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岸田秀再読その4ものぐさ精神分析 (1/2) [本]

 

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 当たり前のことだが、岸田氏の唯幻論そのものを理解するには、氏の原点ともいうべき「ものぐさ精神分析」をじっくり読むことが一番良い。

 再読といっても唯幻論を取り巻く周辺の随筆や対談から始めたので、遠回りしている感じが否めない。そこで図書館で「ものぐさ精神分析」(岸田 秀 中公文庫1982)を借りて来て読んだ。読書記録に無かったが、やはり一度読んだような気もする。ただし、周辺の短文を読んで得た知識がそう思わせるのか、本当に読んだのかはいま定め難い。

 

 読んでみると、自分の疑問に思ったことのたいていのことが書いてあったのに驚く。

まずは個人の心理を集団の心理と同じように論じることについては、「ものぐさ精神分析」の冒頭の章である「歴史について」の中の「日本近代を精神分析する」にいち早く出てくる。

「フロイド理論は何よりも、まず社会心理学である。一般には、フロイドは、神経症者個人の心理の研究から出発して精神分析理論をつくりあげ、その生涯の後半に至ってその理論を宗教現象や文化現象などの集団心理に応用したと考えられているが、私の意見によればこれは逆であって、彼はまず集団心理現象を下敷きにして、そのアナロジー(引用者注 ー類推)に基づいて神経症者個人の心理を理解しようとしたと言うことができる。(中略)わたしの理解しているところの精神分析は、本来、社会心理学であるから、集団現象の説明にそれを用いるのは拡大適用ではなく、当然のことであって、別にその妥当な根拠を示す必要はない。」

 

 岸田秀理論の元になっているフロイドの超自我、自我、エスと言う考え方は、立憲君主制の政体における皇帝、政府、民衆との類比から着想されたものだ。という吉本隆明の言はこのことだった。個人の精神と集団の精神は通底するという理論は、基本的にフロイド理論をベースにしており、岸田氏がフロイドに大きく影響されていることも示している。

 

 前にも書いたが、自分はこのことについてあまり違和感が無い。

 

 次には唯幻論の出発点となる「人間の本能が壊れた」ということについての記述。著者が忙しい人はここだけは読んで欲しいと言っている章「歴史について」の「国家論ー史的唯物論の試み」に書かれている。

 人類は生物進化の奇形児だ。L・ボルクの胎児説に立ち、人類は猿(まだ人類ではない人類の祖先)が胎児化したもの=猿の胎児がそのままの形でおとなになったのが人類(幼形成熟ネオトニー)であるとする。

 (未熟で生まれたため)自活まで長時間を要し、親の負担は大きく子の本能生活が変質する。子の本能は全知全能に置かれた状態の中で現実とずれが生じる。本能に従うことは現実への不適応を意味する。つまり現実への適応保証するものとしての本能はこわれてしまった。本来なら現実我を保存する個体保存の本能が、全能の幻想我を保存する方向へずれる。種族保存の本能も同じことである。

 胎児化の結果であるが、個体保存の本能の場合に、その本能の発現と、それの目的の遂行の手段たるべき感覚、運動器官の発達との間に時間的ズレがあるのと同じように、、種族保存の本能の場合にも、性欲の発現と、生殖器官の成熟との間に数年の時間的ずれがある。そのため人類の性欲は、まず不能の性として出発する。結果として幻想に遊ぶ性となる。

 なお、上記のボルクの胎児化説については別の章「性の倒錯とタブー」にも以下のとおり触れられていて参考になる。

「L・ボルクの説であるが、人間の進化を説明する仮説として「胎児化」説というものがある。この説は簡単に説明すると、要するに、人間は猿の胎児であるという説である。大人の猿と大人の人間は非常に違っているが、ある段階では、胎児の猿と胎児の人間は大体同じような形態をしている。猿は、その段階からぐんぐん発達し、おとなの猿の形態に近づいてゆくのだが、人間の場合は、その発達が奇妙に遅滞し、いつまでも胎児の形態を保持したまま生まれてくる。つまり猿が極端な未熟児の状態で生まれたのが人間である。」(p105 )

 (参考)幼形成熟ネオトニーについてネットで検索すると次の説明があった。

 「人間は、チンパンジーとほとんどの遺伝子を共有しているが、チンパンジーは生まれて数年で大人になり、子供を産むが、人間はそれ以上十数年しないと、性的に成熟しない。すなわち大人になれない。しかも、人間の外観は、チンパンジーの赤子のままであり、その十数年の差が、知能や、遊び、手先の技能向上に役立っている。早く大人になってしまうと、自己の子孫を残す活動に、ほとんどの日常は奪われてしまうため、知能や技能が進歩する暇がないという。このように、幼少時の名残を残しながら、大人になることをネオテニーとよばれているのだという。」

 

 前記「国家論ー史的唯幻論の試み」における「本能が壊れ、私的幻想が生まれて共同幻想に至る記述をもう少しメモして見る。

 個体維持本能、種族維持本能ともずれてしまったので、何らかの手を打たないと人類は滅亡する。

 現実原則に従う自我と快感原則に従うエスとの対立(フロイド) 。 エスは本能ではなく快感原則は本能原則でなく幻想原則だ (死の衝動は人類の特有な傾向と理解し)快感原則は涅槃原則 である(フロイドは無機物の状態への復元)。

 本能はエスに変質する。エスは個体保存ナルチシズムと前性器的倒錯のリピドー。そこで人は抑圧することはじめてを知る。そこに文化が発生した。

 (引用者注)リピドーとは性的衝動を発動させる力(フロイド)、本能のエネルギー(ユンク)。

 文化は矛盾する二面を有する①個体保存と種の保存を保証し=作為された社会的現実すなわち擬似現実であり②私的幻想を吸収し共同化=共同幻想となるものでなければならない。

 この文化こそ例えば家族(集団)であり、擬似現実、共同幻想だから不安定な点が特長だ。

 各人に分有された共同幻想は超自我及び自我となり、共同化されずに残った私的幻想はエスを構成する。このエスが共同幻想にもとづく集団の統一性を危うくする重大な要因となる。

 このくだりはすんなり頭に入ってこない。ずれたので放っておくと人類が自滅するので代わりのものとして文化を発明したというが、文化の発生要因は別にあるのではないか。 文化は民族によって異なるが、異ならない文明についてはどう考えれば良いのか。 幻想、その共同化などがやはりわかりにくいのはこちらの理解力が乏しいせいか。既成概念で凝り固まっているためか。

 

 平たく自分の言葉で言い直して見よう。

 猿(類人猿と人類の祖先)から類人猿(チンパンジーなど)と人類に進化した。猿人猿は本能を持ったままおとなになったから本能に従えば生きられた。人類になった方は猿の胎児のまま生まれ大人になったため、本能が本来の機能を果たせない。つまり本能が壊れた。 そのため、代用品として幻想、文化を生み出して人類として生き残った。幻想、文化は胎児が全知全能の状態で現実とのずれを見いだして、自我を抑圧することを知り、そこから生まれたのである。私的幻想を共同化したものが文化だ。

 この説では、系統発生的にいうと猿から類人猿になり類人猿が人類に進化したのではなく、類人猿と猿は共通の祖先から生まれた兄弟ということになる。自然発生は系統発生を繰り返すと言う説がある。人間の胎児が、類人猿の段階を経ているかどうかは、生物学的にわかるだろうが、経ていると考えるのが自然なような気がする。

 猿からいきなり進化したとしてなぜ類人猿は胎児化せず、人間だけが胎児化して(未熟児として生まれ)本能が壊れたのか。

 

 進化の仕組みや進化論の今などをもう少し学ばないと、最初のこのあたりは理解できそうもない。また、幻想その共同化のところもフロイド論などを含めて、精神分析学をもっと勉強する必要がありそうだ。我が唯幻論理解の現状は、面白いがストンと落ちない、という岸田 秀再読前の状態のままである。(ものぐさ精神分析下へ つづく)


 

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岸田秀再読その5 「ものぐさ精神分析」 (2/2) [本]

 

岸田秀再読その4「ものぐさ精神分析」(1/2)からのつづき

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 なお、「歴史について」の中に「日常性とスキャンダル」と題した一文がある。これは岸田氏の考え方(悲観や虚無)をよく表しているように思う。

 岸田秀氏ならずとも、自分を含めて歳をとると、長生き必ずしも良いことばかりではないなと思う。未来にはもっとマシなものが待っている、あるいは今よりは良くなるだろうと思って生きてきたが、人類は懲りずに愚行を繰り返している、と嘆くことばかりである。自分の価値観のために戦争を始める。核兵器廃絶は進まず。原発はやめない。コロナは人命より経済優先。etc.人間はいつまで経っても、いっこうに利口にならない。

 

 岸田秀氏は言う。

「人間に関する諸々の問題を説明しうる理論の出発点は、私の考えによれば、1つしかない。それは、他のところで既に繰り返し述べたように、人間が現実を見失った存在であるということである。現実を見失った人間は、おのおの勝手な私的幻想の世界に住んでおり、ただ、各人の私的幻想を部分的に共同化して共同幻想を築き、この共同幻想をあたかも現実であるかのごとく扱い、この擬似現実を共同世界としてかろうじて各人のつながりを保ち、生きていっているに過ぎない。p85

 様々な不合理な破壊的現象は、要するに、抑圧された穢れたたものの発現であり、そして、穢れたものは聖なるものの陰画であり、厳密に聖なるものと対応していて、つまり聖なるものが汚れたものをつくり出すのだから、聖なるものを我々が必要としなくなれば問題はたちどころに解決する。それは可能か。われわれは聖なるものに頼らずに生きてゆけるか、日常生活を構築できるか、集団を形成できるか。p99

 最後にもう一度問いたい。人類はあらゆる形の聖化と縁を切ることができるであろうか。もしできないとすれば、人類にはこれまでの過去よりましな未来が待っているとは言えないであろう。」

 

 唯幻論には、国家論で展開された史的唯幻論、ともう一つは「性について」で詳細に記述される性的唯幻論がある。こちらは「種族維持本能が壊れた」からと始まるだけで、論理展開はほぼ同じである。したがって再読した感想も上記と変わりは無い。性に関するものなので分かりやすい。若い人には関心は高かろう。自分の歳にもなれば斜め読み、飛ばし読みだが、若い人なら縦に行を飛ばさずにしっかり読むだろう。

 

 さて、「ものぐさ精神分析」はあと人間について、自己についてなどが唯幻論に基づいて書かれている。この中では時間、空間、言語の起源が興味を引いたが、正しく理解したかどうかもう一つ自信がない。

 

時間と空間の起源

「欲望を抑圧して悔恨した時点と現在との間に時間を構成した。未来とは修正されるであろう過去である。未来が限定されること、すなわち、死を我々が恐れるのは、過去を修正するチャンスが限定されるからである。(中略)この意味において、死の恐怖を知るのは、抑圧する動物たる人間のみである。

 抑圧した屈辱の場所と現在の場所との間が空間である。

「ついに幼児はその心に屈辱を刻みつけつつ、自己ならざる者に転化していった、もろもろの対象を閉じこめるための容器として空間を発明する。

 時間と空間が成立したとき歴史が始まった。」

 

自分には時間(過去、現在、未来)の方は分かるような気がするが、空間の方がしっくりこない。

 

言語の起源

「本能が対象から切り離されて欲望に変質し、まずイメージに向かうようになった人間の場合には、刺激と反応との自然なっ結びつきは失われてしまった。このままでは人類は現実に対応出来ず、コミュニュケーションも出来ないので言語を発明した。言語は文化の根幹である。

 母親が幼児の喃語のうちの一定の発声に反応することによってそれに一定の意味を付与し、言語として共同化してゆくのである。

 言語化するということは共同化すること。 言語化されたものは擬似現実であり、現実とぴったり合った言語はない。言語の多さは 機能の不全性を示す。言語を失えば現実は崩壊する。われわれの行動は分解する。要約すれば、言語は、現実との直接的接触を失しない、現実の対象への直接的反応ができなくなり、現実と遮断されたエスのなかでばらばらなイメージを増殖させたわれわれが、それらのイメージを材料に失われた現実へ戻る代理の通路として構築したものである。」

 要約すればの以下は、本能崩壊の結果代用するものとして文化(言語)を作ったという理解で良いであろう。が、続いてしたがって言語は人類の根源的な神経症的症状だ、という点については、何度も読み返すのだが老化もあってもう一つ理解が出来ない。

 赤ん坊の喃語の状態が、動物や鳥では鳴き声を発している状態のような気がする。つまり言語(コミュニケーションツール)は人以外も持っている。言語の発明を唯幻論で言えば岸田氏の上記のようになるだろう。しかし、大事なのはヒト特有の文字の発明であるが、それに言及していないのは何故か。

 言語はあるのに文字のない民族は何故存在したのか、その理由も知りたい。岸田秀氏のいう幻想の共同化において、文字はどういう役割を果たしたのか、大いに寄与したのではないかと思うのだが。

 

そろそろ、「ものぐさ精神分析」の読後感想文を書かねばならないが、何度も言っているように、唯幻論について「半知半解」感が強すぎてなお、思考がまとまらない。

 

 中公文庫版の解説を伊丹十三が書いているが、岸田秀理論をきちんと理解して見事な一文を寄せている。これは、数ある著書解説の傑作の一つではないかと思う。著者との対談「保育器の中の大人」においても相当な精神分析学者だなと思ったので、今更驚くことでは無いが、この解説で、そうかこの本はこう読むのか、と改めて思い知った点が多々ある。

 解説者は「ものぐさ精神分析」は患者の書いた精神分析論だとする。著者と母親との葛藤の中からすべては幻想だと知り、人間は本質的に神経症だと認識する。この体感から著者はフロイドを学び、人間は本能が壊れたため社会生活に必要な自我という行動規範が欠けたこと、自我の代用としてやむなく幻想=文化を作ったのだという考えに至る。唯幻論は、まさに著者の経験、体感から生まれたのだとする。いわば、自分のようなのほほんと生きて来た者にわからないことがあっても、何ら不思議なことでは無いとあらためて認識させられる。

 

 分かることもあるのだから、もう少し辛抱して読むことにしよう。

 

 蛇足ながらYouTubeに唯幻論の解説がある。“なぜ生きる意味がないのか?”【唯幻論】by 岸田秀

 

https://www.youtube.com/watch?v=36EqX0i7Bcs

 

 現代のユーチューバーは唯幻論をこう解釈し、こう表現するのか、という意味で興味深い。ニヒリズムが前面に出ているのが特徴か。この項の冒頭に書いた「日常性とスキャンダル」の聖化や価値観についての岸田秀氏の結論を想起させる。なお、本能が壊れた理由としては早産説をとっている。この方が一般的にはわかりやすいからだろう。


 

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岸田秀再読その6 「続 ものぐさ精神分析」(1/2) [本]

 「続 ものぐさ精神分析」岸田秀 中公文庫1982

 

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 続と銘打っているが、ほぼ本編(1977)と時を移さず書かれた(1980年)ものだから、唯幻論を補強するための補遺のようなものと考えて良いだろう。

 著者は二番煎じ、出がらしものぐさ精神分析と自嘲している。文庫本の帯の惹句は岸田心理学の実践的応用編とある。

 

 まず日高敏隆の解説文が目に飛び込んできた。日高氏はフランス留学で岸田秀氏と接点がある。気になっている人間の「本能は壊れた」とする論に関わるところである。

 

「岸田秀との対立点が一つある。そしてこの対立点は彼にとってもぼくにとっても、きわめて根本的に重要な問題なのだ。それは、「人間は本能が破壊された存在である」という、岸田氏の出発点である。僕の代理本能論(「文化」とは所詮は本能の代理物に過ぎない)は、いってみれば、岸田秀の理論を動物学の立場から展開したものだともいえよう。 けれど、今日の動物学の見地からすると、人間の本能が本当に破壊されているかどうかは、じつは大問題なのである。(中略)人間にも本能は厳然として存在し、人間はかなりの場合、それによって動いているのだといってよい。そのとき、その動き自体に幻想はないはずである。それ自体が本能なのであるから、それを代理すべき文化も幻想も必要ではないだろう。けれど、岸田秀が一貫して述べている通り、人間が幻想に振り回されていることも、疑いの余地ないところである。」

 

 やはり動物学から見ても、人間の本能が壊れたという証拠は無いようだ。もっとも岸田秀氏も人間の本能が壊れて無くなっているとは言っていない。本来の機能が果たせ無いだけで、残ってはいるのだとする。さすれば壊れた本能は個体維持本能と種族維持本能で他に残っている本能は何か。本能が壊れたのでは無いとすると、幻想や文化でそれを補う必要もないことになる。ならば幻想や文化はどこからなぜ来たのか。唯幻論は本能崩壊が無ければ成り立たないのか。このあたりがどうも釈然としない。

 さて、この出がらしものぐさ精神分析は、いわば応用編というか、唯幻論で物事(心、性、歴史、金融経済、芸術文化 宗教 政治)を理解するとこうなるという事例集でもある。

 面白いと思った例をアトランダムに記す。

 

歴史と文化

 死はなぜこわいか 

 「自己とは人びとの共同幻想のなかにのみ描かれているかたちである。この意味において自己は不安定であり、絶えず消滅の危険にさらされている。しかし、我々にとって、われわれ自身とはこの夢まぼろしのごとくはかない自己がすべてである。ゆえに、われわれは死を恐れる。(中略)  物欲にせよ、攻撃欲にせよ。際限のない欲望に囚われ、駆り立てられている状態から脱出する道は1つしかない。それは我々が、我々の自己が幻想であることを知ることである。そして死を直視してその恐怖に耐えることである。それは不可能かもしれない。しかし他に道があるであろうか。」

 

 ・唯幻論による死を恐れる理由は理解出来る。また自己が幻想であることを知るということが、際限の無い欲望に駆り立てられている状態から脱出するために必要だ、というころまでは理解出来る。ところが、そして死を直視して恐怖に耐えることもーとなると、 ん?、となる。凡百にはもう少し分かりやすい説明が良い。

 

 マニアについて

 「人間の欲望が個体保存や種族保存の目的から切り離され、幻想かに支えられた無償のものになっている。マニアの特徴はその無償性にある。有用性は共同幻想に過ぎない。

人類の文化そのものが、何らかのマニアたちがつくりあげた雄大な無償の体系である。」

 

 ・幻想論に立ったこの着眼点と論理展開には脱帽である。ユニークだ。

 

 なぜヒトは動物園をつくったか

 「本能が壊れた人間は壊れない動物が羨ましいのだ。人間が動物を飼うのは自己の不全感、無力感を補うため。動物を人間の作った人工的世界に引き込み、安堵したいがため動物園を作った。(近代)国家も自己の不全感を補うために作った。」

 ・ペットを飼う理由も同じ説明になろう。我が家の猫を思い微苦笑するのを禁じ得ない。

 守る

 「ローマ帝国、サラセン帝国、第三帝国、大日本帝国、大英帝国も滅びた。ソ連帝国のように内外に多大の無理を重ねている国家が長続きするはずはない。気長く歴史の流れを見てゆこう。奢る平家は久しからず。鳴くまで待とうホトトギス。」

 ・1991年12月がゴルバチョフ辞任=ソ連邦崩壊で、この「守る」は1980年8月朝日新聞掲載だから著者の言うとおりになった。現在2023年6月時点でのロシアのウクライナ侵攻の現状を見るに、この時点で同じく歴史の流れを気長に見ようと言えるかどうか。はなはだ心許ない。

 

性と性差別

 役割りとしての性

 「同性愛は決して病気では無く、全体自己を文化が正常と認めない方法で回復しようとしているに過ぎず、同性愛者を治療して異性愛者にするのは異性愛者を治療して同性愛者にするのと同じく難しいのだから、彼にその回復の努力、退行の権利を禁ずるのは、残酷というものだろう。」

 ・氏の論調から言えば、上記の同性愛者はLGBTQ、性マイノリティ全体を指していると考えられる。46年前のこの時代(「役割りとしての性」は1977年6月「現代思想」初出)このような見解を持っていた人はマイノリティであったろうと推測する。

 今2023年6月、LGBT理解増進法採決で欠席した自民保守派の議員の顔をTVで見て、わが国の後進性に嘆息する人は多いだろう。

 

人間について 

 価値について

「価値についてあらゆる価値は幻想である」と説く岸田氏に対して、学生は「それで先生は虚しくは無いか」と問われ、「価値ある人生など無い。価値観は幻想であり固執するのは、自分だけでなく他を破滅させることもあるほどにはた迷惑。むなしさはそれが幻想だと認めない限り消えない。自分(岸田)もむなしいが、頭のどこかに価値がありはしないか、とこんな文章を書いているのだ」とひとりごちる。」

 ・たしかに普遍的価値とか、同じ価値観を共有するとか、日常的に聞き、眼にするが、アメリカをはじめとする西側諸国も中国ももロシア、イスラエルもパレスチナもそれぞれ同じ言葉を使う。しかし幻想だと言っていたら滅ぼされるからとことんいく。これまでの歴史を見れば明白だ。

  ひるがえって個人レベルで自分はどうだったか 何を価値あるものとして生きて来たか、考えざるを得ない。一度じっくり考えてみる価値がある。

 

 感情について 

笑い (人間のみが)幻想の中に住んでおり、(人間のみが)緊張する存在であり (人間のみが)緊張から解放されて笑うのだー笑いとは共同幻想(擬似現実)の崩壊または亀裂によって起こる、それが要求していたところの緊張からの解放である。

 

怒り(怒りー瞬間的、/憎しみー持続的、恨み)  傷つけられた自尊心(幻想我)の崩壊による己の無力さが曝け出されたとき 回復せんとして怒るのだ

悲しみ 世界(猫、恋など)の永続性なる幻想の崩壊 (己の無力さを容認している点が怒りと異なる) 

「怒り」と「悲しみ」は「悔しさ」などの中間的な感情を通じてつながっている。

 

・今回岸田秀再読のきっかけになった『「哀しみ」という感情』という本の一文は、字が悲しみから哀しみへと変わっているだけでこれが原典(?)だろう。

 

 (岸田秀再読その7「続ものぐさ精神分析」2/2へ つづく)


 

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岸田 秀再読その7「続 ものぐさ精神分析」(2/2) [本]

岸田 秀再読その6「続 ものぐさ精神分析」(2/2)からのつづき

 

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 このものぐさ精神分析応用編を読むと、大抵のことが唯幻論で説明出来ることに驚くし、常識的理解と違う意外性、など膝を打つことが多くて一言で言えば面白い。また氏の言い換え、喩えのユニーク(ユーモアと辛辣)さがそれに加わる。これが岸田秀を読んでしまう原因だと納得させられる。これなら「出がらし」であろうが、「二番煎じ」であろうが人は読むだろうと思う。

 

 人の考えることは私的幻想でそれが集団の共同幻想となる。人と集団は幻想にとらわれ右往左往する様があぶり出される感がする。

 本能が壊れたから幻想が生まれたという理由の正否はおいても、人間の考えることがおおかた幻想であるとすれば、大抵のことは説明出来てしまう。

 確かに、わが国においては、古来人は幻想の中で生きているということが、実感としてわかる。

 岸田秀氏が分かりやすい例として挙げた「平家物語 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす」の無常感や鴨長明の「方丈記  ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」よりも、織田信長の舞「人間(じんかん)五十年 下天の内に比ぶれば夢幻の如くなり 滅せぬもののあるべきか」、秀吉の辞世「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」の方がより説得力がある例だろう。

 幻想であれば人によっても異なるし、はたから見て些細なことにさえ幻想なるものに命を懸けることもある。それは個人であれ、集団であれ変わりが無い、というのも納得感がある。

 また、幻想なのだからそうムキにならない方が身のためだ、というのも賢明な結論(?)のような気がする。ムキになると人は愚行を犯すのだから。ムキにならないということは、岸田 秀氏によれば、どうしても見たく無い自我を見つめることだそうなので、至難のことのようだが。

 岸田 秀氏はフロイドを学び、影響を受けていると思われるが、氏も書いているようにフロイドの精神分析学はニーチェに近いと指摘する学者もいるとか。岸田 秀氏を習俗的ニヒリズムと言った吉本隆明ならずとも、岸田 秀氏には虚無のにおいが漂うと自分もそう思う。

 現代の出来事 東日本大震災、原発事故、コロナ禍、地球温暖化、ウクライナ戦争、核兵器廃絶、VR 、AI(チャットGBTも) 、LGBTQ 、いじめ、巻き添え自死などを唯幻論で読み解いだらどうなるだろうか。自分でもやってみたい気もするが、唯幻論を正しく理解していないので難儀である。岸田 秀氏に「唯幻論始末記」で書いて欲しかった。出来事でなくとも例えば般若心経とか、種の保存のために単性生殖より確実効率的なので女から男が生まれたとかについても唯幻論にもとづいて解明したら面白そうである。

 岸田秀氏の作家論(三島由紀夫、太宰治、芥川龍之介)が後半に出て来るが、三人とも自死(自我幻想の共同化に失敗した)作家である。これを読むと、作家の生い立ちが作品のテーマそして自死にも反映していることがよくわかる。同じく自死した川端康成はどうなのか。自死こそしなかったが、漱石についてはどう読み解くか。

 書評「ライ麦畑でつかまえて」(チャンドラー)は、唯幻論で読んだというより、精神分析学者による書評であろう。主人公ホールデンを自己不確実性型神経症に似た若者と見る。人間すべて神経症的な存在とすれば、時代を映し出す神経症者なるものがあるのかも知れない。以前自分もこれを読んだが、青春の書だなぁと終わったような気がする。

 

 岸田秀氏の死生観(死はなぜ怖いか)は唯幻論から出来ているが、哲学者池田晶子の死生観を想起させた。池田晶子についてはこのブログで書いたことがある。彼女の死生観は次のとおりである。

 

 池田晶子

https://toshiro5.blog.ss-blog.jp/2011-12-27-4

 

「私もまた自分の死を考えたことがない。うまく考えられたためしがない。なぜなら、死は無だからである。無は無いからである。無いものはどうしたって考えられない。それで私は死のことを、ある時からやめにした。ために、人生に不安を覚えることがない。人は、無いものを不安がることはできないからである。代わりに、生きていることそのことが、力強き虚無となった。生きるということは、虚無を生きることなのだと知った。だから、震災にも戦災にも大不況にも動じない。既に死んでいるからである。」(「睥睨するヘーゲル」)

 また哲学者池田晶子の著書で教えて貰い、青空文庫で読んだ四行詩ルバイヤートも思い出した。二人はどことなく似たところ、あるいは親和性があるのかも知れぬ。

注)ルバイヤート 過去を思わず未来を怖れず,ただ「この一瞬を愉しめ」と哲学的刹那主義を強調し,生きることの嗟嘆や懐疑,苦悶,望み,憧れを,平明な言葉・流麗な文体で歌った四行詩。11世紀ペルシアの科学者オマル・ハイヤームのこれらの詩は,形式の簡潔な美しさと内容の豊かさからペルシア詩の最も美しい作品として広く愛読されている。(ネットから)

 

 ところで唯幻論ばかり読んでいて、ふと、我が家の猫(♀)を見ているとこいつ本能が壊れてしまったのでは無いか、と思うことがある。出自は野良で15歳くらい。

 避妊手術をすませているので、種族保存本能が壊れたごとく雄猫に興味を示さず、窓の外を歩く野良猫をシャーと威嚇するだけで、春になっても恋猫にもならない。

いつもツンとしているが、ときに気が向くと親しげにニャアと鳴き、擦り寄って来て体を押し付ける。もっとも老猫になってからのことだが。

 また個体維持本能も壊れたらしく、与えられたカリカリをまずいからもっと上等なのを出せと催促する。ネズミなどはなから追いかけそうも無い。テレビのダーウィンが来た!の鳥を見たり、窓から見える鳥などには興味がありそうだが、首をかしげたりするだけで飛びかかるでも無い。

 

 壊れたか 猫の本能恋忘れ

 本能は 壊れぬ証し猫の恋 ん?。


 

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このアジサイの名は何? ①八丈千鳥 [自然]

ネットによると、アジサイはおおまかに分ければ

 

- ヤマアジサイ

 小型種で、額咲きが大半。日本や台湾等の山間部に自生。北海道等の北部に自生するエゾアジサイも近い種。

 

- ホンアジサイ、ガクアジサイ、西洋アジサイ、ハイドランジア

 大型で、手毬咲きの方が一般的。ガクアジサイは海浜性の分布。ハイドランジアは、山間部のヤマアジサイと海浜近くのガクアジサイの交配種。ハイドランジアは、毎年、多数の新品種が作出されている。

 

- アメリカノリノキ

 北米原産で、アナベルが一番有名な品種。カシワバアジサイも同じグループ。

- その他・・・タマアジサイ、コアジサイ、コンテリギ、ツルアジサイ、ノリウツギetc

 

 とあるが、額咲きヤマアジサイとガクアジサイはどう違うのかよく分からない。

さらに、改良種、園芸種になると100以上(注)あるらしく、道端やよそ様の庭で咲いているのを写真検索しても、名前の特定はなかなか難しい。

 

(注)アジサイの種類は約3,000品種以上あるとも言う。毎年無数の新品種が登場するため、確かな品種数はわかっていないとも。

 

 

 アジサイは、今年あたり歳なのか綺麗なような気がする。2年毎という説もあるらしいが詳しいことは知らない。

 散歩コースの団地の庭の一角に、愛好者が2、3年前に植えた紫陽花が育ってきて、今年はすこぶる見応えがある。

 

 名の特定にチャレンジしてみた。

 

①八丈千鳥(ハチジョウチドリ)

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 伊豆諸島の八丈島で発見されたガクアジサイ。栽培品種ではない。

 他に類のない極細弁の八重額咲きの花。有名な細弁のアジサイにダンスパーティーがあるが、ダンスパーティーより、八丈千鳥の方が細い。常緑四季咲きという特殊な性質で、装飾花の花形が時期によって変わるという特性を持つ。

 

 名前があっているかどうかを5段階の確度で示せば、最高を5として4くらいか。


 

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このアジサイの名は何? ②ダンスパーティー [自然]

 ダンスパーティーは、日本に分布するガクアジサイとアメリカの園芸種を掛け合わせて作られた園芸品種。

 

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 1994年頃に静岡県の加茂花菖蒲園で作られ、鉢物のギフトが数多く流通するようになって一気にブレイクし、以来不動の人気を誇るアジサイ。 ダンスパーティーの花期は6月~7月。

 細弁アジサイの中でも有名なものだが、八丈千鳥(①ハチジョウチドリ)よりは弁が細くはない。

 名の由来は、花の中央に集まる小さな両性花の中に装飾花が疎らに咲くため、ダンスホールで踊る人を連想させるような花姿から。

 

 これも名前があっているかどうかの確度は5段かの4か。(5を最高として)


 

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このアジサイの名は何? ③アジアンビューティ [自然]

 検索するとアジアンビューティーとあるが、多分そうだと思う。

 しかし確たる自信はない。前回と同じく5まではいかない4か。

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 ヤマアジサイと西洋アジサイを交配した品種。完全に開花すると中心部が白く、赤い縁取りのコントラストが美しい。

 ヤマアジサイとの交配なので多花性(花数が多い性質ー園芸用語)の特徴があり、大変花付きがよく露地植にすると一層映える。

 日本古来の山アジサイを鉢物向けに改良・選抜を繰り返し誕生した新品種。銅葉(銅のように赤黒く光沢のある葉でブロンズリーフともー園芸用語)がかった葉色。


 

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このアジサイの名は何? ④シンデレラ [自然]

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 シンデレラは中心の両性花の周りに、バランス良く装飾花が配置されていてエレガントなガクアジサイ。

 装飾花はあまり多くなく、装飾花の軸が長めで両性花より少し離れてふんわりした感じに咲く。装飾花は、八重咲きで星のように咲く。その花弁は細長く八丈島千鳥と違って丸みがある。また装飾化の茎が心持ち短い感じがする。

中心の両性花が青なので土が酸性だと分かる。(アルカリ性ならピンク色)。なお、周りの装飾花は土壌酸度にかかわらず白。

 

 両性花と装飾花の色が違うアジサイ品種は珍しいとか。

 

 これも写真検索だが、ほかに似たようなアジサイがあり、残念ながら確たる自信はない。わが確信度は5の3か。

 

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このアジサイの名は何? ⑤アナベル [自然]

 アナベルは、北アメリカ東部に自生するアメリカノリノキ(Hydrangea arborescens)の変種を品種化したアジサイ。

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 園芸品種として作出されたものではなく、イリノイ州のアンナ市の近くで発見された、野生のアジサイ。

 通常のアメリカノリノキは小さな装飾花が花序の周囲に額のように付くが、発見された変種は大きな装飾花を手毬状に咲かせるものだった。

 この変種をオランダで選別・改良し、品種化したのがアナベル。

 アナベルの名前の由来には所説ある。

 ⑴古代ローマ時代の男性名アマビリス(Amabilis)を女性化したアナベル(Amabel)に由来するとする説。アマビリスとは「愛すべき」という意味。

 

 ⑵アナベルの原種が発見されたイリノイ州アンナ市に因んでいるとする説。

「Anna belle」とは「アンナの美人」という意味。

 

 ⑶エドガー・アラン・ポーが最後に残した詩「アナベル・リー(Annabel Lee)」に由来するとする説。

この詩は、アメリカの地方伝説である船乗りと娘の悲恋の物語を元に創作されたのではないかと言われている。

伝説は亡くなってしまった娘を思い続ける船乗りの話で、ポーは若くして亡くなった妻への思いをこの詩の中で綴った。

 

このアナベルは有名でネットなどで画像を見たことがある。まず間違い無いのではと思う。

検索の確信度は最高の5。


 

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このアジサイの名は何? ⑥フェアリーアイ [自然]

 フェアリーアイ(妖精の瞳)は、2006年第1回ジャパンフラワーセレクション フラワー・オブ・ザ・イヤー(最優秀賞)を受賞した群馬県の坂本正次氏が育種した話題のアジサイ。花形の変化と花色の変化が両方楽しめる、今までにない新品種。

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 フェアリーアイは咲き始めは八重のガク咲きだが、時間が経つにつれ手毬に変わり、その後はグリーンに、そして秋には真っ赤に花色が変化する。

- 学名:Hydrangea macrophylla "Fairy Eye"

- タイプ:アジサイ科(ユキノシタ科)の耐寒性落葉低木

- 植付け適期:3月~4月/開花期:5~9月

- 樹高:50~150cm

 写真検索だが、これに似たアジサイは他にもあるようなので、特定にもう一つ自信がない。

 ガクアジサイだが手毬に変わり、色もグリーンにそして秋には真っ赤になるというので秋になれば確認できるかも知れない。楽しみだ。

 今のところ確信度3。

 学名にフェアリーアイが入るとは知らなかった。流通ブランドではなかったのか。


 

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このアジサイの名は何? ⑦天使のほっぺ [自然]

天使のほっぺ

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「天使のほっぺの最大の特徴は、花色の変化。咲き始めは明るいグリーン、徐々に全体が白色になる。全体が真っ白になった時の白は、透明感がある純白。その後、真っ白だった花色に濃いピンク~赤色が入ってくる。

 この時、一気に色が変化するのではなく、少しずつ縁から染まっていく様が、ほっぺが赤く染まる様子に似ていて、愛らしい。天使のほっぺが白から赤に染まるのは、紫外線が関係しているといわれている。つまり、花色が白くなった後、太陽光に当たることによって、赤が入りやすくなる。」

 ネットには上記のように説明がある。自分が撮影した時は既にピンクになっていた。

したがって咲き始めのグリーンとその次の白の時代は見ていないことになるが、多分天使のほっぺに違いなかろうという気がする。

 なお、緑から赤に変わる「天使のリップ」とか「天使のエクボ」という品種もあるという。とりあえず確信度4。


 

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このアジサイの名は何? ⑧カシワバアジサイ [自然]

 カシワバアジサイ(柏葉紫陽花、学名:Hydrangea quercifolia)は、アジサイ科(ユキノシタ科)アジサイ属の落葉低木。原産地は北米東南部。花の色は白。

 

 葉の形がカシワに似ていることが、和名の由来。花は円錐状あるいはピラミッド型に付く独自の形状をしており、5月〜7月に真っ白い花を付ける。八重咲きと一重咲きがある。 一般のアジサイとは異なり全体の印象としては木のボリュームに比し、花が少ないのが特徴。葉には切れ込みがあり、秋には紅葉する。古くから日本にもあったが、最近、一般に出回り始めた。(ウキペディア)

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 たしかにここ数年あちこちで見かけるようになった。秋になると深いボルドー色になる。紅葉した後、冬は落葉して越冬する。

 なお、ネットのとおりカシワバアジサイには八重と一重の二種類あるらしい。

 

 ⑴カシワバアジサイ・スノーフレーク

 八重咲き品種。花の色は白で中心がグリーンを帯びる。横に広がる樹形で、花の重みで開花時は垂れるような見える。

 

 ⑵カシワバアジサイ・スノークィーン

 一重咲き品種。円錐形の花は上向きを保つ。

 

 写真検索の結果、カシワバアジサイまでなら確信度5だが、これがスノーフレークかどうかになると確信度3くらいまで下がる。

 八重咲きなのでカシワバアジサイ・スノーフレークであり、一重咲のスノークィーンではないという確信はあるが。


 

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岸田秀再読その8 「日本史を精神分析する」2016 [本]

 

「日本史を精神分析する 自分を知るための史的唯幻論」岸田秀 聞き手柳澤健 亜季書房 2016

 

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 2016年刊行なので著者83歳。比較的最近の岸田秀氏の考え方が分かると思う。聞き手柳澤 健氏は文藝春秋退社後フリー。「日本のレスリング物語」などの著書あり。

 

 いわば自己、自我を知るためには唯幻論による歴史の理解が一番良いとする岸田秀氏独特の論理を展開している。

 

 まずは、本題と直接関わるものではないが、「本能が壊れた」とする説明に関して気になった箇所がある。

「キリンの首は少しずつ伸びたのではない。絶滅の危機に瀕した時、全員が集団で、意図的にいきなり長くした。種の作戦だ。首が中間の化石は出ていない。 生命体の主体的意志 人類は幼形成熟、未熟児として生まれ、おとなにならないという作戦を立てた。 そのため本能に書き込まれた行動様式で生きられず本能が壊れた。壊れた本能の破片を拾い集め個人では自我、集団レベルでは文化を形成した。 行動様式のみならず世界像も壊れたので再構築のため言語を発明した。自我とは超越的な動物を模倣して道具を作る。孤立、孤独に耐えられず自我は家族、民族国家、神まで作って繋げたのだ。 人類の作戦は失敗した結果、本能が壊れて変な動物が地球上に出現し他の動物は迷惑を蒙っている。」

 

・きりんの話は、人類はある時一斉に意図的に、幼形成熟つまり大人にならないという進化を果たしたと言いたいのだろう。しかし、退化する蛇の足も徐々に時間をかけて体内へ入ったと考えるのが自然のような気もする。このあたりは生物考古学の領域だと思われるが、岸田氏の感覚的発想が窺えて面白い。また人間は、本能が壊れていない動物を上位に置き、そこから道具を発明した(鳥から飛行機)と逆転の発想をするのも氏の特異性を示す。凡百はあまりそういう思考方法は取らない。つまり人間が動物の中では最も進化した(上位にある)存在であると考えるのが一般的だ。

 

 さて、氏は個人レベルの自我と対応させて、集団レベルの文化である歴史を語るところに特徴がある。この二つが相互に行き来するので、説得力がある。つまり自分のこととしてみて(比べながら)歴史を辿るからであろう。

 国家(あるいは集団)の内的自己は、外国に反発して外国を憎悪し、外国との関係国際関係から逃亡し、誇大妄想的自尊心の中に閉じこもろうとする。(岸田氏はこの本で書いてないがー誇り、自尊心、かくあるべしという理念など)

 一方で外的自己は外国を崇拝し、模倣し、外国に屈従する。(これも岸田氏は書いてないが他人、他国、世間などへの憧憬)

 史的唯幻論は集団、国家はこの内的、外的自己の間を揺れ動いて歴史を紡いでいるのだとする説である。

 個人もそうだが、集団も自己は外的自己と内的自己に分裂しており、歴史的事件はこのいずれかが表面に出た現象だとする。なるほどたいていのことはこれで説明可能だ。

 

 大化改新は、崇仏派の蘇我氏の政権(外的自己)を廃仏派の物部氏、中大兄皇子、中臣鎌足(内的自己)が崩壊させた反乱であり、外的自己の足利幕府、北朝が内的自己の南朝、後醍醐天皇と戦ったのが南北朝時代だとする。

 明治維新は、外的自己の開明派(薩長土肥)と内的自己の鎖国派(尊王攘夷派、佐幕派)との戦い。西南戦争は外的自己の大久保利通と内的自己の西郷隆盛との衝突。

 白村江の戦い、ペルリ来航、源平合戦、日清、日露戦争、太平洋戦争しかり。

 ただ征韓論を主張した西郷、ペルリと和親条約を締結した江戸幕府などの例もあるごとく外的自己と内的自己は不安定で時には揺れ動く。

 平安朝と江戸時代は内的自己の時代。それぞれ安定の時代で文化芸術が花開く。

 外的自己の時代に抑圧された内的自己は、消滅せず息を吹き返す。60年安保闘争、三島由紀夫事件 力道山。ゴジラ。太平洋戦争はその典型的なもの。

 

 ではなぜ自己は内的自己と外的自己に分裂するのか、たしか個人の場合は壊れた本能の代用品である自己は元々不安定だから、集団の場合は共同幻想だからだったか、(今確たる自信がないのでひとまず置いておこう。)

 同じ論理で現代の日米韓の関係をこう説明する。日中関係も同じで相互の歴史認識の一致は度し難い。

「日本人が韓国人の屈辱と怒りを理解できないのは、現在の日本人がアメリカ人に対して、かつての日本人に対する朝鮮人のように、媚びた笑顔を浮かべて自ら進んで卑屈に迎合しており、かつ、そのことを否認しているからであろう。おのれの見苦しい面から目を背ける者は、他者の同じような面が見えなくなるのである。

 いつか、将来、日本が対米依存から解放された暁には、現在の韓国人が日本人を恨んでいるように、アメリカ人に対する日本人の積年の恨みが噴出するであろう。その時アメリカ人はなぜ恨まれるかわからず、日本人は恩知らずだと思うであろう。日韓関係の歪みは日米関係の歪みとつながっている。」

 

 歴史が内的、外的自己の間で揺れ動くのであれば、なぜ動いたか要因を考えればこれから日本はどうすれば良いかのヒントが得られるはず。

 個々人も内的、外的自己との間で揺れ動いて来たのだから、なぜ動いたかを自省すればどう生きるの指針となるはず。(表題の副題「自分を知るためのー」という意はこのことであろう。)

 その答えは、抑圧された自己を見つめることしかないが、それを認めることは自分の存在を否定しかねないので、極めて難しい、というのが岸田理論。せめてその難しさを自覚して生きるのが、愚行を回避する道であると。個人はそれで良いが、日本国はどうする。

 この書は我が国の現在の内的自己を対米依存、属国的情況と捉えてそこからの脱却が出来ないとすれば、そのことを自覚すべきであるとする。それ以上のことを言ってはいない。

 ただ、氏の憲法改正論が紹介されており、一つの考え方であろう。

「憲法改正して自主憲法を制定すべし。与えられた憲法という事実は消し難い。ただし、 今やれば日本は属国なのでアメリカ寄りになることは必至。安保破棄(属国からの脱却=基地廃止)が先。9条は賛成。これで長年戦争をしなくて済んだ。自主防衛せよ。日本を攻撃すれば痛い目にあうという程度で良い。核兵器を製造しようとすればすぐ出来る状態を保つべし。」

 日朝、日中、対米関係についてもこれまでの歴史を精神分析的手法で説明しているが、これからの方向などについて明示されてはいない(と思う)。

 

 氏は本書の末尾で次のように書いているのを知った。気分から史的唯幻論に至るとは改めて驚きを禁じ得ない。

「ところで、自分が日本兵の死骸の写真を見ると陥る憂鬱な気分と、自己犠牲的・献身的な母のイメージを思い浮かべると陥る、憂鬱な気分とはどういうわけか同じような気分なのであった。自分の人格障害と愚劣な戦いを強行した日本軍の兵士の死骸が重なり、日本の歴史を考えると二つは同じと気づき、自分の人格障害も消えた。」

 読後感

  ①総じて面白い。難しい表現が難。

  ②自分の場合はどうだったか考えてみる気になる。特に老人の懐古、回顧に良さそう。

  ③内的外的自己、唯幻論などというと難しい感じがしてしまうが、もっと平易な説明方法があれば良いと思う。

  ④それがないのなら漫画やアニメ、絵本などで表現したら面白そうだ。しかし、これも難しそう。

  ⑤自分の時代は、教科書に書いてあっても現代史を高校までにほとんど学ばない。江戸時代までで終わり受験勉強に入った。大学教養課程でも同じである。今でも同じではないか。これからのことを考えるのに、一番大事なことを学んでいないなと本書を読んで痛感。


 

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岸田 秀再読その9 「日本人はどこへゆく」岸田秀対談集 2005 [本]

「日本人はどこへゆく」岸田秀対談集 青土社 2005

 

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 生きること、考えること 池田晶子(1960〜2007 46歳6ヶ月没)

 

 池田 晶子は、日本の哲学者、文筆家。東京都港区出身。 専攻は哲学。専門用語にたよらず日常の言葉によって「哲学するとはどういうことか」を語り続けた。著書に『帰ってきたソクラテス』、『14歳からの哲学』など。ウィキペディア

 

 池田晶子の没後「わたくし、つまりNobody賞」が創設されたように、岸田氏と虚無感など持つ雰囲気が似ていて、二人の対談を期待して読んだが、噛み合わなかった感じ。池田氏の考えることは趣味ではないか、と言う岸田氏の問いを彼女は無視する、といった具合。死生観のところも、最後の全部あるという逆転に対する岸田氏の反応もない。残念。

 

 岸田  死を恐れると言うのは、非常に個人差がありますね。

池田 私には全然ないんですよ。何故かと言うと、死がないからです。徹底的に考えたら、本当にない。

岸田 自分の死なんてものは人体験できませんからね。

池田 そうです。だからないんです。他人が死ぬのを見て自分も死ぬんだろうな、と言うのは類推に過ぎないでしょう?死体を見て、それを死だと思っているんですけど、それは死体であって死ではないんですよね。世の中どこを見ても死はないんだと気づいたら、あやっぱり全部あるんだってわかるんですね。

 

ニッポンの「性」はどこへゆくのか 佐藤幹雄

 

 佐藤氏がどんな人か不明だが、対談の相手の紹介が無いのは不思議な本だ。

 男は女から作られたと言うことを、岸田氏は知っているのだろうかとずっと頭にあったが、さすがそんなことは承知の助であった。恥入った。しかし、これを読むと男の方が女より幻想力が強いかの如く見えるが、そんなことはないように思うがどうだろうか。

 

岸田 生物学的に見ると、種族保存のためにはメスだけいれば良いので、オスはいらないのです。オスは後から余計なものとしてできたので、体質的にも女より弱いし、寿命も短いのは当然ですね。その弱点をカバーするためか、人類を存続させるために、社会規範を作り、その社会規範を支える大人と言う役割を無理に男に押し付けたわけです。男が進んで引き受けたのかもしれません。でもそうした社会規範が崩れ、男が無理して頑張らなければならない意味がなくなった。そんな感じですね。p 83

 

「自己」という病、「近代的自我」という幻想 河合隼雄(1928〜2007)

 

 

河合 隼雄は、日本の心理学者。教育学博士。京都大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。文化功労者。元文化庁長官。国行政改革会議委員。専門は分析心理学、臨床心理学、日本文化。 兵庫県多紀郡篠山町出身。日本人として初めてユング研究所にてユング派分析家の資格を取得し、日本における分析心理学の普及・実践に貢献した。ウィキペディア

 

 さすが同じ精神分析学者同志、話は早いという感じ。5歳年上の河合氏が岸田氏を立てているのが微笑ましい。ユンクの河合氏は穏やか、フロイトの岸田氏は過激。河合氏がセラピストだからか。たしか河合氏は箱庭療法士だったような。

 

岸田 結局気がついたのですけれど、「本当の自分」とか「真実の自己」とか、そんなものは自分の中に実在しているのではなくて、自分と言うものは結局「他人の中にある」と言うことに行き着いた。だから「自分を知る」ということは、自分の心の中を探求するのではなくて、自分は他人にどう見えているか、他人が自分をどう見ているかを知るということではないか。自分とは実体じゃないんだと考え始めましたね。p94

河合 「本当の自己」があると思うから、不安が2倍になるんですよ。僕はないと思うからね。それが当たり前と思って上手に転がしていかないと。

 

一神教vs多神教 浄土真宗本願寺派安芸教区にて

 

岸田 精神分析は、このように宗教と関係が深いですが、人間の見方において、浄土真宗ともよく似ていると言うところがあります。例えば、「歎異抄」にかの有名な「善人、なを、もて、往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言う文句がありますが、これを私は「自分を善人だと思っているような無自覚な人だって救われるかもしれないのに、おのれを見極め、己の悪を直視し、自分が悪人であることを知っている人は、救われるのは当然だ」と言うことだと解していますが、精神分析療法はまさにこのような善人を悪人にすることを目指すのです。 

 

 岸田氏の宗教観がずっと気になっていたが、流石に造詣も深く思考も深い。

 

 世界共存のための条件 西垣 通(1948〜)

 

 西垣 通は、日本の情報学者、小説家。東京大学大学院情報学環名誉教授、工学博士。 コンピューター・システムの研究開発を経て、情報化社会における生命、社会を考察する。『アメリカの階梯』などの小説も執筆。著書に『集合知とは何か』、『ビッグデータと人工知能』など。ウィキペディア 著書に「1492年のマリヤ」も。

 

西垣 人間中心の20世紀の知に対して、21世紀の知はどこが違うかと言うと、新な生命観ではないか。近頃の動物行動学とか分子生物学によって、人間と他の生物との境界がぼやけてきているのです。そういう新しい考え方に立って、もう一度仏教的かどうかわからないけれども、生きると言う意味を情報から見直す。あらゆる生き物の命はかけがえのないと言うのは、昔の日本人の素朴な聖性としてあったはずですしね…。それが多神教と一神教を結ぶ次元になるなんて大それた事は言いませんけれども、入り口位は覗いてみたいとぼんやり考えているのです。

 

岸田 生命の流れというのは、まさに我々人間も地球上の生命の中流の中にいるわけですけれども、僕は、人間は本能が壊れた動物で、その代わりに自我を作ったということをよく言っているわけです。自我というのは、いわば生命の流れから外れた存在じゃないか。それが人間存在の根拠になっている。そこで人間は、基本的に生命の流れから外れているという疎外感がある。そこの疎外感を何とかして生命の流れを全部失っているわけじゃないけれども、そこから疎外されていますから、生命の流れの中に戻りたいというか、それとつながりたいというか、つなげてくれるものか、が聖なるものというか、宗教的なものなんだと僕も考えているものです。無我ということが、仏教の基本原理ですが、自我を捨てる、自我を超える事を悟りの境地としているわけで、そのような気持ちには到達できないかもしれませんが、無我とははまさに、生命の流れから外れた人間の、そこへ戻りたい憧れを表しているのではないかと思います。

 

 新しい遺伝子解析や生物進化学、動物行動学とか分子生物学になどの情報学の進歩の上に新しい生命の流れ、生命感を考えたいとする西垣氏に対して、変わらず岸田氏は唯幻論を説く。頑固というか、強い意志、信念というか、幻想への確信(?)というかは、見上げたものだと驚くしかない。

 

 西垣氏との対談ではこのほか、一神教と多神教、聖俗分離、聖俗一致などについていたく興味を惹かされた。

 

西垣 一神教批判の暴力的、攻撃的性格は分かるが普遍論理的で諸民族を通して人間を結びつける力がある点には感心する。一神教の限界を知って欲しい気もある。一方でまた自閉症的共同体に見るように、多神教のいやらしさもある。一神教と多神教の共存は考えられないだろうか。

岸田 一神教は遠慮しないのが原理。遠慮すれば一神教出なくなる共存は難しい。

プロテスタントとカトリックではプロテスタントの方が一神教的。ユダヤ教とカトリックではユダヤ教の方が一神教的。プロテスタンティズムは、カトリックよりユダヤ教に近い。したがってアメリカはイスラエルに親和性。聖俗分離のプロテスタントは資本主義を生み科学を進歩させた。(社会学者マックス・ウエーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に見られるように。)

 

アメリカの原爆投下は、俗が最優先され、聖が俗に従属して俗を正当化したから出来たことだ。

 

あとがきで岸田秀氏は、この対談集の主軸は一神教と多神教であるとし、次のような結論に至る。西垣氏の問いに対する答えと同じである。

 

「あっちで多神教を非難し、こっちで一神教を罵倒して矛盾しているようであるが、私は、基本的には多神教である日本に何とか、一神教の欠陥を避けつつ、その利点を取り入れる道は無いものかと、虫のいいことを考えているのである。その場合、多神教はいい加減というか、寛容であって、多くの宗教の中の1つの宗教として一神教を容認するのであるが、他の宗教を認めないのが、一神教が一神教である所以であるから、一神教は多神教を容認せず、したがって、一神教と多神教の間には、お互い相手の利点を認め合い譲り合うと言う多神教的妥協は成立しないらしい。問題は難しい。」

 

 読後感

 精神分析、心理学は宗教とはごく近い。自分の宗教についての常識の無さ、宗教観の希薄なことを気付かされた。考えさせられること、考えねばならぬことは多いと知る。


 

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