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岸田秀再読 その34「嫉妬の時代 1987」 [本]

 

「嫉妬の時代」  飛鳥新社 1987

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 刊行時の著者54歳。帯にはこうある。「他人の幸運が妬ましくて、妬ましくて…。」「旧秩序が滅びた今、平等主義に醸成された嫉妬の感情が日本を支配している。」

 

 帯は編集者が売らんかなと、本の内容を考え抜いた短文で読者にアピールするものだ、と承知で読めば、(時に作者の意図と反していても)一般人にはとても参考になるので、図書館の人が本の裏表紙に貼り付けてくれていると、真っ先に有り難く読むことにしている。

 本の内容は、当時起きた下記の事件を題材に、教育、経済、親子関係、いじめ、メディア問題などを論じ、最後に「嫉妬」そのものをQ&Aで唯幻論で解説するという構成になっている。

 

「三浦和義事件とは何だったのか(1981)」、「戸塚ヨットスクールと戦後教育(1982)」、「豊田商事(1980前半)に見る資本主義的構造」、「積み木崩し(1982)が物語る親子関係」、「なぜ鹿川君はいじめられたのか(1986)」、「写真週刊誌がよって立つモラル」

 

 このうちやはり強く印象に残ったのは、やはりいじめ問題(東京中野区富士見中鹿川君事件)である。それもいじめる子、いじめられる子、まわりの親、教育者たちの精神分析でなく、問題が起こる背景、構造を論じた部分である。岸田氏はその原因を戦後教育の欺瞞のせいだとする。

 

岸田 学校、教師が生徒を一定時間一定の場所に縛り付け、生徒のやりたくないことを強制し、校則を押し付け、些細な逸脱を罰し・体罰を加える、いじめをしている。生徒はこの教師の行動パターンをコピーする。それがいじめである。

 戦後教育の民主主義、自由主義、平等主義(落ちこぼれ、能力差の無視)、平和主義(いじめの陰湿化)、すべてが嘘八百。

 

→30年以上経った今も、いじめ問題は収まるどころか増え続けている。いじめの原因は①子供の側と②戦後教育の嘘八百との両方にあると岸田氏は結論付けたが、子供の側は戦後教育の構造のもたらしたー結果であるから、戦後教育が変わらぬ限り、いじめは無くならないと思う。嘘八百をどう変えるかこそがいじめを無くす唯一の道と教えるが、その難しさは、30年経ったいまでもいじめが増え続けている現実が物語っている。今更、寺子屋、自由塾に戻すとかも出来ない。人間とは何と知恵のない生き物か。

 

嫉妬とは何かQ&A

 

 嫉妬と羨望の違いはー嫉妬は所有物を取られた時に起きる、羨望は所有してないものを羨むもの。根は同じ。

 自我の中心をなすのが現実我。現実我は他人から見た自分。自分の気に食わないものを排除、抑圧してエスへ閉じ込める。

 幻想我は全知全能から見た自分。極端(誇大妄想、自己否定)なものをエスへ閉じ込める。自我の一部をなす。

 現実我+幻想我+エス=自我

 嫉妬は幻想我の投影である。

 嫉妬は自我の構造の構成要素なので人は常に嫉妬している。嫉妬が自我の根本気分。自我が捨てられない限り、嫉妬は克服出来ない

 幻想我の大部分は見失っている。人間は、その生涯をこの見失われた本当の自分を取り戻す、幻想我を現実化することにかけると言っていい。人間の欲望は、全て幻想我を取り戻そうとする企ての様々な表れだ。この企ての根底にあるのが嫉妬です。幻想我こそはかつては我々が全面的に所有しており、今や他者に奪いとられているもの。p216

人格構造は変更不可能ですが、自我構造は変更の余地がある。容易ではなく、限界もあるが。自我は、全人格の1部の要素を構造化したもの、人格の全要素を組み込んでいる自我が最高に良いが、現実にはあり得ない。

 

→この後段は分かりにくい。

 

読後感

 あとがきで本書を唯幻論の応用編として読んでも良い、と岸田氏が言っているように基本的にはすべては幻想であるとする唯幻論が基調で書かれている。ただ、他の本では嫉妬が表面に出ているものはあまり無い。むしろ欲望として論じられているものが多いので最初少し戸惑う。嫉妬は欲望と同義ならどちらかにしてほしい気もする。「嫉妬の時代」と「欲望の時代」では、読む側としてはニュアンスが少し異なる。


 

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