岸田秀再読 その27「不惑の雑考」1986 [本]
「不惑の雑考」岸田秀 文藝春秋 1986(s61)
著者53歳の時の本である。40歳台に書いたものを集めたので「不惑の雑考」と題したという。帯には、「唯幻論を唱える岸田秀が自分のこと、身辺のこと、社会のことについて書いた最新エッセイ集」とある。エッセイにしては、小論文調だなと思ったからか、このブログに書いた加藤周一のエッセイ論を何気に思い出した。
「随筆の各断片は、連歌の付句のようなものである。時間の軸に沿っていえば、読み終わった断片や、来るべき断片とは関係なく、今、目前の断片が、それ自身として面白ければ面白い。加藤周一著 「日本文化における時間と空間」
https://toshiro5.blog.ss-blog.jp/2014-10-23
読書感想文からはかなり脱線するが、わが40歳台を顧みれば、まさに働き盛りなのに中間管理職として、一段上の同じ中間管理職のもとで最終責任を取らなくても良い安定感と、何やら分からぬ未達成感、焦燥感の葛藤に悩む(文章が岸田秀氏調になって来た)、どこにでもいる一介のサラリーマンであった。
40代に二度地方勤務をした。最初大分(42歳)、二度目福岡(48歳)。同じ中間管理職ながら上司は東京にいるのでお山の大将。開放感たるや半端でない。好きなようにしたので自我は安定、仕事もまぁうまくいった(と思う)が、もちろん10年間には挫折も経験した。しかし、41歳で父の死にあったほかは、家族5人、まあ順調なディケエイドdecade か。
ついでながら50代の自分も想い出して見る。大学卒業後勤めた職場の最後のdecadeである。前半仕事は農業関係であった。中間管理職に変わりはないが、自由度は少しマシになったので、意識して地方の農業を見に出かけた。養豚牧場、ブロイラー・採卵養鶏場
乳雄牛牧場、酪農牧場など。場所は鹿児島、宮崎、岩手、大分、栃木ほか。日本短角牛、競走馬牧場まであった。先進的なメロン栽培農家(高知)、大規模な水田請負農業法人(広島)などもあり、当時のGATT農業問題で揺れる日本農業を真剣に考えさせられた。
その後は一転して、経営企画と銀行業務の自由化問題担当になり、証券子会社、信託銀行子会社など設立に携わって、MOF担みたいに当時の大蔵省に通い詰めた。
後半は主に食品加工企業担当になり、主として食品加工工場、パン、ジャム、ビール、清酒、ワイン、カステラ、ウイスキー、味噌・醤油、蔗糖・甜菜糖、ハムソー、せんべい、野菜ジュース工場、食品関連産業のペットボトル、段ボール工場などの中堅、大手企業の工場を訪問した。これまた50歳になって初めて、これまで観念としてしか知らなかったことを、目の当たりして種々考えるようになった。
岸田氏の「不惑の雑考」を読むと、同じ40歳台ながら、精神分析はむろん、歴史などにおける氏の思惟、洞察の深さとわが思考の浅さとのギャップ、関心事項の違いに驚き、唖然となるが、当方、社畜よろしく目先の仕事に追われて、その日暮らしをしていたのだから、比べても意味は無い。
さて、「不惑の雑考」である。この再読シリーズ記事のどこかで記したが、以前(15年ほど前だと思う)「古希の雑考」とセットで読んだように覚えているのだが、わが読書記録に記載は無く我ながら実にいい加減である。今回通読したが、なお読んだかどうか思い出せない。読んだような読んでいないような。読んだとすれば本当に情け無い話で、本を読んでも頭に何も残らぬ、読み方をしていることになる。自分には本を読みながら他のことを無意識に考える習癖があって、その間文字は追っていながら内容は掴んでいないので、読んだことになっていないのだ。分かっていることだけ頭に入っている恐れがある。
「不惑の雑考」は新聞や雑誌のコラムなどに掲載された短文を集めたもので、一般人向けなので分かりやすいものが多いし、短い(長いのも数編あるけれど)のがすこぶる読み易い。読み終わった印象として口調(主張の中身は大分違う)が誰かの随筆に似ているなと思ったが、山本夏彦かと気づいた。いや違うという人もいるだろうが、少なくとも丸谷才一随筆の口調よりは似ていよう。
「ものぐさ精神分析」は1977年、「不惑の雑考」は1986年刊行、著者それぞれ44歳、53歳の時の著書である。随筆、雑文といえ、基本的には「ものぐさー」で発表した唯幻論をベースにして事象を語っているので、本能崩壊、自我、などが表に出てこなくとも、(むしろ出てない方が良いかも)分かり易い話になっていて読者は惹かれる。
その常識とは逆転した結論、ややどぎついものも時に散見するけれども、意表を突いた比喩などの妙がこれを倍加させる。加藤周一が随筆は連句の付句の如しと言ったのは、一面、ある意味であたりである。
今回はメモを取らずに読み終える。一つだけ備忘的に記録したのが以下である。
「また、自分のことで恐縮だが、私は「すべては幻想である」とい唯幻論なるものを唱えているけれども、そんなことを主張した人は過去に無数にいたであろう。有名な一例をあげれば、『般若心経』に「色即是空、空即是色、愛想行識、亦復如是」(色はすなわちこれ空なり、空はすなわちこれ色なり、受、想、行、識もまたまたかくのごとし)という言葉があるが、私は同じことを言っているに過ぎない。」p151 「進歩なき学問 」科学朝日1981.3
岸田秀再読を始めてから、岸田氏が何故か仏教、就中親鸞や般若心経のことを書いていないのがずっと気になっていた。気になっていたということは、この文章が頭のどこかに残っていたからかも知れない。やはりこの本を読んでいたのか。「古希の雑考」も読んでみれば少しはっきりするかも知れない。
読後感
小生如きが言うのは烏滸がましいと承知であるが、岸田氏の文章は、誰でもそうなのかも知れないけれど、年をとってからのものより、40歳前後の方が冴えている(キレがある)ように見える。
しかし、年齢にかかわらず「自分はかねてより、人間は本能が壊れているということを主張しているがー」で始まる文章が一番歯切れ良くインパクトがあるように思える。一貫して本能崩壊説を説く気持ちが分かるような気がして来た。
かくなる上は、ついでに続けて「古希の雑考」も読んで見よう。
岸田秀再読 その28「古希の雑考」2004 [本]
「古希の雑考」 岸田秀 文藝春秋 2004
著者71歳の時の本だから「古希の雑考」。多分40代の「不惑の雑考」を意識してつけた表題だろう。さすれば「傘寿の雑考」があってもいいはずだが、それは無く、「唯幻論始末記」(2018 著者 85歳)がそれに代わるものかもしれないと推察する。やはり岸田氏が「唯幻論」に一番こだわっていることの証でもあろう。「始末記」を最後の本と言っているからには「雑考」にしたくはなかっただろう。
「不惑の雑考」と同様に以前読んだかどうか気にしながら読んだが、結論的には「再読感6初読感4」である。これだけの岸田秀氏の著書を読めば、同じことが繰り返されているのを読むので、余計分からなくなってくる。ほぼ知っていることが書かれているので判断しにくい。ただ、対米宣戦布告電報の話とフジモリ大統領の話は、何故かこの本で読んだような気がするのである。
再読か否かは人にはどうでも良いことながら、自分には読書法のみならず、自分の記憶力の脆弱性が気になるからであって、加齢による神経症(鬱?)も気になるのである。若い頃、結婚式の祝辞で人生とは想い出を作る作業であるなどと、偉そうに言ってきたが、その想い出なる記憶がすっかり抜けていく「老い」の怖さたるや、氏の言う強迫的神経症のような気がする。
さて、「古希の雑考」である。大抵はこれまで読んだ内容のものが多いので、メモを取るほどのことはないが、気になるところに細い付箋を付けるだけで読み進む。
図書館で借りる本のメリットとデメリットは、相半ばするが、本を汚す人と関心があるところに傍線を付ける輩がいるのは、何とも我慢がならず許せない。
付箋を付けたのは以下のところである。以前も読んだ記憶があるが、文章が少し練られているせいか、あれ?と思ったのも含まれる。
「他者の基準に服従するのではなく、自分の基準を持ち、自分の基準に基づいて生きるが、しかし、それを普遍的に正しい基準とみなして、他者に押し付けるということをしないという生き方であろう。世界の国々を眺めてみるに、この成熟した段階に達している国は1つもないようである。」p73(日本人及び日本国家の生き方)
→日本人と日本の精神分析をしたあと、ではどうすべきかを指し示す。それはいまどこの国でも実現していないほどの難しいものだが、分析だけしてあとは知らぬと、言う人が多いから、方向を示すだけ立派である。後の現実の具体策提示は、精神分析学者の仕事ではなかろう。自分を含め一人一人が考えることだ。
「人類は、過去を歴史にする技術を失ったのであろう。その技術を失った状況と、今の少年たちの箍が外れた状態とは、連関していると思う。箍とは、未来とつながる希望というか、こうしたら、自分が未来がこうなるという道筋のようなものである。未来への道筋をつけるために、過去を歴史とし、それに未来を結びつける必要がある。規範というのは、そういう歴史の中の未来との関係から生まれてくるものだから、未来に対するビジョンがないところに規範はない。」p133(いまなぜ暴力か)
→歴史が薄れて規範が崩れ、何をしようが自由だとなり自己中心的になる。暴力は規制なき世界に通用する唯一のものと岸田氏は言う。神などに変わる新しい規範を探さねばならない。人類は今自殺できる力を持っているにもかかわらず、未来のビジョンを作れず呆然と立ちすくんでいるとも。DV、死刑願望の無差別殺人などを見るに、ご指摘ごもっとも。
「怒りには誇らしい怒りと恥ずかしい怒りの二種類ある。一つは怒られる人は劣者で怒る方は優者、誇らしい怒り。もう一つは、恥ずかしい怒りで怒られる人は優者で、怒る人が劣者。世の中には自分のみっともない面をさらさないで怒ることができる現象がいっぱいある。みんな自信を持って堂々と誇らしく怒っている。しかし私が囚われて苦しむのは大抵後者の怒りである。」p136(二種類の怒り)
→岸田氏は、自分がそうだからと恥ずかしい怒りに理解をしめす一方、正しい怒りに疑いを持っているらしい。
「(ゴンドラの唄は)女が色気とか性的魅力とかを発揮できる期間は非常に短い。大急ぎで男と恋を楽しまないと手遅れになってしまうという普遍的真理を表明している。女の色気とか性的魅力とかは本能に基づくものではなく人間の男をして、人為的に女を求めさせるために作られた文化的産物であるという唯幻論を裏付けている。女もまた自然に男を求めることは無いので、このようにせかして女を慌てさせ、男を早く捕まえないとだめですよと女を脅迫している。男女関係の真理を語っている詩である。この真理は、永遠の愛とかのある種のロマンチックな恋愛幻想に反するため、あまりおおっぴらに語られず隠されているので、まさに抑えられた真理であり、だからこそ優れた詩である。」p163(ゴンドラの唄)
→新体詩詩人になりそこねたという性的唯幻論提唱者の好きな歌謡曲。いのち短し恋せよ少女♪ 。(注)「ゴンドラの唄」は吉井勇作詞、中山晋平作曲。1915年。
「日本が日本であるためには、敗戦後の日本人が無視して遠ざけようとしてきた、これらすべてのものを抑圧から解放し、意識へと取り戻し、引き受け、精神的に再体験する必要がある。敗戦を50数年、この戦争で死んだ内外の人たちの喪に服することから逃げてきたのだから、今からでも遅くない。これから彼らの喪に服する必要がある。彼らの悲しみを悲しむ必要がある。喪の仕事が完了したとき、初めて日本人は、日本と世界について将来の見通しを持つことができ、世界の中に日本を位置づけることができ、自信を持って行動できるようになるであろう。」p246(屈辱と悲しみからの逃亡)
→日本人はフロイドの言うところの喪の仕事を果たさずにいる。上皇夫妻の先の戦争への思いが際立つというのは、一般の人が、いかにそれが足りないかを示しているか。戦争で死んだ内外の人たちの喪に服することから逃げてはならぬと、岸田氏がは強調しているのだ。そして、意図は少し異なるようながら、中国、韓国その他アジアの国々も。
「フロイドは、神経性的症状とは妥協形成であると言うことを言っている。妥協形成とは対立する正反対の2つの傾向が葛藤している時、一方の傾向をいくらか満足させながら、同時に他方の傾向もいくらか満足させるというような中途半端な道どっちつかずの妥協点に達して葛藤を解決するというか、ごまかすことである。」p337(あとがき)
→人生に対する(自分=岸田秀氏の)客観的見方は、主観的記述と矛盾しており、自己欺瞞がある。それが自分に書き下ろしの本が一冊もない理由だと言う。この釈明文の自己欺瞞に関連して母御のことがまたも繰り返されている。
読後感
あとがきで著者が読者に読んで貰いたい、としてあげた幾つかの文章のほかにも、面白いものがある。特に新聞連載の短文などがそれである。本能が壊れて、自我が生じ、それを支えるため文化が云々と、唯幻論を書いてないものにも、え?と惹かれるものがある。
「ガスの栓の閉め忘れ」や「時間と死の恐怖」などなど。多分「古希の雑考」も氏の代表作の一冊だろうと思う。古来希れなりは、漢詩(杜甫)、「曲江」の一節からと聞く。そして、この詩は目出度い詩ではなく、老いを嘆く詩とのことだが、著者にとって70歳は、書き下ろしが一冊もないと嘆きつつも、著書数も増えて壮年の如く意気軒昂に見える。
またまた大脱線するが、以下は、自分が古希を迎えたときに、作った戯れ句「七福神句」である。七福神は、多神教の見本のようなものなれど、むろん本文との接点は何もない。相変わらずのノーテンキで古希を迎えた。尤も、自分の場合は、その前年大病を経験して心身共に参っていて、雑考はおろか頭を空っぽにして、ひたすら療養の日々のうちに過ごして古希を迎えた感がある。
古希ならば無理してつくれ恵比須顔
古希老に小槌貸してや大黒天
今ぞ古希毘沙門天のご加護あれ
古希迎え弁財天とサファイア婚
古希なれど足るを知らない福・禄・寿
古希なりて我が夢のゆめ寿老人
古希なれば風呂の鏡の布袋腹
サファイア婚は、われらが45周年結婚記念の年。なお、このうち寿老人は福禄寿と同体異名であるという説もあることから、寿老人の代わりに吉祥天を入れる説もあるとか。(吉祥天を八福神目の神とする説も)。そこで今回一句追加。何か性的唯幻論風になったか。ならない。
古希なのに吉祥天に惑わされ
岸田秀再読 その29 「二十世紀を精神分析する」1996 [本]
「二十世紀を精神分析する」文藝春秋 1996
著者63歳の時の著書。1992〜96年間の雑文(本人の言)集という。この間、強度の鬱病と過去のくも膜下出血の後遺症治療をしたので、長期に亘ったとあとがきにある。
自分は岸田氏の著書を、勝手に本書のような歴史もの、性的なもの、自我ものに分けて読んでいるが、面白いのはこのうち歴史ものだ。性的なもの、自我ものともに自分のことに当てはめながら読むにしても、人によってということもあるな、と思うとどうも確信のようなものがない。歴史ものは氏の独創的な考えが、時に従来の常識を鮮やかに覆して見せてくれるので面白い。氏のいう雑文集は、これら三つが入れ代わり立ち代わり出てくるので、忙しいことおびただしくときに頭は混乱する。
読み流せば良いのだが、岸田理論を理解するための再読なので、メモしつつ読んでいる。メモは後からも読めるので、理解できないことまで書いているが、あとで読み返しても理解出来ないことが多いし、この先また読んでも理解出来る保証はない。
「歴史上、西欧民族ほどそのアイデンティティーを根こそぎにされ、ひどい目にあわされた民族はいない。最初に文化のブレーキが外れ、資本主義と言う病気を発病したのが西欧であったのは、そのためである。西欧ほどひどい目にあわされなかったが、いろいろな面で西欧に似ていた日本が次に発病するのである。」p33二十世紀を精神分析する
→本の表題にもなっているこのシリーズは、日経掲載というが、史的唯幻論などをサラリーマンはどう読んだろうか、と思うと興味深い。時事問題なども書かれているが、例えば自分に近いテーマの米問題などを読むと、他に食管制度の歴史や水田の保水機能、環境問題などが加味されてない点とかもあるな、など気になることもある。
「個人の自我はある規範に基づいて成り立っており、その規範に合わない心的要素は、自我から排除され、無意識と追いやられている。それらの無意識的要素が自我に反抗して出てくるのが神経症の症状である。」p56暴力団と神経症の症状
→無意識とエスは同じ?超自我は?自我に反抗するエネルギーは何?。自我ものはいくら読んでも?が多い。
「病んでいる外的自己と病んでいる内的自己とは対立し葛藤してるのが明治以来の日本の状況である。このような状況の中で生きている我々日本人に心が晴れる日がないのは当然であろう。心が晴れる日がないのは仕方がない。しかし、かつて日本人は内的自己に引きずられて対米戦争を始め、国を誤らせたが、今度は外的自己に引きずられて同じように国を誤らせるのではないかと私は不安である。p68日本人はなぜ不機嫌か
→今日本人の外的自己は対米従属。78年間続いている。米欧は対露、対中一色だから岸田氏の不安は的中しかねないと自分も恐れる。
「部分的にせよ、正当性のあるこの対米憎悪を、戦争のような破壊的な形に発散するのでもなく、抑圧するのでもなく、建設的な形に昇華して生かす道を見つけたとき、日本はオウム真理教のような事件から解放されるであろう。」p106オウム真理教について
→日本人の対米憎悪は内的自己であり、それは水面下にある。建設的な形に昇華して生かす道とはどういう道か?難しい。
「明るい昼が自我の時間、暗い夜がエスの時間であるのは、自我と言うものが、他者たちの視線に支えられた共同幻想だからである。先に述べたように、自我とは自分が自分と認めている自分であるが、自我という存在全体のある面を自分が自分と認めることができるためには、他者もそう認めてくれている必要がある。」p174昼と夜
→太古と違い、この世は電気で夜も明るくなったのだが。他者頼みとは辛い。
「親の因果が子に報い」といわれるが、私はこのことを変な親は子を変な子に育て、その変な子が親になるとまた変な子を育てるというように生物学的遺伝ではなく、いわば家族文化的遺伝として同じ欠点が、親から子へ子から孫へと伝わっていくことを指しているのではないかと解している。一人っ子の私は子を持たなかったことによって、我が家の家系を断つことになるが、このような意味で、「親の因果が子に報いる」ことになることを防ぐことができたとも思っている。私が幸運にも父親にならなかったというのは、そういう意味に於いてである。p191父親にならなかった私の幸運
→岸田氏の優秀な頭脳が伝わり世の役に立ったと思うと不運。
水呑めず猫死ぬ夏1人飯 秀 恐車院従人散歩大姉 p203 猫の死
→猫好き俳句好き(?)は、好感が持てる。
「私(岸田)は人間は他の動物より劣っているという理由で、彼(日高)は人間も他の動物と同じく動物の一種に過ぎないという理由で、他の動物に対する人間の優越感は馬鹿げているという同じ結論になるわけであった。彼に言わせれば、私のように、人間を本能の壊れた動物、他の動物を本能の壊れてない動物として、截然と区別する事は、優劣が逆になっているにせよ、人間を神が己の姿に似せて作ったもの、他の動物は神が人間のために作ったものとして区別したかつての迷妄と同じにならないか、人間と他の動物との間に、いかなる明確な境界線もない、その証拠に、人間にできて他の動物にできないような事は1つもないではないかということになるのであった。」p244日高敏隆とストラスブールの日々
→彼(日高)の議論を聞いて人間と動物とを本能が壊れているかいないか、きれいに二分する考えがぐらついたが、一見似ていても質的違いは歴然だ。日高氏とは動物、人間、世界とかに対する基本的感覚では共通していると岸田氏は言う。ここでは質の違いでないと思うのでやはり「本能が壊れている」というのは違うように思う。物語りの序あるいはキャッチコピーとしてはあるかもしれないが。
読後感
21世紀が早くも5分の1が過ぎた。20世紀の神経症、病はなお治癒の兆しがなく、欧米と非欧米世界との分断が進み、むしろ憎悪(ぞうわる)状況にある。人類の精神分析は出来たが滅びた、ということになっては大変だ。
岸田秀再読 その30「物語論批判 世界・欲望・エロス」岸田秀 竹田青嗣 1992 [本]
「物語論批判 世界・欲望・エロス」岸田秀 竹田青嗣 青土社 1992
著者59歳の時の本である。文芸評論家竹田青嗣氏との自我、欲望などについて唯幻論をめぐる対談。「幻想の未来」、「自我の行方」などに類したもの。竹田氏は1947年生まれ、岸田氏の14歳(自分より7歳下になる)年下。思想、哲学等に造詣が深く、岸田氏の理論に共感しつつ的確な指摘もする。この対談は難解な「幻想の未来」、「自我の行方」より読みやすいが、不学の自分にはやはり理解できない部分も多々あって、上記2冊に劣らず「我に難解」の書。
例によって気になったところに付箋を付けながら読む。
1§近代日本と自我
竹田 「幻想の未来」に自我は他人の自我のコピー。最初母親を模倣するとあったが。
岸田 母親が子に抱くイメージを子供は受容する。規定は子供への支配、攻撃。それ以外の可能性を弾圧、抑圧する。p16
→普通の人は最初に母親の自我をコピーし、しかるのち父、家族の順。よって母親の自我は重要だと岸田氏の持論。
竹田 はじめに過剰な欲望への抑圧ありきは、人間は奇型のものというイメージ与える。奇型でも困ったものでなく、人間は単にたまたま人間であるにすぎないと思う。p29
岸田 本能が壊れてのち(動物と比べ)奇型になるのだp29自我はかたち=物語=幻想、人には必要不可欠なもの。
→竹田氏の「たまたま人間であるにすぎない」というのは、自分には納得感がある。本能崩壊で人は奇型になるという岸田説よりも。この書のイントロであるこの部分も「幻想の未来」同様難しい。
2§対人恐怖と対神恐怖
岸田 自我の不安定さは資本主義に向いた条件。欲望は他者の欲望との差異から生じ、欲望が欲望を生み際限がない。自己増殖する。資本が利子を生む資本主義の構造と同じ。みんなの自我がバラバラで不安定な社会ほど資本主義に向いている。p63
岸田 人間はそのように無自覚的に何かを信じないと生きていけないから、当人は自覚的に信じているつもりでもそれ自体がその背後の、当人の知らない無自覚的信仰の上に乗っている。
竹田 岸田さんは何を信じているのか。p73岸田 唯幻論。僕の宗教。
竹田 唯幻論を言って生きていける人は信じられる。唯幻論が正しいと思っても信じることでは生きていけないから信じるわけにはいかない。他の何か神様とか革命とか創価学会とかを信じざるを得ない。
岸田 我々は何か究極のものが必要。しかしそれは存在しない。究極のものと信じると破滅する。思考停止が自我の安定に必要不可欠。p74とにかく自分が何かを信じているとき、それが正しいから信じているのではなく、他人のためや社会のためを思って信じているのでもなく、信じなければ、自分の自我の安定を保てないから信じているに過ぎないことを認めて、相手が自分の子供であろうが、同胞であろうが、赤の他人であろうが、とにかく自分以外の人間には押し付けないという一線を守ってゆくしか道は無いのではないですか。この一線を守らない思想は、それが内容的にどれほど優れた思想であろうとダメだということ以上の事は言えないんじゃないか。p89
→この一線を守らない思想はすべてテロリズムに行き着くほかはないと岸田氏は言う。自分が信じるもの(宗教、民主主義、民族主義、自由、)を人に押し付けないことの難しさは、世の争いごとが絶えないことを見れば、天を仰いで絶望的になる。
岸田 人間が残忍なことをするのは残忍な本能があるからではなく、何らかの普遍的価値を信じているからなのですから、普遍信仰が崩れていけば残虐行為は減っていくと思います。僕の唯幻論も普遍信仰を崩すために、いささかでも貢献できればと思っているわけです。p105
→唯幻論の効用。それを期待するには、全ては幻想だと言い切ると単純にニヒリズムになりかねないので、要注意だと思う。幻想だからそうむきになるな、も同じことだろう。
3§欲望と不安
岸田 自我が神経症の症状だというのは、自我というのは恐怖(自己喪失の恐怖)からの逃亡だからです。p120世界との関係が自我なのですから世界との関係から逃れようとするこの逃亡は自我の土台を崩すことになります。自我は世界との関係の中に埋没して自己放棄してしまえば消滅してしまうし、自己拡大して独自の存在になろうとすると、世界との関係が切れて崩壊してしまいます。自我とは、いわば前門の虎と後門の狼に挟まれて、危ういバランスの中に保たれている幻想です。p123
→人間の自我は、度し難く厄介なものということだけはよく分かる。
竹田 ハイデガーは死とは何かという問いを立てて、それはある観念だと言うわけです。どんな観念かと言うと、非常に重大で切迫したものだけれど誰も体験できない、体験できないけれど、またずっと見つめていることもできない。そこで人間は、この観念を何かの形で隠蔽するわけですね。どういう形で隠蔽するかと言うと、死というのは空間的に向こう側の世界だ。つまり他界だとするわけです。他界だとしておくと、ここで死んだら向こうへ行くという説明がつくので安心できるわけです。p124
→宗教の天国、浄土思想も同じ?
竹田 ハイデガーの方法は現象学なんで、これは自我と言う意識の生命をまず出発点にして、そこに何か浮かんでくるかをじっと見ていくんです。そのとき死の観念は最後には不安の気分につながっているんだと言う洞察が現にある意識に即して現れてくる。岸田さんのは、自己は不安定からの逃亡であると言う観点から始まって、そこからどんどん自己と世界の構造を説明して一貫させていくわけです。最終的に似ていると言うのは、ホントは岸田さんもハイデガーのモチーフを含んでいるんだけれど、岸田理論では、体系的に完結した形で現れるので、本当はなぜ岸田さんがそう考えたかという推論はよくわからない。 僕はそこが所々引っかかるところなんです。岸田さんの理論は、相当水準が高いと僕は思うんですが、議論と言うのは、むしろ破れ目が面白いんで、体系的な完備なら、どんな理論でもそれを目指して作り上げているからです。p125
→現象学。難解なのが出てきた。このあたりは不学を嘆くのみ。ハイデガーのモチーフ、議論の破れ目など。思考停止に陥いる。
竹田 そういう日常の不安をハイデガーの言葉で言えば配慮的な気遣いというんです。つまり働かなくてこのままいったら死んでしまうかもしれないという不安が遠くにあるので、家庭を持ってネクタイを締めてサラリーマンをやるわけです。しかも子供を産んでおけば、死んでも大したことない、という幻想に支えられて、子供を育てている。p127
→サラリーマンの気持ちだけはよく分かる。
竹田 僕の感じでは、どうしても岸田さんの病気だとか症状だとかと言う言い方に引っかかるところがあるんです。全快とか健康というのはどこにもないわけで、動物のほうに行けば全快と言うわけでもないし、進めば進むほど悪いと言うこともないわけです。つまりさっき言ったように、どのぐらいの症状にあるかという事は自由に選べるわけではなくて、その社会と文化の構造にその形を規定されているわけです。p130
→竹田氏は、このほか欲望には恐怖からの逃亡というネガティヴな面だけでなく、例えば恋愛のように、ポジティブな面もあるのではと岸田氏に言う。自分も持った疑問なので、共感する面が多い指摘だと思う。
岸田 僕の言う弱い自我というのは、他者が主体的で自律的な強い自我を持っているということも信じない自我です。自分の内にも他者の内にも強い自我の可能性を信じないと言うのは弱い自我です。他者のそういうのを信じないから強い自我を持っているように見えるものに帰依することもしないわけです。強い自我なんて存在しないと思っているから、自分も強い自我を持とうとしない。弱い自我というのはそういうことなんです。p134
→弱い自我の方が強い自我より良いと言う意見には賛成。弱い自我は強い自我にも従わないからと岸田氏。
竹田 恋愛、エロティシズム、美の原理は認識的領域でなく超認識的領域。例えば、美の幻想が恐怖から始めようとするところにあると言うのは、ちょっと座りが良くない。p142
→どこからともなく、突然現れる現象として、「欲望」を捉える現象学的観点の竹田氏、意識の水面に現れてくる欲望の背後の無意識的構造問題にする岸田氏の精神分析的観点の対立。岸田氏は説明の仕方の違いだけでどちらもありだと言う。欲望の中身にもよるのでは無いかと思うのだが。
竹田 唯幻論で、全ては幻想だと言う時に、どこかに現実があると言う感覚をどうしても持ってしまうのではないか。またすべては症例だと言うときには回癒、健康と言う状態がどこかにあるというイメージを持つ。これはまずいと思う。p147
→どこにも現実はなく、回癒、健康など無いとすれば確かに誤解を招きかね無い。
4§恋愛と嫉妬
岸田 すべては幻想であると言うとでは何が現実かと反問してくる人は、現実と幻想との二項対立思考を前提にしているが、二項対立思考こそが問題。「色即是空 空足是色」と続くように幻想すなわちこれ現実と言い直した方が良いかもしれません。二項対立思考を克服しようとすると二項対立思考と非二項対立思考との二項対立を立てることになってしまいます。p184
→「現実が幻想であり、幻想が現実である」と言い換えた方が良いかも知れないと岸田氏は言うが、言い換えてもよく分からない。全ては幻想だというのは、幻想の中でしか生きられないのだから、今持っている幻想の中でいかに美しく生きるかということだそう。これ解る?
岸田 起源論は成り立たないんですけれど、しかし物語には始まりと終わりが必要なわけです。始まりと終わりがなければ物語にならないですから。物語は始まりを必要とするわけですから、唯幻論も一つの物語である以上そういう物語の要請に応じて初めに本能の崩壊ありというの持ってきただけなんです。p198
→一番はじめは神の一撃、起源論は人の論理思考外。本質的に不可能とカントは「純粋理性批判」の中で言っているとする竹田氏。丸山圭三郎の「言葉が先、自我があと」、岸田氏の「本能崩壊が先、自我があと」論争はどちらでも良いのだと岸田氏の言。こだわらないと言いつつ撤回はせずというところ。たしかにどちらでも良いような気はする。
竹田 唯幻論が完全な世界の説明だと言う形で受け取ら取られるとまずい。岸田唯幻論というのはフロイトの心理学のいわば唯物論を観念論の立場から読み替えた点に一番中心があると思っています。岸田さんの理論は、例えばヘーゲルやラカンやバタイユやサルトルの独創的な考えと本人は知らないのに、何故か深いところで一致しまっている点がすごくある。岸田さん、内心は唯幻論は世界を制覇すると思ってるでしょう。岸田唯幻論は、幻想という概念のあるいは、現実という概念の根本的な読み替え、転倒だと僕は思うんです。
だけど唯幻論もまた幻想であると言う言い方は、今までの幻想と言う概念を温存したままなんです。それだと世界概念は本当はひっくり返ってないんです。僕はそれを唯幻論にもその要因があると思うんですけど。p199
→唯幻論をヘーゲル理論などで武装すればもっと強くなると竹田氏は言う。岸田氏はものぐさなので面倒と言う。唯幻論の立論は岸田氏の独自の発想法によるものなのだ。それで良いような気がするのは、自分がヘーゲルなどの哲人の知を知らぬせいか。
以下は対談後の二人の補足。
岸田 対談を終えて、私は何を信じているか
すべては幻想であるとお経のように100回か1万回か唱えていれば我執から解脱できるわけではない。どうすればいいのか。これらの問題に明快な回答があるわけではない。お前は何を信じているかと問われても、私自身、自分が何を信じているかをはっきりとは知らない。p207私がある場面で自分としては意外なことを言ったり、したり、感じたりする時である。それらの言葉、行動、感情を生み出した何らかの思想が私のうちにあるはずであり、それが私の意識的な思想と矛盾する。しかし私はまだそのいわば無意識的思想を知らない。そういうとき意識的思想のレベルでどれほど明快な理論を展開したとしても少なくとも私自身のためには何の役にも立たない。無意識的思想と矛盾する意識的思想は無意識的思想によってたちまちくずされるからである。p208
→我執から解脱出来ないのは釈迦以来のこと。意識的レベルでは自分が何を信じているか分からないが、無意識的思想がいつか出て来て分かるときがあるかもしれんと言っているのか。対談の補足なら、もう少し凡百にも分かるように書いてくれるとありがたいのだが。
竹田 欲望について、実存の根底
ヘーゲルが、この人間の<諸物語>の階梯を、ついに完全な知、<世界>と<私>との完全な調和へ行き着くべき道筋とみなしたのに対して、岸田氏は逆に、この完全な<物語>への欲望を、そもそも神経症的な<病気>とみなしている。p220
ヘーゲルは、人間は結局、真面目に努力して、生きることによって、自らを<歴史>的<社会>的な精神(=人倫)として成熟させてゆくのだ、それが生の意味だ、と答えたのにほかならない。まじめ人間は仕事でも何でも一生懸命やろうとする。仕事ができるとそれは無意識裡に<力>の意識を生む。それはまた社会的な価値感(観)に暗黙のうちに支えられているからいつの間にか真面目な心情のままで、できない人間や弱い人間や、ハンディキャップトを抑圧してしまうことになる。弱い人間は弱い人間でまた、知らず知らずに強さに憧れ自分の弱さを様々なもの物語に転化したり、ルサンチマンを産み落とたりする。岸田氏の唯幻論のリアリティーは何よりこういった人間の生活心理上の機微に突き当たっているのだと私には思える。そしてわたしはそういう思想的肉質に、私は基本的に共感している。p223
→ヘーゲルは真面目人間、岸田氏はものぐさ人間(?)。岸田氏の唯幻論のリアリティーは、人間の生活心理上の機微に突き当たっている、という意味ももう少し噛み砕いて説明してくれると凡百には有り難いのだが。
読後感
冒頭で難しい対談と言ったが、読み終えてなお、消化不良の感が強い。「自我もの」は難しいのはなぜだろうか。自分の不学もあるが、それだけでなく、「自我」を見つめていない、「自我」をせんじつめて(つきつめて)考えていないからのような気もしてくる。これではいくら岸田氏の本を読んでも、氏の理論を理解することは無理なのかも知れない。やれやれ。難儀なことである。
岸田秀再読 その31「ものぐさ人間論 1998」 [本]
ものぐさ人間論 青土社 1998
著者65歳の時の対談集。同じく対談集の「ものぐさ社会論 2002」は、「再読その10」に書いた。他に、対談集「ものぐさ日本論」があるらしいが、中野区の図書館蔵書には無い。
氏は日本兵の死の写真から日本(の歴史)を考え、母親との葛藤から人間を考察したと言う。対談集も大きくこれら二つに分類していると後書きに記す。前に読んだ「ものぐさ社会論」は前者に属するようだが、人間もテーマになっているものもあって少し分かりにくい。
ともあれ、著者は講演より対談の方が好きだとあとがきで書いているが、対談は相手がときに想定外の発言をし、それが自分を刺激して自分も思いもしなかった発言をしたりするのが面白いという。読んでる方も(前にも書いたが)対談者の気持ちの心の動きが読み取れ、時にそれが議論より面白かったりすることがある。講演や書き下ろしたものと違った味わいがある。
さて、「ものぐさ人間論」の中では、落合恵子氏との対談 「レイプ神話の解体」を面白く読んだ。岸田氏の歴史事実の比喩として「強姦」がしばしば登場する。精神分析学者だから強姦がどんなものか、十二分に理解して使っているかについて疑いはないが、氏と言えども、昭和ひとけたの生まれである。どんなに女性を理解しているように見えても、時代に刷り込まれているもの(あるいはそのカケラ)はある。
落合恵子氏は我慢強く対話をしているが、微かな苛立ちは隠しきれないように見える。なぜそれを感じるかは具体的に指摘出来ないが、多分自分が岸田氏と同世代だからであろう。二人のやりとりの一部(要約)を引けば次のようなものだが、これからはその雰囲気はしかと出てこないないのは残念である。
岸田 男は攻撃的でないとセックスが出来ない。女性の協力が必要。本能が壊れているので、教育で男女平等や両性の合意のもとのみなどセックスについて観念的なことを教えてもダメ。ポルノグラフィを見て喜ぶ女もいる。
落合 その発想の背景そのものがすでにインプリティングされた学習=刷り込み。何があとからきた学習かを明らかにしないと、強姦の忌まわしさは分かりにくい。観念的な教育がダメかどうかやってみないとわからない。女性の感性もモノ化した女の体に結びついているというのも社会がそういうふうに教育して来たからだ。p144
(注)落合 恵子(1945〜)氏は日本の作家。1974年、文化放送を退社。作家活動を開始。1976年児童書籍専門店『クレヨンハウス』を開業。フェミニストとしての視点から女性と子供の問題についての評論、講演活動を行う。
ほかに山折哲雄氏との対談「尊厳死の行方」にも期待したが、特に印象に残るやり取りはなかった。
読後感
対談といっても、岸田氏が聞き手になると、あまり面白くないものが多いような気がする。やはり岸田秀氏から岸田唯幻論の真髄、不備な点を衝いて丁々発止とやって貰えれば有り難いのだが、短い対談では期待する方が悪いだろう。
余計なことながら、対談集なのに対談相手の経歴など紹介がないのは、(前にも書いたが)どう見ても編集者のものぐさ、不親切ではないかと思う。