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岸田秀再読 その41 「吉本隆明全対談集7 (1981→1982 ) 吉本隆明 1988 [本]

 

吉本隆明全対談集7 (1981→1982 )吉本隆明 青土社

 

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 吉本隆明(1924〜2012 詩人、評論家。)は、1933年生まれで岸田氏とは9歳差。終戦のとき19歳。この対談「共同幻想について」(初出 現代思想1981)時は、吉本57歳、岸田48歳。 双方壮年、油が乗っていたとき。

 吉本隆明の主著を読んだことがない。このブログで猫随筆などを取り上げたことがある(2015年)。知の巨人はフランシス子という愛猫を飼っていて大の猫好きだったのだ。岸田氏も猫好きで共通点がある。難しいことを話している割に一方で猫に惑溺しているギャップが可笑しい。

https://toshiro5.blog.ss-blog.jp/2015-06-04

 

 今回の共同幻想をめぐる対談は、岸田氏の考え方に対するほかの思想家、批評家らの見方の一例だが、氏を頭から否定することはないが、どうも乱暴な議論だと思っている人達の一般的な見方であろう。吉本隆明は岸田氏の論理をよく分かるし、面白いとしながらも自分とはかなり異なると言う。 

 吉本隆明の思想がどう言うものかよく知らないので、両者を比べることも出来ないが岸田氏を理解するには役立つかもしれない、という目的で対談を読んだ。吉本隆明は岸田氏の「どうでもいいや」という考え方を、他のところでは「習俗的ニヒリズム」と称していたが、良く見ていると思う。論理の積み上げでなく、本質的なことをズバッと言い当て、それが説得力がある点を高く評価している。その上で岸田氏の考え方では何も作れないとも言う。確かにそれは言い得るような気がする。しかし作るのは精神分析学者の仕事ではないような気もするのだが。

 

 岸田氏と吉本隆明の違いの一つに共同幻想と私的幻想の逆立ちというのがあって前から気になっていた。この対談の山場、目玉であろうとも思うが、結論を言えば何度読んでもどういうことか、残念だが理解ができなかった。

 

 参考「保育器の中の大人」における吉本隆明の解説文(岸田秀再読その2)

「(以前岸田秀さんと)国家の共同幻想について論じあったとき、個人が幻想の中に入り込むときは、必ず逆立ちして幻想が身体で、身体が幻想のように入っていくものだと言う説明が、個人幻想の集合が共同幻想なのだという岸田秀の考え方からは納得してもらえなかったことを記憶している。ーーわたしはいまでも岸田秀さんを説得する自信があるがーー。「保育器のなかの大人たち」でも岸田 秀は納得していないようだ。」

 

 共同幻想における「逆立ち」が理解出来れば、二人の考え方もかなり理解できるかも知れないと思いメモもとって何度も何度も読んだのだが、理解力が弱ったのかもとより弱いのか、「逆立ち」という用語を取り違えているのか。吉本の「共同幻想論(1968)」はウキペディアに解説があるのでサッと読んでみたが、それで理解出来るようなヤワな理論では無さそう。無論、吉本が借用したというマルクスの「共同幻想」を読む元気はないので、これ以上追究出来ないのは悔しい。

 

参考 ウキペディアによる共同幻想の逆立ちに関わる記述

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/共同幻想

 

 吉本は、共同幻想自己幻想に必ず逆立すると主張する。個人を守るための共同体が、個人を束縛し、弾劾するのである。個人に対する社会的ルールの強制などがそれである。逆立性が極限まで高まると、国家が戦争などで個人に死を強制し、それを殉教である、英霊であると賛美するなどという状況も起こる。

 「逆立」とは吉本の造語であるが、吉本はこれに対して明確な定義を行っていない。文脈によって、対立や抑圧という意味合いであったり、単純に質的な差異があるという意味であったり、よそよそしいとか冷淡、欠如、虚偽というような意味合いもあり、多義的である。逆立が成立する過程で、共同幻想と自己幻想の関係性には段階的な変化もあるらしい。

 

 なお、同じくウキペディアの「共同幻想論」の中の「憑人論」に以下の記述があるから、「逆立ち」とは「分離」と同義とも受け取れる。いずれにせよ「逆立ち」は分かりにくい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/共同幻想論

 

「共同幻想」と「自己幻想」が逆立せずに接続している段階から、しだいに逆立して行く変化に対応し、「共同幻想」と「自己幻想」が分離(逆立)して行けばそれらを媒介する巫覡(引用者注 ふげき 神官、巫女など神に仕える人)的な人物(憑人)が分離される。

 

 今回のメモとメモへの感想(→で表記)は、以下のとおりである。(メモは原文のままの引用ではない)

 

・岸田氏のすべてのことはどうでもいいや、という思想が文章に表れていて面白い。吉本

「国家と自我」には関心がある。個は自分が全体であろうとする本質的衝動があり、諸悪の根源だ。神による秩序が壊れ代用として国家が出来た。共同幻想は吉本から借用。岸田

自分はマルクスから借りた。吉本

・一人の他者との関係が対幻想。二人以上の集団との関係が共同幻想。公ののことと女のことは同じ重さの問題だというための対幻想概念。吉本

一人の他者との関係も複数との関係も同じ共同幻想で良いのでは。私的幻想と共同幻想と分け二つは相対的なものと考える。大東亜共栄圏は日本民族幻想。(ヨーロッパから見れば私的幻想) 岸田

 異論は無い。よく割り切り、言い切るな。蟻を棒でぶん殴る感じ。男女の性、戦争はチャチ、ソ連は帝国主義とバーっと言い切る。皆真面目だから大変な努力をして詰めてからしか言えないこと。岸田氏の言い切りはたいてい皆頷くことが多いところが面白い。吉本

 

 共同幻想と自己幻想の逆立ち

・岸田氏の私的幻想の集積が共同幻想という考えは自分は排除している。共同幻想は実態としてあるが、共同幻想、対幻想、自己幻想と分けて本質的に抽出すると私的幻想が集積して共同幻想になるという面の共同幻想は全部取ってしまい共同幻想と言っている。捨象しても残るものを共同幻想と言っている。その残るものという概念が違うのではないか。それが逆立ちするという概念に該当する。共同幻想から個々の幻想を引き上げたら何もなくなるはずなのに確固として残り、個々の人に対して圧力になったりする。吉本p164

 

→「捨象しても残るもの、その概念が違う」とはどういうことか分からぬ。

 

 恋愛という共同幻想が醒めて共同幻想と私的幻想が分離すると、お互いの私的幻想はそれとは逆立ちするが、共同幻想それ自体はお互いの私的幻想に根拠が無くても続いていき二人を縛ることはある。

 共同幻想と私的幻想と対幻想が逆立する考え方は時間という概念を入れないと説明出来ない。昔の人の私的幻想の共同化として国家という共同幻想が成立する。現在の国家の国民の私的幻想と関係なく続いて国民を縛り、例えば戦争をやらせる。岸田

 

→これらのやりとりから、共同幻想の逆立ちを理解しようとしたが難しい。知の巨人の壁に跳ね返された体である。

 

・岸田氏はこの時間あの時間での実体というふうに考える。僕はちょっと違って、発生とか起源とかを今というところに含ませている。本能が崩壊しているのを人間だと定義する問題、リピドーの問題が直接に関係する概念は。

 

→これも我が石頭には意味不明。

 

 それが届かない次元になったときに、はじめてそのときの共同幻想を国家という。これを定義と思われると困る。性的タブーあるいは親和感というものがある次元の共同幻想を離脱したときはじめて国家の共同幻想が発生したというのだ。吉本

 

→これも分からぬ。

 

・国家は人間が多面的に複数の集団に属するようになって必要になった。複数の共同幻想の対立をまとめるための上位の存在として国家(という共同幻想)が出来た。日欧の違いは事情というか条件の違い、近代的とか原始的とかの問題ではない。岸田

 

 条件の違いは歴史的な累積のしかたの違い。近代国家というのは市民社会、資本主義的な社会の上にある民族国家をいう。岸田氏は厳密さを犠牲にして、しかしうまく言い当てている、真木撮棒(まきざっぼう)と言われるのでは。私はそうはは受け取らないが。吉本

 

→真木撮棒なる語は見つからない。真木は槇、立派な木という意味か。撮棒は武器か。

撮棒 さい‐ぼう【×尖棒/▽撮棒/▽材棒】

《「さきぼう」の音変化》ヒイラギなどで作った災難よけの棒。また、武器として用いる堅木の棒。→鉄尖棒 (かなさいぼう)

 

・僕(吉本)が考えた末結論を出すことを、岸田氏がフロイトを消化した上でズバッと言えるのは何故か、その秘密は結局ほとんど全てのことは「どうでもいいや」と思っているからだ。吉本

 

 人間は自我とエスという矛盾するものを抱えている存在という前提があるだけ。

個人の価値が互いに矛盾する。その統一のため貨幣ができた。国家も貨幣も自我。岸田

 

・岸田氏の論理、基本的発想では何も作れない。作ってしまったものはどうする。どうでもいいやでは済まない。吉本

 

 作るよりあるもので悩まされているのだからそれを壊す方がよい。必要悪だから国家も自我も小さい方が良い。自我は諸悪の根源。これ以上のことは言えないという諦めがある。岸田

 

 自分はこれまでどうしたら壊せるかということを考えてきた。小さい方が良いというレベルから先に進み、戦後憲法は守った方が良いかというレベルになると変えた方が良い(特に天皇条項)。

 日本人は誰が占領しても悪いことをしなければ受け入れる。悪いことをすると隠微にに抵抗し追い出す。イデオロギーではない。

 国家、軍備、憲法は普遍でも永久でもない。始まりも終わりもある。人間の概念の方が強固で大きい。永続性もある。吉本

 

 ヨーロッパ原理の天皇制は日本人に合わない。九条はそのままで良い。天皇条項も適当に残しておけば良い。天皇制廃止なんて言わなくて良い。

 江戸時代は日本人にとりうまい制度。神でも仏でもどっちでも良いような神仏混淆。徳川家が全国統治しているわけでない幕藩体制。天皇に主権は無く、天皇家を滅ぼしもしない。他を排除するキリスト教を禁止などなど。岸田

 

→これらの二人の考え方は良く理解出来る。

 

読後感

 岸田はどうでもいいやとばかり、人がどう言おうと直感的にものを言う。吉本は真面目で考えたあげくものを言う。このあたりの二人の違いは明白である。

 岸田の共同幻想は私的幻想の集合とする論は分かり易いが、吉本の共同幻想から私的幻想が逆立ち(分離)するということが、腹に落ちない。が二人の共同幻想自体に大した違いははないのかも知れない。岸田氏の理論を理解するうえで、何となく気になっているだけかという気もするが、何やら消化不良の感は否めない。

 

 岸田氏にとって「幻想」は「自我」のこと、従って共同幻想は集団の自我のことである。吉本にとって「幻想」は「上部構造」であり従って共同幻想は集団の上部構造。これを二人の論理の出発点としてそれぞれ共同幻想論(吉本)、唯幻論(岸田)を展開している。

 二人には太平洋戦争の敗戦経験が思想に影響を与えていて、共通点があり親和性もあるが、精神分析学者、詩人・評論家として異なる点も多いのは当然だから、対談を読んでいても親和と反撥が感じられて興味深い。

 

 岸田秀氏に子がなく、吉本には漫画家の長女ハルノ宵子、作家である次女吉本ばなながいたことは何か差異をもたらしたりしているのだろうか、とふと考えたが見当はずれか。

 

 なお、上掲のウキペディアの共同幻想の解説の中に、岸田秀氏の共同幻想は吉本とは異なり対幻想は共同幻想に含まれるとあるが、この対談を読む限り、岸田氏にとっては対幻想の概念は不要という感じである。

 

「岸田秀は吉本から共同幻想の考え方を引き継いで『ものぐさ精神分析』(1977年)を著し、唯幻論を提唱した。岸田の唯幻論において幻想は私的幻想と共同幻想に大別され、対幻想の考えは共同幻想に含まれることになる。」


 

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