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岸田秀再読 その27「不惑の雑考」1986 [本]

 

「不惑の雑考」岸田秀 文藝春秋 1986(s61)

 

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 著者53歳の時の本である。40歳台に書いたものを集めたので「不惑の雑考」と題したという。帯には、「唯幻論を唱える岸田秀が自分のこと、身辺のこと、社会のことについて書いた最新エッセイ集」とある。エッセイにしては、小論文調だなと思ったからか、このブログに書いた加藤周一のエッセイ論を何気に思い出した。

 

「随筆の各断片は、連歌の付句のようなものである。時間の軸に沿っていえば、読み終わった断片や、来るべき断片とは関係なく、今、目前の断片が、それ自身として面白ければ面白い。加藤周一著 「日本文化における時間と空間」

 

https://toshiro5.blog.ss-blog.jp/2014-10-23

 

 読書感想文からはかなり脱線するが、わが40歳台を顧みれば、まさに働き盛りなのに中間管理職として、一段上の同じ中間管理職のもとで最終責任を取らなくても良い安定感と、何やら分からぬ未達成感、焦燥感の葛藤に悩む(文章が岸田秀氏調になって来た)、どこにでもいる一介のサラリーマンであった。

 40代に二度地方勤務をした。最初大分(42歳)、二度目福岡(48歳)。同じ中間管理職ながら上司は東京にいるのでお山の大将。開放感たるや半端でない。好きなようにしたので自我は安定、仕事もまぁうまくいった(と思う)が、もちろん10年間には挫折も経験した。しかし、41歳で父の死にあったほかは、家族5人、まあ順調なディケエイドdecade か。

 

 ついでながら50代の自分も想い出して見る。大学卒業後勤めた職場の最後のdecadeである。前半仕事は農業関係であった。中間管理職に変わりはないが、自由度は少しマシになったので、意識して地方の農業を見に出かけた。養豚牧場、ブロイラー・採卵養鶏場

乳雄牛牧場、酪農牧場など。場所は鹿児島、宮崎、岩手、大分、栃木ほか。日本短角牛、競走馬牧場まであった。先進的なメロン栽培農家(高知)、大規模な水田請負農業法人(広島)などもあり、当時のGATT農業問題で揺れる日本農業を真剣に考えさせられた。

その後は一転して、経営企画と銀行業務の自由化問題担当になり、証券子会社、信託銀行子会社など設立に携わって、MOF担みたいに当時の大蔵省に通い詰めた。

 後半は主に食品加工企業担当になり、主として食品加工工場、パン、ジャム、ビール、清酒、ワイン、カステラ、ウイスキー、味噌・醤油、蔗糖・甜菜糖、ハムソー、せんべい、野菜ジュース工場、食品関連産業のペットボトル、段ボール工場などの中堅、大手企業の工場を訪問した。これまた50歳になって初めて、これまで観念としてしか知らなかったことを、目の当たりして種々考えるようになった。

 

 岸田氏の「不惑の雑考」を読むと、同じ40歳台ながら、精神分析はむろん、歴史などにおける氏の思惟、洞察の深さとわが思考の浅さとのギャップ、関心事項の違いに驚き、唖然となるが、当方、社畜よろしく目先の仕事に追われて、その日暮らしをしていたのだから、比べても意味は無い。

 

 さて、「不惑の雑考」である。この再読シリーズ記事のどこかで記したが、以前(15年ほど前だと思う)「古希の雑考」とセットで読んだように覚えているのだが、わが読書記録に記載は無く我ながら実にいい加減である。今回通読したが、なお読んだかどうか思い出せない。読んだような読んでいないような。読んだとすれば本当に情け無い話で、本を読んでも頭に何も残らぬ、読み方をしていることになる。自分には本を読みながら他のことを無意識に考える習癖があって、その間文字は追っていながら内容は掴んでいないので、読んだことになっていないのだ。分かっていることだけ頭に入っている恐れがある。

 

 「不惑の雑考」は新聞や雑誌のコラムなどに掲載された短文を集めたもので、一般人向けなので分かりやすいものが多いし、短い(長いのも数編あるけれど)のがすこぶる読み易い。読み終わった印象として口調(主張の中身は大分違う)が誰かの随筆に似ているなと思ったが、山本夏彦かと気づいた。いや違うという人もいるだろうが、少なくとも丸谷才一随筆の口調よりは似ていよう。

 

 「ものぐさ精神分析」は1977年、「不惑の雑考」は1986年刊行、著者それぞれ44歳、53歳の時の著書である。随筆、雑文といえ、基本的には「ものぐさー」で発表した唯幻論をベースにして事象を語っているので、本能崩壊、自我、などが表に出てこなくとも、(むしろ出てない方が良いかも)分かり易い話になっていて読者は惹かれる。

 その常識とは逆転した結論、ややどぎついものも時に散見するけれども、意表を突いた比喩などの妙がこれを倍加させる。加藤周一が随筆は連句の付句の如しと言ったのは、一面、ある意味であたりである。

 

 今回はメモを取らずに読み終える。一つだけ備忘的に記録したのが以下である。

 

 「また、自分のことで恐縮だが、私は「すべては幻想である」とい唯幻論なるものを唱えているけれども、そんなことを主張した人は過去に無数にいたであろう。有名な一例をあげれば、『般若心経』に「色即是空、空即是色、愛想行識、亦復如是」(色はすなわちこれ空なり、空はすなわちこれ色なり、受、想、行、識もまたまたかくのごとし)という言葉があるが、私は同じことを言っているに過ぎない。」p151 「進歩なき学問 」科学朝日1981.3

 

 岸田秀再読を始めてから、岸田氏が何故か仏教、就中親鸞や般若心経のことを書いていないのがずっと気になっていた。気になっていたということは、この文章が頭のどこかに残っていたからかも知れない。やはりこの本を読んでいたのか。「古希の雑考」も読んでみれば少しはっきりするかも知れない。

 

読後感

 小生如きが言うのは烏滸がましいと承知であるが、岸田氏の文章は、誰でもそうなのかも知れないけれど、年をとってからのものより、40歳前後の方が冴えている(キレがある)ように見える。

 しかし、年齢にかかわらず「自分はかねてより、人間は本能が壊れているということを主張しているがー」で始まる文章が一番歯切れ良くインパクトがあるように思える。一貫して本能崩壊説を説く気持ちが分かるような気がして来た。

 

 かくなる上は、ついでに続けて「古希の雑考」も読んで見よう。


 

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