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岸田秀再読その1 「哀しみ」という感情 [本]

 
  岸田 秀(きしだ しゅう1933〜)氏は、心理学者、精神分析学者、エッセイスト。和光大学名誉教授。主著は「ものぐさ精神分析(1977)」など。この主著がブレーク、日本思想界にセンセーションを巻き起こす。「人間は本能の壊れた動物である」とし、独自の「唯幻論」を提言した。

 唯幻論など岸田著書はリタイアしてたっぷり時間が出来たので、河合隼雄、池田晶子、養老孟司などとともに何冊か読んだ。浅学の悲しさすべて中途半端な読書だったと思うので、(この著者だけ特別のことではないが)そんな考えもあるかでみな終わっている。

 

 当時の読書記録によれば、読んだのは「ものぐさ人間論」、「唯幻論論」(いずれも青土社)、「性的唯幻論序說」(文春新書)、「幻想に生きる親子たち」(文藝春秋)、などだが、主著の「ものぐさ精神分析」は記録に無かったので多分読んでいないようだ。また逆に「古希の雑考」、「不惑の雑考」などは書名を記憶していて、読んんだような気がするが記録には無い。我が記憶、記録ともあてにならない。

 

 ただ、岸田 秀氏の読者の多くは同じような印象を受けたと思われるが、人間は本能が壊れた動物でそのかわりに生じた自我によってコントロールしている、とか、自我は内的なものと外的なものがあるがいずれも幻想であるといった独自の言い回しが刺激的かつ新鮮で惹かれながらも、一方でそうはいうけどねぇ、と思ったものだ。

 中でも個の内的外的自我は国家のそれと通底している(国家の全体的構造と、その国に住む国民の個々の人格とは通底する・・・・)という論には驚かされた。ペリー来航や太平洋戦争などの独特な歴史解釈が印象的だったのをよく覚えている。

 

 岸田秀氏のことはこのブログでも何回か取り上げた記憶がある。そのうちの一つに

  水上勉の「原子力発電所」と岸田秀氏の「ペリー来航」

  https://toshiro5.blog.ss-blog.jp/2012-07-29

 がある。岸田秀氏の3.11発言を紹介したくだりだ。

「その岸田秀氏は福島の原発事故について発言している。

 「敗戦と原発事故は「人災」という点で合致しています。「人災」を生んだのは、日本軍にせよ原子力ムラにせよ、自閉的共同体が組織を構成していたからです。自閉的共同体とは自分たちの安全や利益しか見えず、しかもその自覚がない視野狭窄者の集まり。そうした共同体たる日本軍が日露戦争以来、強い軍事大国であるという「幻想」を捨てられず、結果として多数の犠牲者を出しました。同様に原子力ムラという自閉的共同体も原発は安全だという「幻想」に依って立ち、未曾有の被害をもたらしてしまった。日本軍と原子力ムラの精神構造は同一です。敗戦や事故の可能性はかねて指摘されていたのに、自閉的共同体にはそれが見えなくなっていたのです」「サンデー毎日 」(10・23号 「3.11と日本人の精神構造」)」

(原発事故は、自閉的共同体の幻想を捨てるため天がくれたチャンスだ)

 

 このブログ記事の中で自分はこう書いている。

「唯幻論、共同幻想、外的、内的自己分裂とか人間の本能は壊れているなど、耳新しい言葉が面白かった。自我は家族に国家に及ぶという一貫した考え方は、何となく納得感がある。しかし、40年近くひたすらサラリーマンを勤めてきた者にとってはどこか、何か説明出来ないのだが、少し違和感もあったことも覚えている。」

 

 今となれば違和感は、我がサラリーマン人生から生じたものでは無く、たぶん氏の唯幻論に対する我が半知半解から来ていることに疑いは無い。

 

 コロナ禍の中、しばらくぶりで図書館に行ったとき、たまたま岸田 秀氏の「哀しみ」とという感情(新書館 2007)」が目につき、つい懐かしくて手に取った。

(懐かしくてというのもあるが、もともと新しいジャンル、著者やテーマに挑戦しない性癖が自分にはある。)

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 この本は著者(当時74歳)が雑誌や新聞に書いて掲載された短文などを集めたもの。そのうちの一つであるこの表題をそのまま書名(本の題名)にしている。なぜこの一章を選んだのか気になったので、本棚の前でこの章だけ立ち読みした。読んで見るとこの一文が一番著者らしいからだ、と気付く。ある意味著者のものの考え方の元になっている原点の一つなのではないかと思った。

  曰く「哀しみと言えば、去年(車に轢かれて)飼い猫が死んだことが哀しい。〜中略〜ところで、猫に限らず動物一般は、喜んだり怒ったりはするが、哀しむことはなさそうである。〜中略〜どうも哀しみは人間特有の感情らしい。」として、人はやるが動物はやらないことは二つあるという。

 ①人は現実から目を離し他のことを想像出来る。(人は轢かれず生きて生を楽しむ猫を想像出来る)

 ②現実に感じている感情や欲望を抑圧出来る。(つまり轢いた人への恨みを抑圧しそこに哀しみの感情が生まれる。)

 想像力が豊かな人ほど哀しみは深い。(哀しみという感情2007)」

 

 著者は、上述の如く人間の本能は動物と違って壊れた、それでは生きられないので自我が生じ自我をコントロールするようになった。自我は現実とは異なる幻想であり、内的な自己(我)、外的な自己(我)の分離、国家の全体的構造と、その国に住む国民の個々の人格とは通底する、などと独自の「唯幻論」を展開する。この持論は「人と動物は異なる」と言うことが根底にあって、それをベースに構築、発展しているように見える。

しかしながら人は動物とは違うところもあることは確かだが、基本的なところでは同じなのでは無いかとも思う。

 人間は未熟のまま生まれ長期間親などの庇護がいるというが、生まれてすぐ歩き出す動物もいるしカンガルーやパンダなど未熟のまま生まれ長期間大人にならない動物もいる。程度問題だろう。

 例えば動物も人間と同じように相互に意思疎通が出来るとする説もある。言葉と文字がないだけのことで鳴き声や我々の知らないその他の手段で。(岸田秀氏も動物にコミュニュケーション能力がないと言っている訳ではないけれど。)

 また動物も怒りや喜び恐れだけでなく、哀しみなどの感情も持つとも推察出来る。子象が死んだとき、そばを離れぬ親象の悲しみ、パートナーを失った鴛鴦、主人を失った犬や猫でも哀しみの感情はあるとも思う。屠場に運ばれる牛の筋肉には特別の物質が発生すると何かで読んだことがある。牛も哀しむのだ。哀しみの感情は人間だけのものと断定出来ないと思う。人以外の動物の全てに想像力が無く、抑圧も無いと言い切る根拠は何か。

 

 人は確かに動物と異なる点もある。しかしその動物も脳の有無、大小、行動を含めて多様であり、種により似たところも違うところもある。人間だけ特異だと言い切るのは乱暴と言うものだ。そう考えると岸田 秀氏の持論を疑惑の目で見るようになる。

 岸田氏自身も認めている様に氏の唯幻論や国と国民の個々の人格は通底するといった議論は賛成派も多い代わりに批判派もいるのは、このこととも関連するのではないかという気がする。

 岸田氏の「唯幻論」はかなり感覚的である。言い換えれば感覚に訴えてくるものがあるのでついうなずいてしまうところがある。しかし生物学的に本能が壊れるということはどういうことか、本当に他の動物に似たようなものはいないのか知りたいものである。

大脳生理学的、遺伝子学的、生物学でもそんなことは解明出来ないよと一笑に付されそうだが。

 自分もだいぶ歳を重ねているせいか、次のような氏の死生観が書いてある一文が目についた。こちらはごく真っ当なものだなと思う。

「いつか死ぬ自分というものをきちんと知って、思い描く。そのうち死ぬんだという自覚しておく。明日死ぬかもしれないといつも考えておくことしか死の恐怖克服する術はないかもしれない。〜中略〜死に関する根源的な不安から人間は解放されないのだと諦めた方がいい。(ストレスは人生の必需品2008)」

 

 前述のように我が岸田 秀理論・「唯幻論」理解は中途半端で、多分誤解も多いだろう。養老孟司の文化や伝統、社会制度はもちろん、言語、意識、心など人のあらゆる営みは脳という器官の構造に対応しているという養老孟司の「唯脳論」と「唯幻論」は どう違うのか。

 また福岡伸一氏のように「私たちは、もっぱら自分の思惟は脳にあり、脳が全てをコントロールし、 脳はあらゆるリアルな感覚とバーチャルな幻想を作り出しているように思っているけれど、それは実証されたものではない。消化管神経回路をリトルブレインと呼ぶ研究者もいる。しかもそれは脳に比べても全然リトルでないほど大掛かりなシステムなのだ。私たちはひょっとすると消化管で感じ、思考しているかもしれないのである。人間は考える葦でなく、考える管なのだ。」という議論(できそこないの男たち  講談社2008)も気になる。

 

 もう少し氏の他の著書を読んでみようと思う。

 

 


 

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この木何の木? オウゴンモチ・マサキ? [自然]

 

 新緑は圧倒的にグリーンが多いが、カナメモチのように赤い新緑(?)もある。しかし黄色は珍しい。散歩中見つけた植木は、秋の銀杏イチョウなどの黄葉とは趣きの異なる明るい黄色だ。

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 グーグルフォト検索では、黄金黐(オウゴンモチ)か黄金柾木(オウゴンマサキ)という。 素人目にはどちらか判然とせず断定し難い。

 オウゴンモチであれば、モチノキ(餅の木・黐の木・細葉冬青、学名: Ilex integra)モチノキ科モチノキ属の植物の一種)の園芸種。

 オウゴンモマサキならマサキ(柾・正木、学名: Euonymus japonicus)ニシキギ科ニシキギ属の常緑低木。

 どちらかといえば、オウゴンモチのような気もするが決め手がない、

 

 なお、春の新芽が赤くなるカナメモチは、バラ科/要黐カナメモチ属常緑広葉/小高木。オウゴンモチ、オウゴンマサキとは別種だ。

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 園芸種レッド・ロビンはカナメモチとオオカナメモチの交雑種で、「セイヨウカナメ」の名で流通しているとか。

 この三つはモチノキ科、ニシキギ科、バラ科と科名が異なるのも面白い。

なお、オウゴンモチらしき黄色い芽の左隣に写っている濃い緑の植木は、写真では分かりにくいが、昨年検索して知ったカラタネオガタマ唐種招霊だった。今花の時期で強いバナナの香りがするのでこちらは間違いない。

 英名はバナナの木 和名が唐種招霊(カラタネオガタマ) 中国名は含笑花(ガンショウカ)である。

  バナナツリー 和名唐種 招霊よ 中国名は 含笑花なり

 と記憶の扶けになるかと三十一文字にしたりして覚えた。

  名を知れば あちこちに見る 含笑花 

 

 これは他の花木でも使った5・7・5なので記憶の扶けにはならないが、見た目は地味ながら香りが良く結構好きな方が多いらしく、よく植えられている木である。

 

 

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岸田 秀再読その2「保育器の中の大人 精神分析講義 (岸田秀 伊丹十三)」 [本]

 

 岸田 秀氏の「唯幻論」に賛同した一人に伊丹十三がいる。

 「ものぐさ精神分析」を読んで世界が俄かにくっきりと見えるのを私(伊丹十三)は感じた。私は、自分自身が確かに自分自身の中から手を伸ばして世界をつかみとっているのを実感し、驚きと喜びに打ち、震えた」(「ものぐさ精神分析」中公文庫版1978の解説)と書いている。その賛同、感動ぶりが伝わってくる。

 

 伊丹十三(1933‐97年)は、映画監督伊丹万作の長男として京都に生まれた。(たまたまだが、岸田秀氏と同年生まれである。)

 俳優であり、かつ映画監督(代表作に「お葬式」、「マルサの女」、「ミンボーの女」、「マルタイの女」など)として活躍する一方で、「女たちよ!」(文藝春秋1968) 「ヨーロッパ退屈日記」(文藝春秋新社、1965年) など、軽妙で洒脱なエッセイの書き手としても知られる。

 1997年12月20日、伊丹プロダクションのある東京都港区麻布台3丁目のマンション南側下の駐車場で、飛び降りたとみられる遺体となって発見された。当初からその経緯について様々な説が飛び交った。まるでミステリーのような最後だった。

 2000年、大江健三郎(伊丹とは愛媛県立松山東高同級生)の小説「取り替え子」に伊丹十三を思わせる人物が描かれ、話題となった。よく知られているように、氏の妻が女優の宮本信子で、妹は大江健三郎の妻大江あかりである。

 伊丹十三は、岸田 秀の「ものぐさ精神分析」(1977)を読み、彼の主張する唯幻論に傾倒する。翌年1978年12月、岸田との対談を収録した共著「哺育器の中の大人 精神分析講義』岸田 秀 伊丹十三(朝日出版社)を上梓した。

 

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 これを読めば少しは唯幻論理解に役立つのではないかと考えた。メールで予約して自分が図書館で借りて読んだのは、のちに発行された文春文庫を参照したというちくま文庫版(2011) である。文庫化は如何にこの本が売れて読まれたかを示している。

 「子育てとは何か?」「人を愛するとは?」「何のために人は生きるのか?」「男(女)らしさについて」…初歩的な、しかし避けられない問いは、自我の構造や(無)意識の世界、幻想や知覚の仕組みなど根源的な問題につながっている。稀代の才人・伊丹十三と、「ものぐさ精神分析」で知られる岸田秀が真っ直ぐな対話を通して、生きるために欠かせない精神分析の基本を丁寧に分かりやすく解き明かす。と帯にある。

 (精神分析の基本を)わかりやすく解き明かすとあるが、伊丹十三も精神分析の専門家なみの博識を駆使しており、どうしてどうして難解な対談ではある。

 挿入された何枚かのベン図?のようなものも、果たしてどのくらいの読者が理解の助けになるのだろうかと訝る。少なくとも自分にはすんなりとは読み解けない図が多い。

 

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 伊丹十三(生徒)の質問に答える講師岸田秀氏の発言をランダムに拾って見る。

・人間は本質的に未熟児で家庭が大きな哺育器である。

・本能が壊れたのは未熟で生まれたからだ。

・まず先に本能が壊れて現実との密接な接触を失い幻想を持ったのであり、 幻想を持ったからリアリティを失ったのではない。

・自己という内面はすべて幻想でできている。 剥いても芯はない辣韮の皮だ。

・現実は一つしかない。 色々な現実は無いので幻想と推測せざるを得ない。

・文化は幻想という松葉杖。 本能が壊れたので(=足が悪いので)松葉杖(文化=幻想)を使う。

・ある理想のために戦うことは立派ではなくそのこと自体が悪、暴力の行使と同じ。

すべては幻想だからそうムキになるな。

・正義や聖なるものを信じ怒鳴る者こそ人類の愚行の元凶だ。

 

 対談の最後は次のやり取りで終わる。難解対談を象徴しているエンドだ。

伊丹 そりゃそうでしょうねぇーしかし、唯幻論っていう以上は、唯幻論自身も幻想であることを免れないわけでー

岸田 まぁ、そうですね

伊丹 仮に、すべてを一番矛盾なく説明できる論理であったとしても、その時はすでに、論理性とか合理性とか、矛盾律とか同一律とかの上に立脚した論であって、つまり論理性と合理性という幻想を採用した上に成り立っているわけですからね、すなわち唯幻論もまた一場のー

岸田 幻想であるトー 幻想ではあるんですけれども、しかし我々何らかの幻想を持たざるを得ない。価値体系がなきゃ行動できないんだから、結局ーだからね、せめて、どのような価値体系にせよ、我々の信じている価値体系が幻想であるということを知っておけと言いたいわけですねーどうせ幻想なんだからームキになるなトー

 

 ちくま文庫版では、用語、人名解説も付され吉本隆明の解説などもあって頼りにしようと読むが、それら自体も難解なのだから困る。

 理解の一助になろうかと3点メモを取ったが、読み返しても余り助けにならないようだ。

 ①文春文庫坂解説 吉本隆明

 岸田秀さんの心理分析の特徴を一口に言えば、大胆で、粗っぽくて、そのかわり自分で考えて造成したあとがにじみ出ていることだと思う。これは、およそ、日本の心理学者や精神医学者からうける印象とは正反対のものだ。

 (以前岸田秀さんと)国家の共同幻想について論じあったとき、個人が幻想の中に入り込むときは、必ず逆立ちして幻想が身体で、身体が幻想のように入っていくものだと言う説明が、個人幻想の集合が共同幻想なのだという岸田秀の考え方からは納得してもらえなかったことを記憶している。ーーわたしはいまでも岸田秀さんを説得する自信があるがーー。

 「保育器のなかの大人たち」でも岸田 秀氏は納得していないようだと言う。

 「幻想」についてもこれをヒントに何回か対談における幻想の項を読み返すが、自分には吉本説も岸田説もよく理解が出来なかった。

 

 吉本隆明は岸田秀氏の心理学の構成の基本点は、次の6点をとりあえず押さえておけば良いと言う。これは自分にとって岸田論を理解するには大いに助けになった。

 ⑴乳幼児は空腹の時、隣に母親がいないと心に欠陥を発見する。その欠落が積もり積もって構造化した時、対象世界になる。だから、対象世界は、欲求の挫折の構造化であり、従って我々に敵対的なものだ。

 ⑵人間の欲求の根元は一次的ナルチシズムに帰ろうとすることだ。そして1次的ナルチシズムの特権は、全能感と一体感で、それが欲しいという願望があると言うことだ。

 ⑶性欲というものは、一次的ナルチシズムの復元の試みだと思う。そして人生は一次的にナルチシズムの世界から出発して挫折していく過程だといえる。

 ⑷近親姦のタブーは、父と娘、母と息子、兄と妹、姉と弟が家族的役割(身分)だから、男女の性的な役割と両立しないところに起源を持っている。

 ⑸フロイトの超自我、自我、エスと言う考え方は、立憲君主制の政体における皇帝、政府、民衆との類比から着想されたものだ。

 ⑹苦痛にもめげずに宗教者が修行したりするのは、自分が聖なる存在だというセルフ・イメージを証明したいからだ。自分の偉大さ、善人性と言うことを証明するためには、いかに人は全てを擲つか。肉体的苦痛まで受け入れることができるのだ、と言うことじゃないか。馬鹿げたことだ。

ー これに岸田秀さんの思想的な姿勢である習俗のニヒリズムが裏打ちされていて点晴を添えている。

 

 ②春日武彦(1951〜精神科医)解説 強靭で真摯さのこもった手作り感の魅力 

 「人生に意味はない。それは猫生や鯨生に意味がないのと同じである。本能が壊れた人間は、代わりに自我に頼って生きており、自我は幻想だから、もともと何の目的も役割も居場所もないが、それではどうすればいいかわからず、生きる元気も出ないので、自我を意義づけ位置づけるために人生に意味を必要とする。人間は、人生の意味を探すがないものを探すわけだから、必然的に様々な愚行を犯すことになる。愚行を全て避けようとすれば生きるのをやめるしかないから、なるべく愚行を少なくして何とか生きるしかない。」

 

と解説者は人生に意味はあるかと問われた岸田秀の答えを上記のように紹介しているのは、本人が唯幻論を端的に説明して、その論に基づく岸田秀氏らしい答えだということだろう。

 カウンセリングでクライアントが相談したとき、唯幻論で回答するとどんな質問でも大抵似たようなことになるだろう。吉本隆明の言う習俗のニヒリズムか。

 かくのごとく岸田理論では人間の本能は壊れたという前提に立ち、人生に意味はないという結論になる。尋ねた人は納得するか、反駁するか。こうまで断言されると唖然として黙るような気がする。

 

 ③文庫版の伊丹十三のあとがき

 私(伊丹十三)が対談で岸田秀から学んだことはー。

 人生で「他者と出会うためには、まず自分と出会う努力をする必要があるのであり、逆にいえば、自分に出会う努力をした者だけが他者ともよく出会うことができる」

 「自分と出会うということは、とりもなおさずエス(注)と出会うということに他ならない。(自我にはすでにに出会っている)ところがこれが筆舌に尽くしがたく難しいのだね。なぜなら、エスに出会うためには、とりあえずエスを直視する必要があるからである。ところが、エスと言うものは、自我から排除された、自我に反するもの出てきている。つまり、自分の中にそのような要素があることを、本人が死んでも認めたくないようなものでできているのがエスなのである。」

 「岸田さんの言う通り、理屈はまことに簡単、しかし実行はまことに難しいのであり、私がいまだに迷い多き人生を歩んでいることに変わりはないのである。」

 

  (注)エスとは ウキペディア

 エス (Es) は無意識に相当する。正確に言えば、無意識的防衛を除いた感情、欲求、衝動、過去における経験が詰まっている部分である。

 エスはとにかく本能エネルギーが詰まっていて、人間の動因となる性欲動(リビドー)と攻撃性(死の欲求)が発生していると考えられている部分である。

 リビドーこれはジームクント フロイトが「性的衝動を発動させる力」とする解釈を当時心理学で使用されていた用語_Libido_にあてたことを継承したものである。一方で、カール・グスタフ・ユングは、すべての本能のエネルギーのことを_Libido_とした。

 

 読後感

 岸田 秀氏の独創的かつ特異な発想と意表をつく言い方(表現)。伊丹十三の博学ぶり。我が脳の脆弱性を再認識した。

 伊丹十三は理屈は簡単(だが実行は難しい)と結論づけているが、情けないことにその簡単な理屈が自分にはなおよく分からない。困ったことに生来の脳の脆弱性に加齢による認知力、読解力の低下も加わりつつあるようだ。

 目借りどき 我に難解 唯幻論 の心境になっている。


 

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岸田 秀再読 その3「唯幻論始末記 わたしはなぜ唯幻論を唱えたか」 [本]

 

 最初に自分が岸田秀氏の著書を初めて読んでから、既に10年以上が過ぎている。

 

 著者は1933年生まれだから、「ものぐさ精神分析」で唯幻論を発表した1977年は44歳の時である。自分は37歳、中間管理職のサラリーマン。氏と同年輩の上司の下で日々あくせく働いていた。当時の先輩らの顔を思い起こすと、氏と自分の年齢差などが実感として分かる。また、いかに当方はノーテンキに暮らしていたかも、今となれば(懐かしく)思い知らされる。

 氏とは7年の差があるが、同時代と言って良い。唯幻論には、特別強いシンパシーもない代わり、はなから拒否感がないのもこのせいかも知れぬ。一方で終戦の年に自分は5歳で氏や先の職場の上司は12歳であったことは、価値観の急転換を体験したか否で、その後の精神形成に微妙な差もあるかも知れないとも思うが。

 最近読んだ「哀しみという感情2007」を書いたのは、氏が74歳の時だが、読んでみると30年後もどうやら氏の「唯幻論」の持論は揺るぎも無いように見えた。

 

 今年、氏は卒寿90歳になる。唯幻論発表後46年、著者がどんな考えを持っているかには興味がある。

 

 今から5年前の85歳の時に書いた「唯幻論始末記 わたしはなぜ唯幻論を唱えたのか」(いそっぷ社2018)」を図書館で借りて読んだ。

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 氏は幼少からの自らの現実感覚不全、紛失癖、歪んだ認知構造、奇行、人と自分の考え方の違いなどの理由を探がすなかで、母親との関係等を考察し唯幻論に至ったと説明する。

 このあたり氏がなぜ唯幻論を唱えたかというくだりは、すべてとは言えないかも知れないが概ね理解できる。

 極めて個人的なものから人間の普遍的な精神のあり様を探り出し、さらに我が国、世界の歴史をそれで説明してその将来をも考える。自分からみれば、壮大な思想であると感心するばかりだ。

 氏は自分の「性的唯幻論と史的唯幻論」への批判が強いことを認め、とくに個人心理を集団心理に当てはめるのはおかしい、国家や民族などの集団をあたかも個人であるかのように扱うのは、どう考えてもおかしいという批判が強いとして、それに対する反批判を展開している。

 氏は言う。(長い引用になるが、自分にも気になる大事な論点の一つなので敢えて。)

 

「わたしの説を批判者する人は、個人の心理と行動は脳組織や神経系の働きなどの生理的条件によって決定されているが、集団の心理と行動は、政治、経済、法律などの社会的条件に決定されており、両者は全く無関係な異質の現象であると考えているのではないか。

(中略)私の考えによれば、個人の人格構造も、集団の社会構造も、それまでの歴史の過程において、獲得した諸観念を個人または集団の人々が人為的に構成することによって成り立っているのである。個人の人格構造も、集団の社会構造も、脳内物質とか経済的条件とかの物質的条件によって決定されるのではない。したがって個人と集団は構造的には同じであり、どうすればうまく機能するか、どういうことで狂うかなどの事は同じ法則によって心情的に理解できるのである。個人の場合の、神経症精神病、誇大妄想、被害妄想などはまったく同じ現象が集団においても起こるのである。したがって、日本やアメリカやヨーロッパなどの国々は、あたかも個人のように理解し説明できるのである。もし個人の心理と集団の心理とが起源が異なるまったく無関係な異質の現象であるなら、個人は集団を理解できないし、集団のなかのの個人と個人は理解し得ないであろう。」(37p)

「要するに、人間の「心」も「脳」も、崩壊しているのでない限り(例えば、交通事故に遭って頭部が怪我し脳髄の1部が破壊されたとか)、周りの状況との関連の中で現象しているのであって、それと切り離して「心」自体、「脳」自体を「科学的・客観的に研究」しようとするのは、いかにも具体的事物を対象とする「科学的・客観的」研究であるかのごとき錯覚を与えるが、絵画に使われている絵の具と言う具体的事物の科学的な成分を研究して絵画の芸術的価値を判定しようとするのと同じく、とんでもない見当違いなのである。」(p48)

 

 著者は自分がなぜ「唯幻論」を唱えたかその始末を書いておきたいと、著書書名を「始末記」と名付けた。その最後で次のように言う。

 

 「それから、唯幻論を前提として、過去の歴史や現代の社会のいろいろな現象を解こうとしてあちこちに文章を書いてきたが、それに対しては賛同してくれた人もたくさんいたものの、もちろん反対し、批判してきた人もたくさんいた。賛同してくれた人たちに対しては心から喜んでありがたがっていたが、反対や批判も気になるので、なぜ反対されるのか批判されるのかを胸に手を当ててよく考え、あちこちに反批判反駁の文章を書いた。そうこうしてるうちにいつ死んでもおかしくない歳になったし、記憶力や判断が衰えてきたようなので、もう次の新しい本を書くことは無いであろうと言う気がするから、ここで、私がどういうわけで、どういう道筋を辿って唯幻論という説を思いついたかを説明し、唯幻論への批判に対してこれまで書いた反批判反駁をまたまとめて提示することにした。したがって、繰り返しになるところが多いけれども、これが人生最後の本であろうと思うので、大目に見てほしいと虫のいいことを願っている。では、さようなら。ご機嫌よう。」

  2018年12月10日」 p238

 

 この文章を読む限り、著者の考え方は唯幻論発表後46年たった今も基本的に変わっていないようで、驚くとともに頼もしい限りである。

 ではさようなら。ご機嫌よう。が何とも好ましい。この最後の弁には氏の率直さと潔ぎよさがある。多くの人が唯幻論に惹かれる要因の一つでは無いか、と自分には思える。 

 

 さて、自分は氏の唯幻論のうち 個人の心理を集団心理に当てはめるということにはあまり違和感は無い。経済の景気が個人の気におおいに左右されるのは、実感として理解出来ることからきているのかも知れない。心理学的、精神分析学的ににどう説明するのかは分からないが。

 しかし、やはり氏の論の出発点である人間の本能は壊れた(他の動物の本能は壊れていない)とすることには違和感がある。

 未熟で生まれたから本能が壊れたというが、未熟で生まれる動物はパンダやカンガルーなど他にもいるが、なぜ彼らの本能が壊れないのか。人間は他の動物と異なるという意識が強すぎるのではないか。相違点も類似点もあるが、基本的には人間も動物である。

 本能が壊れているということは、目的と行動が一致しない(例えば、目的=個体の保存ー行動=食欲が無くても食べる、目的=種の保存ー行動=発情期がないセックス)ことだという。目的と行為が一致しないということがなぜ本能崩壊ときめつけられるのか。食欲が無くても食べる、発情期が無いことなどは単に種(動物)としての人間の生理的特性に過ぎないのでは無いか。ふと、シャチがアザラシをバレーボールにして遊ぶ例、カラスの線路石積み遊びなどを想起した。

 

 本能が壊れたから自我が生じた、その自我は(推測ながら)幻想であると議論が展開するが、もともとのところがもう一つ納得感が弱い。

 幻想なのだからムキになるなというあたりは、正義は西にもあり東にもある例、敗戦後の価値観の大転換の例などからして、好ましい結論になるので、そうかも知れんなどとうなずいてしまうのだが。

 自我の発生、自己の認識は他に説明できる論はないのであろうか。心理学、精神分析学、生理化学、医学、脳科学、哲学、宗教学などをもってしても答えられないのであろうか。

 氏の唯幻論に限ったものではないが、科学、宗教等に対する我が半知半解つまり不学のなせるものなれど、大事なことを深く考えず(チコちゃんではないが)ボーッと生きて来たなとしみじみ思う。


 

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