岸田秀再読 その37「母親幻想」 岸田秀 1998 [本]
母親幻想 岸田秀 新書館1995 改訂 1998
初刊は著者62歳の時のもの。例によって「§・章」ごとに気になる言葉をおってメモしながら読んだが、難渋した。あちこち話が飛ぶので、どうもメモが取りにくい。
また、文体はこれまでとちょっと違う感じ。基本的には「ですます調」であり、「つぶやき調」、会話文でもないが、時折り読者への話しかけがあったりする。名文家の岸田氏だから分かり易い文章が多いことに変わりないが、話が飛ぶのがいちばん困る。
他にメモ難渋の原因は、今夏の猛暑のせいか、加齢のせいか、かなりわが脳が脆弱化していることにあるようだ。
テーマは母子。父と子の関係もだが難しいテーマではある。特に男がこれを書くには相当の努力・力量が求められる。自分にはとても出来ない。
なお、余計ながらこれは岸田氏には少ないいわゆる「書き下ろし」に入るのだろうか。
1§ 母と子
1§−1日本の根本は母子関係にある
ヨーロッパは子ども性悪説だが、日本はこれがなかった。
日本の場合、社会全体の根拠(絶対的普遍的観念)は母子関係=人間が体験する最初の人間関係、ヨーロッパの場合は神(神が死ねば後釜の革命とか正義)。それぞれメリットデメリットがある。
→ヨーロッパというか唯一神教は人間性悪説にたつ。だから原罪があるし、人と神の間に契約が必要。日本は性善説。赤子は赤心、無垢。世に染まり悪くなる、と他の岸田氏の対談集で教えてもらった。
→性愚説というのは無い…のか。
1§−2母性愛は自己愛の延長
母性愛は実は自己愛の延長であることが多い。子供の自我をどの程度認めるか、感情のコントロールを効かせられるかが大事。子供の自我が目に入らない盲目的愛情は偽りの愛情。p37
→岸田氏の母親との葛藤の経験が影響しているか?自我を客観的に自己分析し相対化するのは至難、と他の岸田氏の著書で読んだような気がする。
1§ −3母子関係は反復する
母子関係は反復する。親への批判は自己批判にはね返る。母親の子供に対する関係は世代から世代へと反復する。愛情を注いでかつ束縛しない育て方がベストだがこれが難しい。
1§−4選択肢の多様化が破綻生んだ
母と仕事いずれを選ぶか。みんなが役割を意識する時代が母子関係を難しくしている。誰もが母子関係に悩みを持っているが、とくに表現者達に親子関係問題(相剋、齟齬)を抱えている人が多い。
1§−5性の根本的問題は母親にある
母子関係がセックスの根源。父親は観念。日本は母親中心主義。人間はなぜセックスをするのかまだよくわかっていない。本能ではなく文化=人工的な介在物がいる。日本の場合は根拠に母子関係をもってくるのが最も手近でしょう。一神教の場合は神様を持ってくることもあります。p70
1§−6「職業としての母親」の時代
夏目漱石の「こころ」、「行人」妻を試す。女性を第三者が価値を認めるかを試してから自分の所有物にする。母を試している。継母コンプレックス。反復 何故貰いっ子なんかに、させたんだ!
実母、実父である必要がない。母親業があっておかしくない時代。プロの子育て師。王家の子育て。
自分の父母の認識は観念に過ぎない。人は他者と関係が持てないと生きていけない。家族関係は維持しなければならない。
2§ 家族
2§−1父性本能は存在しない
母性本能は崩壊。父性本能はもとよりない。
→母性本能は壊れてもわずかながらかけらが残るが、父性本能はもとよりないと断言されると少しさみしい。育休パパはどうする。
2§ー2父は昔から弱かった
「お母さん!」、「天皇陛下万歳!」も、本音と建前の違いでなく同じ文化に属する(母子関係を基準に対人関係の構造をつくった日本的社会)
日本兵はマザコンだったから弱かった。もともと闘争的民族でない。
軍国の母から教育ママへ。日本の先端産業の男たちを支えた。男と同じ社会的機能をはたしていた。過大な母性愛を要求することが子供いじめを生んでいる。
2§−3子育てが生き甲斐?
自由放任が良いとして母親がしつけをしなくなる。母親業と会社業のニ択。
2§−4少女のままの母親たち
世代全体が幼児化(男女とも)。ユング〜人間は恋愛すると幼児化する。かつてはほとんどの女性が母親という役割を引き受けたが、その文化は崩壊。現代は子供が不必要になり母親もそれに伴い不必要になった社会状況の変化。処女幻想、新卒採用の崩壊。共同幻想の崩壊。
2§ー5夫婦は親子を反復する
自分の親と正反対に子供を育てようとするのも反復強迫。夫との関係は親子関係の反復。子供は親の無意識層を見て模倣して育つ=親の無意識層をコピーする。
文化的遺伝。無意識層を引き継ぐ。文化は無意識的に遺伝される。親のしぐさやものの言い方、身体所作。無意識遺伝。親と似ているのではなく、人間一般の特徴だと思い込んでいる。ケチは人間一般の特徴だと思い込み親とは似ていないと思う。
日本はヨーロッパ以上に母親の気質や文化を模倣することが多いといえよう。
2§ー6父性は支配のために創造された。
家族を生み出す根拠となるのは社会である。その社会の体系について、日本文化は総じて母系制的であるのに対し、ヨーロッパ文化は父性である。
母系的なものは理念としては普遍的になり得ない。個別的なもの。
原理原則である帝国主義的支配は父系的でないとだめ。観念として父が生み出された瞬間父という観念が神になる。一神教のもとに帝国が成立する。近代日本の天皇も同じ。
3§ 学校
3§−1 学校制度が「いじめ」の原因
いじめは教育システム=学校制度が原因。母親が子供に目を向けすぎる母子関係に関連している。
→学校制度は徴税、徴兵のための国民を作るための教育システム。義務教育の一部までは必要だがあとは税金の無駄遣い、一利ありでも百害あるならやめた方が良いとするのが岸田氏の考え方。そうは言うけどねぇ…。世の母親の皆様どう思いますか。
3§−2教育者は人格者ではない
教育者は人格者というのは幻想。人格教育と技術教育の狭間で親、学生とも混乱中。
3§−3文部省不要論
教育システムが不備だから塾との二重教育体制になる。税金の無駄遣い。
学歴信仰打破、人格教育と技術・知識教育というアマルガム(異なるものの融合、筆者注)を解決しなければならない。
人格教育の破綻の結果、塾と新興宗教が発生したように新左翼、マルクス主義、オウム真理教も存在した。
→技術・知識教育の破綻が生み出した受験一辺倒、大企業就職願望はいじめの要因の一つ。
3§ー4母親教育が存在しない
規範となる母親像がない。若者の幼児化=母親教育を受けたがらない。
3§ー5窒息する子供たち
義務教育は国民の一体感=愛国心のためのもので学校制度の中心。国家という幻想を守るための学校制度のなかで子どもが窒息している。子どもがいじめる、いじめられている問題(登校拒否も同じ)は、母子関係の破綻とも連動している。
→説得力はあるものの、社会の中で生きるための最小限度の事は教えないとならないから、やめるわけにもいかない。解決策はどうする?
4§おわりに
4§−1母親は欺瞞のうえに成立している
村上春樹の小説には父母が登場しない、希薄な代理父のみ。現実的な両親の存在は希薄。吉本ばなな。「キッチン」いびつな家族構成。
戦争嫌い、平和の味方。母親という存在が欺瞞のうえに成り立っている証拠。
子育てを事業として見ている。子供のペット化。子供に自我が成立したとき親が態度を変えるのが難しくなる。親には必ずしも従わないその自我をも愛せるか。
4§−2母親幻想に頼れない時代
母親の代わりの女とセックスしたいというのが男の本音。男の子の前に最初に現れたのが母親だから当然。
恋愛問題、結婚問題、夫婦問題というのは母子関係の関数。法則の支配を受けていると本人が自覚さえすれば、法則の支配からある程度は脱出できるるのが精神分析の教え。
読後感
改訂版では読者のために多くの見出しをつけたと、著者のあとがきにあるが、見出しと中身がどう一致するのか、何を言いたいのかよく(話が飛ぶので)理解出来ない章がいくつかあって戸惑う。
主たる読者は母親と想定して書いたようにも見えるが、はたして子育てに悩む母親にどれだけ理解されるだろうかと訝しむ。
たぶんロジカルというより、岸田氏特有のものの言い方が、若い悩める母親の心に訴える力を持っているかも知れないなとは思う。典型的なのは表題の「母親幻想」だろう。本の題名として、キャッチアイ、キャッチコピーとして秀逸。悩める母親は飛びつきたくなる。装丁も「母親幻想」の大きな文字のみで目を惹く。
なお、「おわりに」は、何をおわりに言いたいのかよく分からない。結論はおろか要約でもないようだし、特に強調したいことでも無さそうだし。補遺のような。
母親の難しさは、特に日本では男社会なので、その原因の多くは男、父親が作り出している事は間違い無かろう。もっと男、父親の問題点を探り出し、あからさまにする必要があるが、この本では少し足りないような気がする。
蛇足
ふと想起しただけで本稿とは無関係。
短夜や乳ぜり泣く子を須可捨焉乎(すてっちまおか)
竹下しづの女(福岡県 1887~1951)
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