をめぐって

町沢 遺伝性が強い性格と環境の要因の方が強いという性格とがある。自閉的で感情の乏しい分裂病質人格障害とか完全癖が強く、規則に忠実で融通性に乏しい強迫性人格障害はかなり遺伝性が高くて、そういう性格の人は、親の片方が似たような性格だとみんな答えます。p154


町沢 われわれは自分の目でしか人を見ていないわけだから、全部幻想みたいなものである。それがあまりはずれちゃったら適応した行動が取れない。外界に描くイメージが外界との一致の確率が高くないとその幻想を放棄する。信頼できる幻想という事は、外界との協調関係がうまくいく確率が高い良い幻想だということでそういう意味においては現実との対応関係を充分納得できるほど、それだけ保てる幻想ほど多く採用される。p179


岸田 それが唯一絶対の真理ではないし、そういう世界の見方以外の見方がないかというと、そんなことはない。全然別の、一貫して現実を説明できる説明もあり得るかもしれないという可能性を認めた上で、幻想と言っているわけです。ある種の幻想でも、この世界の中で生きていくのにそう矛盾がなければそれでいいわけですから。p179


町沢 一人一人の欲望も違うし、共通点のところを見れば、唯幻論と言うのはなかなか難しいものがあって、共通の遺伝子で動いている幻想や欲望があって、その遺伝子が共通のものを持っていると…。遺伝的に持っている1つのパターンというのはあるわけです。それによって我々は生きられるわけです。予定調和とさっき言ったけれども、遺伝的に与えられた1つのスタイル、認知のスタイル、生きるスタイル、体のスタイルそういうものがなければ生きられないという意味においては、遺伝子というのは唯幻論のものではなく「物」である。p182


岸田 遺伝子が規定性を持っている事は事実だと思いますけれども、規定と言うのは1本の細い線ではなくて幅がある。この幅を遺伝子が規定している。しかしこの幅の中のどこが現実化しているかというと、それは物では規定されていないのではないか。遺伝子は全面的に全てを規定するものではないんじゃないか、ものによって規定される面と言うのは幅があるんじゃないか、幅の中には選択の自由があるんじゃないかというふうに考えます。


町沢 視覚で言えば、遺伝子に規定されているので、この波長と波長しか見えない。その波長からからくる情報をどうまとめるかというのは遺伝子である程度パターン化されるが、自由の幅があって、そこでその人の主体的な創作活動があるのは事実で、その限りでの唯幻論だとは言えるが、自然科学をやった人間には、唯幻論は科学的に納得出来ない。 物にこだわりやすい人には、本当は幻想だと言われるとホッとする効果はある。p183

われわれは幻想の世界と幻想を超えた実体との交流の中で生きている。実体は永久にはっきりと分からない。現実社会の実体に少しずつ触れていくが完全に描くことは出来ないという意味においては唯幻論的だと言っても良い。宮澤賢治は物質の成り立ち生命体の成り立ちは現象で実体ではないと言った。それを岸田氏は幻想と言ったのなら分かる。


岸田 唯幻論は自閉的に幻想の中に閉じこもるのでなく共同幻想を介して人々とのつながりを考えている。自我は大脳のどこかに根拠があるのではなく人々との共同幻想だ。その意味で幻想だと言っている。p185


町沢 岸田さんは強迫観念に苦しまれ、格闘しこれはおかしい事実はこうだと一挙にすべて逆転させて強迫観念みたいにわれわれはある種の間違った観念、幻想的な観念に生きているんだとズバッと肯定したようなものだと思う。それが唯幻論ですね。p187


岸田 中学生の頃から幻想だと言っていて、今も考えを変えていないということは幻想だということが救いだったんですね。p189


→町沢先生の唯幻論批判。物質、生命の成り立ちは実体でなく現象だとする宮澤賢治を持ち出し、頭から否定的ではないが、大脳生理学、遺伝子など自然科学をやった者には納得出来ないと言い切る。岸田氏は遺伝子の規定には幅があるのではないかと反論する。これまで出て来なかった反論。


第4章 人格の病理をめぐって

町沢 うつ病 ①すぐ否定的にものを考える傾向=否定的自動思考=すぐに悪く考える癖。その思考を食い止めニュートラルに出来事を見られるようにする バイアス=偏見をかけないようにする。 ②対人過敏=人によく見られないと落ち込む③完全主義 →うつ病になりやすい人の特徴と聞けば、自分にすべてぴたりと当てはまる。この3点の対策が大事。①事の良い面を考える。②人の意見を気にしない。③適当に考える。 分かっていてもなかなか出来ない。 


読後感

 町沢先生は精神科の医療実践者である。臨床経験も豊富のよう。それらの知見裏付けられた岸田氏のうつ病、強迫神経症の見立ては適確と見た。また、岸田唯幻論に対する批判も自然科学をやったものとして納得出来ないというマイルドな言い方だが、こだわりの強い人が本当は幻想だと言われると、ホッとする効果はあるだろうと手厳しいとも取れる言い方である。

 岸田氏もこれまでになく、しおらしく意見を拝聴する姿勢が感じ取れる対談。 唯幻論、本能崩壊説は、宗教家、歴史家、思想家等だけでなく、自然科学者、医学者などの意見を聞いて見るのが良いようだ。


町沢先生の本書あとがきにおける岸田氏のうつ病所見。素人見にも的確と思う。


 岸田氏にあっては特に超自我の強さとそれへの戦いはとても強い印象を受けた。この葛藤は強迫観念を生み、超自我が自我と欲望を制圧したときに鬱状態になると考えられた。超自我は岸田氏にあっては母親(義母)とみてよいだろう。岸田氏は父親でなく、母親と奇妙なエディプス的闘争をしつつ、それでいて擬似愛情を結ぼうとしていた。ダブル・バインドの関係といってよいだろう。母親はその関係を強要しているのである。 岸田氏の課題はこのダブルバインドからいかに抜け出すかと言うことであった。それは死活問題であった。しかしその母親が亡くなったとき、この拘束から解放されたものであろうか。物理的に解放されても、氏の心の世界では解放されず宿題となって残されてしまったと考えられる。この残された宿題が、今回鬱状態に至った大きな原因と考えられるだろう。

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