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岸田秀再読 その33「対話 起源論 1998」 [本]

 

「対話 起源論」新書館 1998

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 著者65歳の時の本。父、歴史、国家、近代、幻想の起源論。字が大きいのが何より年寄りには有り難い。

 

父の起源 

対話者 山極寿一(1952〜)京大理学部助助教授 霊長類学人類学。

 

山極 人間と動物あるいは人間と類人猿、つまりチンパンジーとかゴリラとかボノボとを分ける最大の基準は、自然物の直接性を脱しているかどうかです。人間は、直接性を脱することで虚構を作ることが可能となった。

 

→「自然物の直接性を脱する」って何?観念とか幻想とか?

 

岸田 母親と子供はつながりがある。ところが父親と言うのは本当にわからない。男にとって女から生まれた子は自分の子供かどうかの確かな証拠はどこにもありません。そもそも男にとって自分の子と言う観念が文化の産物です。

 

→子のない父が養子を迎えた場合、自分の実子でなくても、「子」であるから親子関係が文化の所産であることは、分かりきったことで当たり前である。親子関係は実子である確たる証拠は無くても、顔、体や性格が似ているなどの状況証拠があれば十分だとも言える。観念だと騒ぎ立てるほどのこともない。必要ならDNA鑑定もある。子のない岸田氏の実感は、子を持つ自分と感覚は似ているが同じものかどうか。

 

山極 抑制と同調が人間の基本的なリズムだと思っている。

山極 類人猿にも不能はある。性の発達の二重性(幼児性徴とニ次性徴)はサルにもある。

→動物には無く、人間だけが持つ特性というのは、ことごとく怪しいということ。

岸田 類人猿は壊れかけて、原人でかなり壊れ、旧人で相当壊れ、クロマニヨン、原生人に至って完全に壊れたと言うことでしょうかね。

 

→本能崩壊の進化とは異な。

 

歴史の起源 

対話者 岡田英弘(1931〜)東京外語大名誉教授、モンゴル史、満州史。

 

岸田 日本が存続している限りは、日本が建国された時の事情が、陰に陽に、日本人として生まれた個人の自我にも影響を与え、何百年でも何千年でも伝播していくのではないか。p66

岸田 かつての百済が日本のものではなく半島で新羅に滅ぼされた百済が列島で日本になった。それを日本の神話で隠蔽した。患者が幼い時の屈辱的事実を否認して逆転させたのと同じ。天孫降臨神話。起源の隠蔽。p83

山極 漢文(漢字)は文法、時制、語順がない。話し言葉(例えば中国語)と関係なく使える。インドでは英語が同じ役割。

山極  夷狄が持ち込んだ文化の集積が中国の文化。中国語は日本語を模倣(清)。朝鮮語も日本語化(1945)した。

 

国家の起源 

対話者 網野善彦(1928 〜)日本中世史、日本農民史。

 

網野 (岸田氏の)日本は百済の殖民地だったに同感。ただし、表現は誤り。その時日本はまだ無かった。また植民地は国家を前提にした言葉。

 

→百済の「出先、飛地、属国だった」のか。

 

 明治政府の大嘘が昭和の嘘に引き継がれた。①百姓を戸籍上すべて農業とし農業社会にした。②江戸時代は封建社会。③島国なので食料不足は宿命。外地へ出る必要がある。④沖縄民、アイヌは異なるという大和民族幻想を植え付けた。

 

→昭和はこれを継承、強化した。

 

網野 津田左右吉、美濃部達吉は親王派 明治政府の後継者たちはこれを弾圧した。狂気の沙汰。

岸田 国家がないと生きられないわけではない。そろそろ根底から見直すべき時期だ。

実際問題として国民国家を持たず生きてきた人たちもいた。

 

→倭寇などを指すのか?国家なしの日本とはどんなものか、どう描くのか?連邦?

 

近代の起源 

対話者 今村仁司 (1942〜)東京経済大学教授、社会哲学。

 

今村 社会主義というのはマルクスの理論からいうと世界革命でのみ成立する。p161

岸田 ロシア革命は西欧に対するロシア人の劣等感から起きた。p175

今村 二十一世紀は国家連合の時代、各大陸で起こる可能性がある。。二十一世紀を展望するには自己批判がまず必要。リベラルを主張しフェミニズムの立場をとるのはおかしい、経済発展をしてエコロジーを頑張るのもおかしい。人権思想は個人利益を普遍的なものに見せかけるもの。アメリカはヨーロッパ植民地帝国のコピーだ。中国は連邦に近い帝国を維持しつつ一番理性的だ。

 

幻想の起源 

対話者 三浦雅士(1946〜)文芸評論家。「大航海」編集長。

 

三浦 唯幻論後の変化①DNA分析の発達。現生人類の起源15〜20万年アフリカ ②人間の言語能力は生得的(チョムスキー)なもの=本能的なもの=潜在的普遍文法を持っている。

 言語の潜在能力は肉食から。観察と思考の萌芽、狩は知性を求める。それが進化圧となって計画性思考力、視覚を高めた。p211

 

岸田 言語は世界の最再構造化、(本能が壊れ)世界象が壊れた結果出てきた。p214

超自我=良心は生まれつきのものでなく対象化した自己を保存する仕方の一つ。人を苦しめたくない傷つけたくないというのは本能的ななものではない。世界の秩序の中で自分が確固たる位置にあるということで我々は精神的安定を得る。p223

 

→不良少年が暴力団員となり精神が安定、善人となる。ヒットラーに帰依して自我が安定し、命令に従いなんでもやると岸田氏は言う。

 

岸田 己惚れが恥と思うのは他人から認められなかったとき、自分が世界からずれたとき。負い目、お返しは自己安定のためにする。それが経済の起源、大抵の起源はこれで説明可能。

三浦 自我の不安に対して年々歳々生まれ変わる。名前もどんどん変える文化。ニーチェは忘れることが最大の美徳と言った。

三浦 現行の法体系はかなりの幻想に基づいている。

岸田 代わりの幻想がないので今の幻想に執着せざるを得ない。

三浦 フロイトの時代は、近代理性主義が自我の一貫性、統一性を求めた時代。自我は分裂した方が自然と諦めることが悟り。仏教は閉鎖系の地球にはいい。

岸田 絶対矛盾=悪人は善人より強い、悪人ばかりだと地球は滅びる。善人ばかりの方が地球にはよいが悪人には負ける。

 

あとがき

「とにかくまだ人類になっていなかった人類の祖先の本能が壊れ、自然との調和を失って幻想の中に迷い込んだ変な動物が地球上に出現し、悪あがきの末、幸か不幸か、自然に反する、文化なるものを作って、かろうじて生き延びることが人類の起源である。そのような事件には、誰も立ち会っていないので、この話が本当かどうかわからないが、いや多分間違いなくホラ話であるが、人類の起源をこのように見ると、なぜ人間が今この地球上でこれまで他の動植物に迷惑な変なことばかりしてきたか、そして今も相変わらず変なことばかりしているかがいくらか説明できるのである。」(岸田)

 

→自ら唯幻論を講釈師のホラ話と言うが、もちろん本音ではない。1977年「ものぐさ精神分析」で発表以来46年、岸田氏は唯幻論を全く変えていない。すべては幻想であるとする唯幻論を一貫して主張し、生化学などが進歩し、「もの」であるDNA解析が進もうが全く関係ないのだ。これは驚くべきことであろう。

 

読後感

 そもそも起源論は宇宙の果て論と同じで、成り立たないものだとどこかにあったが、人は皆、岸田氏も言うように起源論が好きだ。

 

「対話 起源論」、この本を読んでそれぞれの起源をひとことで言え、と岸田氏が試験で出題したらどう答えるか。

 父の起源 肉食

 歴史の起源 白村江の敗戦

 国家の起源 七世紀遣唐使が日本と称した

 近代の起源 ペリー来航

 幻想の起源 本能崩壊

 対話から結論めいたものを探すのは至難だ。この回答では岸田教授から合格点はもらえないだろうと思う。幻想の起源だけは正解だと言うと思うが。


 

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岸田秀再読 その34「嫉妬の時代 1987」 [本]

 

「嫉妬の時代」  飛鳥新社 1987

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 刊行時の著者54歳。帯にはこうある。「他人の幸運が妬ましくて、妬ましくて…。」「旧秩序が滅びた今、平等主義に醸成された嫉妬の感情が日本を支配している。」

 

 帯は編集者が売らんかなと、本の内容を考え抜いた短文で読者にアピールするものだ、と承知で読めば、(時に作者の意図と反していても)一般人にはとても参考になるので、図書館の人が本の裏表紙に貼り付けてくれていると、真っ先に有り難く読むことにしている。

 本の内容は、当時起きた下記の事件を題材に、教育、経済、親子関係、いじめ、メディア問題などを論じ、最後に「嫉妬」そのものをQ&Aで唯幻論で解説するという構成になっている。

 

「三浦和義事件とは何だったのか(1981)」、「戸塚ヨットスクールと戦後教育(1982)」、「豊田商事(1980前半)に見る資本主義的構造」、「積み木崩し(1982)が物語る親子関係」、「なぜ鹿川君はいじめられたのか(1986)」、「写真週刊誌がよって立つモラル」

 

 このうちやはり強く印象に残ったのは、やはりいじめ問題(東京中野区富士見中鹿川君事件)である。それもいじめる子、いじめられる子、まわりの親、教育者たちの精神分析でなく、問題が起こる背景、構造を論じた部分である。岸田氏はその原因を戦後教育の欺瞞のせいだとする。

 

岸田 学校、教師が生徒を一定時間一定の場所に縛り付け、生徒のやりたくないことを強制し、校則を押し付け、些細な逸脱を罰し・体罰を加える、いじめをしている。生徒はこの教師の行動パターンをコピーする。それがいじめである。

 戦後教育の民主主義、自由主義、平等主義(落ちこぼれ、能力差の無視)、平和主義(いじめの陰湿化)、すべてが嘘八百。

 

→30年以上経った今も、いじめ問題は収まるどころか増え続けている。いじめの原因は①子供の側と②戦後教育の嘘八百との両方にあると岸田氏は結論付けたが、子供の側は戦後教育の構造のもたらしたー結果であるから、戦後教育が変わらぬ限り、いじめは無くならないと思う。嘘八百をどう変えるかこそがいじめを無くす唯一の道と教えるが、その難しさは、30年経ったいまでもいじめが増え続けている現実が物語っている。今更、寺子屋、自由塾に戻すとかも出来ない。人間とは何と知恵のない生き物か。

 

嫉妬とは何かQ&A

 

 嫉妬と羨望の違いはー嫉妬は所有物を取られた時に起きる、羨望は所有してないものを羨むもの。根は同じ。

 自我の中心をなすのが現実我。現実我は他人から見た自分。自分の気に食わないものを排除、抑圧してエスへ閉じ込める。

 幻想我は全知全能から見た自分。極端(誇大妄想、自己否定)なものをエスへ閉じ込める。自我の一部をなす。

 現実我+幻想我+エス=自我

 嫉妬は幻想我の投影である。

 嫉妬は自我の構造の構成要素なので人は常に嫉妬している。嫉妬が自我の根本気分。自我が捨てられない限り、嫉妬は克服出来ない

 幻想我の大部分は見失っている。人間は、その生涯をこの見失われた本当の自分を取り戻す、幻想我を現実化することにかけると言っていい。人間の欲望は、全て幻想我を取り戻そうとする企ての様々な表れだ。この企ての根底にあるのが嫉妬です。幻想我こそはかつては我々が全面的に所有しており、今や他者に奪いとられているもの。p216

人格構造は変更不可能ですが、自我構造は変更の余地がある。容易ではなく、限界もあるが。自我は、全人格の1部の要素を構造化したもの、人格の全要素を組み込んでいる自我が最高に良いが、現実にはあり得ない。

 

→この後段は分かりにくい。

 

読後感

 あとがきで本書を唯幻論の応用編として読んでも良い、と岸田氏が言っているように基本的にはすべては幻想であるとする唯幻論が基調で書かれている。ただ、他の本では嫉妬が表面に出ているものはあまり無い。むしろ欲望として論じられているものが多いので最初少し戸惑う。嫉妬は欲望と同義ならどちらかにしてほしい気もする。「嫉妬の時代」と「欲望の時代」では、読む側としてはニュアンスが少し異なる。


 

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岸田秀再読 その35「親の毒 親の呪縛」 岸田秀 原田純 2006 [本]

 

「親の毒 親の呪縛」 岸田秀 原田純 大和書房 2006

 

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 著者は当時73歳。対話者、原田純氏(1954〜)は、当時52歳。径書房代表取締役。著書に「ねじれた家 帰りたくない家」がある。

 

 岸田氏の「まえがき」に本書を刊行した目的が記されている。「親から歪みを受け継がされた我々二人」というのは、母親との葛藤に苦しんだ岸田氏と、とくに父親との関係で荒れた原田氏を指す。確かに率直な二人の姿を知って心を打たれぬ人はいないだろうと思う。特に岸田氏の丁寧な受け答えには頭が下がる。二人の話を聞いて多分心が安まる人がいるに違いないと思う。

 

「本書は、いろいろな事情や条件は異なるが、それぞれともに親から歪みを受けつがされた我々2人が親を理想化するか一方的に非難するかの両極端のいずれにも陥らないようにするためにはどうすればよいかを、それぞれわが身を参考にしながら(すなわち、精神科医が患者の症例を報告するようにではなく)、真剣に論じた記録である。多かれ少なかれ親から歪みを受け継がされているはずの多くの人々にとって、いささかでも参考になれば幸いである。」p9

 

岸田「精神とは壊れた本能と見失われた現実との隙間を埋めるため、切り離された両者のつながりを何とか回復するために作られた人為的構築物です。生まれてからの経験の一つ一つ、親をはじめとする人々に教えられたことの一つ一つが精神という建築物の建材になっています。我々は、まず初め、親に指示されたようにそれらの建材を組み立てるのですが、いつかはそれを自分で組み立て直さなければならないのです。そうすることによって親を克服するというか、親から独立するのですね。」p 208

 

「自分のことが説明できるというか、自分と言う実体があらかじめ存在していて、後からその自分が自分を説明するのではなくて、自分についての説明が自分なんですよ。自分についての説明、物語がなければ自分はないのです。」p220

 

「親がなぜ自分についてこういう物語を作って自分に与えたかというのを知らないとそれを覆せないでしょう。とにかく親から与えられた物語を覆すためには、自分で自分の物語を作ってそれを足場にするしかないですね。その新しい物語の中で、自分なりに落ち着けるというか、安定感があって、そこでいろいろな自己表現ができるようになれば、その物語に基づいて生きていけばいいんじゃないですか。」p223

 

「自我と言うのは人間関係ですから、他者に支えられる必要があるので、自分の物語を作れば、人々にそれを認めてもらう必要があるんですね。だから、こういう本を書くという事は、非常に必要なことで、かつ非常に効果的な解決なんですよ。」p245

 

→岸田氏は親の呪縛から脱するには物語を書くことは有効だと薦める。原田純氏も、柳美里も書いている。本を書く=言語化するのが効果的なのは、「自分は言語だから」と岸田氏は言う。ただ、物語に嘘が無いということが大事。自分が見ていない自分はどういう自分かというと好ましくない自分=醜い、恥ずかしい、劣っている面、これを見てないと人間関係に問題が起きる。物語ではこれを直視し、逃げないことが重要とも言う。

 

「長く続く本当の友達がいない。寂しい人生になる長く続く。本当の友達より美しく生きる立派な自分と言う物語の方を選んだのですから仕方がない。」p250

 

→対話者原田氏の父親のことを岸田氏が言っているのだが、ニュアンスは異なるが自分のことを言われたような気がした。人と交わらないと言うわけではないが一人遊びが好きだと歌った良寛が好きなわが身と重なる。

 

「親が作った物語はどこがおかしくて不満だから無視するというだけではダメなんじゃないかな。それはどこでどう間違っていたか、なぜ親はそのような間違った物語を作ったか、その間違った物語が自分という存在の形成にどういうふうに影響したか、などをよく考えて、それらの因果関係を理解した上で、それらの要素を含み込んだ新しい自分の物語を作っていく。そういう必要があるんじゃないかな。」p251

 

「無意識を意識化するという事は、それらの削除部分を見つけ出し物語の中に組み込んで物語をよりより良いものにすることです。「より良い」というのはどういうことかというと矛盾が少ないというか、筋が通っているというか、納得できるというか、とにかく本人がそれに基づいてよりよく生きていけるような物語です。」p255

 

→醜い自分をよく見る。隠蔽しない、自己欺瞞せず、読んだ人はどう思うかも考える 悪行や歪みを出して物語る、と言うが難しそう。親から受けた歪みから脱するために物語をかくことも有効な手立ての一つだと二人の意見は一致する。しかし、これは言うはたやすいが、一般の人には難しそう。親がなぜ歪んだか、自分の何が悪いのか、特に無意識に抑圧しているものを引きずり出すことこそ、必要とも言うが普通の人には至難だろう。良いカウンセラーでも、側にいればいいが。

 

 原田純氏の父親が共産党員だったということから、同じ党の機関誌編集長が父親だった米原万里氏を思い出した。米原氏はロシア語同時通訳者で作家である。岸田氏の唯幻論について随所に頷くところがあるが、国家や文明を精神分析の手法で見ることに抵抗。(中略)かなりトンデモ本ぽい、と批判したと岸田氏自身が書いていた。

 

 米原万里は父の影響をどう受けて育ったのだろう。親子関係は皆異なる、同じものなど一つも無い。

 

(注)米原 万里(よねはら まり、1950年 - 2006年)は、日本のロシア語同時通訳、エッセイスト、ノンフィクション作家、小説家である。「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」「オリガモリソブナの反語法」などを読んだ記憶がある。父の米原昶(いたる)氏は共産党機関誌編集長。

 

岸田秀再読その11「唯幻論大全」2013(1/3)

 

https://toshiro5.blog.ss-blog.jp/2023-07-06

 

読後感

 

 このような言いようは、女性差別と非難されそうだが、自分は女の子がいないこともあって、娘心ははなから慮外の外(?)と諦めているふしがある。女性のことは、たぶん正しく理解出来ていないという変な自信がある。かといって男の子をわかっているかと言えばそれも怪しい。岸田氏は、精神分析学者だから当たり前ながら、原田氏のことも女性一般のこともよく理解出来ると脱帽である。しかも、対談では何度も同じことを丁寧に繰り返し応答していて感服する。

 

 蛇足ながら、この本を読むと親の端くれとしては、自分がどんな親だったかを顧みずにはいられない。

 基本的には「親は無くても子は育つ」と思っていたのは、下手にかまうと自分を超えていかないと、怖れたと言えばカッコいいのだが、単に自分が楽だったからか。放っておけば自立する、バックアップは必要だが、手をかけすぎない方が良いと思っていた。

 また、子を褒めることにはメリットとデメリットがある。メリットの方が大きいようだが、褒めるとそれで努力をしなくなると決めつけ、けなす態度をとっていたと思う。悪い親だったと反省してももう遅い。今となれば、けなすのはチョー良くないと分かる。

 さらにまた、特に小さい時、親の支配力は強力であることを、もっと認識すべきだったなと思う。などなど万事にわたり、後悔の方が圧倒的に多い。後悔先に立たず…涙。

 

  蝌蚪ふしぎ 父の不可思議子のふしぎ  (2020)

 

 親子というのは不思議なもの。難しく言えば不可思議なもの。他人だが、他の他人とも違う他人。2020年に読んだ駄句。冷や汗ダクダク。蝌蚪は俳句では、おたまじゃくし。蛙の子。鯰の孫にあらず。


 

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