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岸田秀再読 その20「アメリカの正義病 イスラムの原理病 2002」 [本]

 

岸田秀・小滝透共著「アメリカの正義病 イスラムの原理病」一神教の病理を読み解く 春秋社 2002

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 ニューヨーク同時多発テロ事件,いわゆる9.11事件(2001.9.11)勃発の翌年に刊行された岸田秀氏とジャーナリストの小滝透氏の対談。

 対談者の小滝 透(1948- )氏は、ジャーナリスト、ノンフィクション作家。金沢大学法文学部文学科中退、サウジアラビア王立リヤド大学文学部アラビック・インスティチュート卒、元全共闘。

 

 この9.11事件を契機としてアフガニスタン紛争(2001-2021)が勃発。またフセインとアル・カーイダが協力関係にある可能性があると開戦理由の一つに挙げたイラク戦争(2003-2011)が起きている。爾後,アメリカとイスラムは20年以上 の長期にわたり争う。大統領はジョージ.ブッシュ、バラク・オバマ、ドナルド・トランプ、ジョージ・バイデンと4代にわたる。

 この本は、イスラム原理病とアメリカ正義病に9.11事件の原因があるとし、それぞれの解説をした上で事件後の展望をしている。事件後20年以上が経過した今読んで見ると、かなり的を射たものであると分かる。

 

 自分には特にイスラム文明について無知であり、それを知ることだけでも目が醒める思いで面白い本であった。事前に「一神教vs多神教」や「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」などを読み、新知識を俄かに取り込んでもいたこともあって読みやすい。小滝氏と岸田氏の親和性も高いと見え、他の対談に時に見られたギクシャクも少ない感じである。

 

 本の内容は、書名の「アメリカの正義病 イスラムの原理病」(副題の一神教の病理を読み解くを含めて)という書名がそのままで好感が持てる。

 

 難しい将来展望も面白く読んだ。「文明の衝突」のハンチントンがリビア・アラブ共和国の最高指導者カダフィ(2011リビア内戦で死亡)の言、「儒教グループを代表する中国と新十字軍を主導するアメリカとの間に闘争が起きることを期待し、彼らと同盟をむすび西洋文明と戦う」を例として挙げ、これまで続いて来た文明衝突がこれからも続くだろうという展望を示す。現下のバイデンvs習近平の状況を見るに、気味の悪い展望であると言わざるを得ない。

 

 以下は読みながらメモしたもの。(岸田、小滝氏の両意見を区分していないところもある。要注意。)

 

 第一章 イスラム対西欧の深層

 イスラム誕生のメッカメジナのあるサウジ王国は西側従属。エジプト、ヨルダンも外的自己。一方のビン・ラーディン、アル・カイーダ、パレスチナの過激派、イスラム原理主義者、ホメイニのイラン、フセインのイラクは内的自己。→岸田理論。

 イスラム文明は、前近代までは西欧文明より進んでいたが、近世になって逆転しイスラム世界が西欧列強から殖民地化された。かつてはイスラムが西欧文明に貢献したのにそれを忘れているという忘恩の思い(怨み)が強い。→小滝論。

 

 イスラム教は610年、ムハンマド=マホメット40歳) が神の啓示を受け誕生した。コーラン、唯一神アッラーへの絶対帰依。アラブの多神教、ユダヤ教、キリスト教を抑える。ただし、旧約聖書は共通の聖典。

 ユダヤ教=外面的民族宗教 律法主義

 キリスト教=内面的世界宗教 信仰を内面化

 イスラム教=外面的世界宗教 律法主義 キリスト教の三位一体を批判 偶像崇拝不寛容

 イスラム指導者は兼宗教者、法律家、立法者、軍事指導者であり、これは特異である。

 

 イスラム世界にはトルコ、イランも入るが、二つはアラブではない。中東の3民族はアラブ、ペルシャ(イラン)、トルコで4番目がクルド。

 

 政治 ①国家ナショナリズム 例 エジプト

    ②アラブナショナリズム 王制打倒 アラブ連合 (故ナセル大統領) 

    ③イスラム主義

 宗教 ①イスラム世俗主義 ②伝統主義 ③イスラム原理主義 三すくみ

 政治 宗教 言語 民族 部族 経済が絡むので複雑になる。

 

 アラブは9割がスンニ派(ムハンマドの教え尊重派サウジなど)、イランはシーア派(ムハンマドの血統重視派)、イラクもシーア派が多く不安定。

 イスラム原理主義は西欧の侵略に応戦してできた。近代科学を重視するのが特徴である。

 十字軍遠征は聖地エルサレムの奪い合い。1096−1291 (11世紀末から12世紀末まで)。

 フランス王国からコンスタンティノーブル(現イスタンプール)経由でエレサレムへ。

 

 イスラムがキリスト教世界に敗北したのは、国民国家が作れなかったから。日本は曲がりなりにもできたので、植民地化を免れ近代化を実現した。アジア唯一。

 イスラムのジハード(聖戦)は、防衛ジハード=義務型と攻撃ジハード=自主参加型の二つ。

 アラブの家・イスラムの家・戦争の家=異教徒の家 の三層構造。

 

 イスラムのニューヨークテロの見方は、律法学者①自殺=神の奴隷である人の自殺は大罪②殉教=原理派法学者と分かれる。

 アフガニスタン(オマル、ビン・ラーディンがトップ)→ソヴィエト侵攻時、パキスタンで原理主義を叩き込まれたタリバンが過剰反応、先鋭化した。

 イスラム原理主義(アラブ主義でなくイスラム主義)は軍事突出型で西欧への対抗意識が強く、技術、国際金融マネー操作で攻撃する。以上小滝。

 

 岸田 ドイツのナチズムは底にヨーロッパ深層のキリスト教への反発がある。第一次

大戦敗北後、政治、経済破綻し、退行現象が起きて全能感と誇大妄想(アーリア民族神話)に陥る。

 キリスト教国の反ユダヤ主義は、西欧人が、ローマ帝国にキリスト教を押し付けられた恨みを強いキリスト教でなく、弱いユダヤ教(キリスト教の生みの親)に向けた。恨みの転移(いじめっ子の心理)だ。

 

 イスラエル国家は、近代ナショナリズム、シオニズム(ユダヤ人の国家・文化再興運動)でできた人工国家で①ヨシュア・コンプレックス(モーセの後継者ヨシュアのカナン約束の地でのジェノサイド)②マサダ・コンプレックス(ローマ帝国により最後の砦マサダ陥落、2千年にわたるディアスポラ=離散の始まり)③アウシュヴィッツ・コンプレックス(国を失えばホロコースト=民族殲滅)の三つのコンプレックスがある。小滝

 

 アメリカは自らをイスラエルと同一視、同じ人工国家で経済的理由だけでなく同じ被圧迫国。インディアンコンプレックス。

 

 日本へのイスラム渡来は明治以降。日本と韓国は世界で最もムスリムが少ない。日本人は宗教を内面的、精神的なものと捉え、仏教の戒(因果律)を無視。念仏のみで救済されるとした。イスラムは人の内面はブラックボックスだから、外面に重きを置く。外面主義と立法主義。コーランとスンナ=ムハンマドの慣行が第一の法律で潔癖症的文明。ユダヤ教の方がより上。

 イスラム教は、集団救済。個人救済だけではダメ。神人関係=主が神、人は奴隷。日本人には、これは理解出来ない。

 

→たしかに自分もそうだが、日本人は宗教を心、精神など内面的なものと考えているが、当初の仏教、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教は戒、律といった外面を重要視する点で大きな違いがある。外面は相対化するとすぐ分かるが、内面はどんなにゆるめても外からは見えないので分からない。日本人の宗教観はゆるゆる。神道、浄土宗しかり。なるほど目からウロコだ。

 

第二章 文明の衝突の未来

 アメリカの正義病は、度し難い。積極的に敵を作らないと正義が成り立たない。。

 アメリカの膨張思想は、マニュフェスト・デスティニー(明白な運命)。国際警察力、世界の指導者、グローバルスタンダード。精神分析治療を受けて脅迫神経症が治るのが人類の希望だが、難しい。

 イスラム原理主義は、近代化は困難。戒律を社会規範化しているのでムリ。女性の労働力活用もムリ。インシャラー社会、世俗改革は反イスラムのレッテルを貼られて殺される。他方、軍隊は計算合理的。ニューヨークテロも綿密な計画の下に実施。イスラエルと戦い学んだ。悪魔と戦い悪魔となった。

 

 西欧キリスト教が正義病と脅迫神経症に駆られ、世界征服を目指している。他の文明は西欧キリスト教文明にレイプされ、内的自己と外的自己に分裂しキリスト教文明に従属している。しかし、内的自己は機を見て復讐しようとしており、イスラム文明が代表的、尖兵となって暴発、9.11同時多発テロに及んだ。ハンチントンのいう「文明の衝突」でもある。

 日本の内的自己の暴発である日米対戦は「早過ぎた応戦」。日本赤軍も同じ。中国の文化大革命は内的自己の暴発。アジアのマレーシア首相マハティールの東方政策は、大東亜共栄圏構想と瓜二つ。

 リビアのカザフィは「アメリカの新十字軍と儒教グループの中国との戦いに期待する。われわれイスラム教徒は中国を支持する」と言った。(ハンチントン「文明の衝突」)

 

 これからノーガードの戦いに突入する可能性がある。

 

 ニューヨークテロへの日本の対応 

 ビン・ラーディン、フセインは、日本はアメリカに原爆を落とされたのになぜアメリカに味方するのかと言う。かといってタリバン、アル・カイーダを応援する気にはなれない。外的自己で面従腹背、渋々アメリカ後方支援するしかないか。自衛隊の派兵は無給の傭兵か。一方で日本国民はアメリカを支持してもいない。アメリカもテロをやっている。

 

第三章 一神教という病理

岸田 差別され、抑圧され、追い詰められ、虐待搾取され、屈辱と苦難、滅亡の危機に直面して作った宗教がユダヤ教。全知全能の神のもとに共通の規範ですべての人を支配する構想は、支配されて屈辱を味合わされた人しか思いつかない構想だ。報復主義、攻撃、差別的、強い団結心、正義を独占する。悪を外に追い出す、敵を外に作る。外敵がいなくなると内に敵を作る。外敵が強すぎると弱者の敵に向かう。マルクス主義も同じ。

 キリスト教が聖俗分離したことが、イスラム教を文化的に追い越し、先進出来た理由。 西欧の神殺しと理性主義。神が死ぬと欲望のブレーキが効かなくなるが、組織力は持続する。

 理性は神と違い抑止力にならない。理性で核兵器まで作った。欲望の奴隷になった。

 ヨーロッパで聖教分離ができたのは、キリスト教が押し付けられたものだから。ずれ、隔絶、抵抗を感じて自分と宗教の間にしっくりしないものを感じる。宗教の相対化へつながったから。

 イスラム教は、キリスト教の支配からの解放であって、他からの押し付けでない。

 

小滝 日本軍、企業の共同体病理は同じ。どちらも擬似血縁幻想。

 

→企業も身内の論理を優先し不祥事を起こす。日本軍の部隊長重視によるチグハグな軍事作戦実行と軌を一にする。

 

岸田 一神教は人類の害毒。一神教は非常に便利な発明であったと思うんです。一神教を信じていれば精神的には最も安定しますから。精神分析的に言えば一神教を解毒するには一神教が信徒に保証している所の精神的安定や統一感を、いかに他のもので代償するかという非常に難しい問題になりますね。これはなかなか出口が見つからない。p247

 

小滝 一神教を治療するには木を植えることだ(梅原猛) 。精霊崇拝は森林で起き、森林を伐採してキリスト教化した。さらにその結果クマネズミが発生し、ペストが蔓延。環境問題は大地母神の復讐だ。

 大地母神の復活。父権社会から母権性社会へ。地球環境問題、フェミニズムが世界を救うか? アメリカは京都議定書を認めない。地球汚染の最大級の元凶なのに。

 

→木の植栽、フェミニズム母なる大地母神の復活、これはあたりとは思うが、具体的解決策になるかどうか。心許ない。

 

あとがき

岸田 ①キリスト教学者八木誠一(「自我の行方1985」)、②仏教学者三枝充悳(「仏教と精神分析1982」中野区図書館に無し。残念。)、③イスラム教学者 小滝透(本書2002)各氏との間で唯幻論と三大宗教論の議論が出来た。イエスのお導きか、釈迦の因縁か、アッラーの思召しか。

 

小滝氏のまとめ。

 イスラム世界 ①十字軍で負ったトラウマ②中世から近代史的経緯 師弟関係の逆転 西欧がイスラム世界を植民地化。イスラムの貢献の忘恩③現代的諸問題パレスチナ問題で西欧がイスラエルに与する。サウジ(イスラム聖地)にアメリカ軍が駐在。イラク(イラクムスリム)への経済封鎖。

 アメリカ ①ヨーロッパにおける幼児体験(被差別、抑圧、困窮)②移住先でのインディアン虐殺の正当化、西アフリカからの奴隷輸入、南北戦争、戦争裁判、対外戦争による領土拡張(フロリダ.テキサス・カリフォルニア.ハワイ)、マニュフェストデスティニー(明白なる運命)、アメリカ建国神話 対外拡張政策。

 

 この結果、アメリカとアル・カイーダ(イスラム文明の内的自己の代表)=文明間衝突。

 

 大航海時代(15世紀半ばから17世紀半ば)に始まった文明間衝突は、これまで延々と続き、さらに新たな文明間衝突が起きようとしている。西欧文明vsイスラム文明、儒教文明だーハンチントン。

 

読後感

 イスラム世界歴史と現実の基礎知識が乏しいことを思い知らされた。それだけに、この本で得た知識は貴重である。まだまだオスマン トルコのことやモンゴル、インドのムスリムなどもっと知りたいこと、学ばねばねばならぬことが山ほどある。

 

 9.11事件から20年以上経ったが、その間に起きた世界の出来事を振り返って見ることは、多分有意義だろうと思う。ただ、あまりにのんびり暮らしてきたので、この20年来の中東やアフリカ、ヨーロッパで起きた数々の紛争等のことを知らな過ぎるが。

 

 今のロシアウクライナ侵攻は、ソビエト崩壊後のロシアの植民地失地回復だと言われている。また、ロシアの汎スラブ主義ないしはロシアを中心とするユーラシア主義への欧米諸国の圧力が原因とも言われてるようだが。いずれにしても、アメリカ、ヨーロッパNATOとロシア、中国の対立の様相を呈している。中国が入れば文明間衝突とも発展しかねないのだろうか。

 

 文明間衝突だけでなく、伝統的なナショナリズムの対立も世界には、モンゴル、チベットなど沢山存在する。それらも全て火薬庫だ。

 いずれにしても世界は核兵器を持ってしまっており、廃絶の道筋は全く立っていない以上、常にその使用の危険に立たされている。この20年来核兵器使用まで至らなかったことは単に僥倖であったと言うべきだろうと思う。

 

 さて、アメリカの正義病、イスラムの原理病は言い得て妙だが、日本は何病と言ったら一番当たっているだろうか。日本が良いと思っているが実は傍目には×××病、うーん、このネーミングには深い洞察がいる。

 

 日本の適当(テケテケ)病、日本のナマコ(海鼠)病、日本の和氣(貴)病、日本[新月][新月]病…。今はぴたりとおさまるものを思いつかない。

 

 福岡弁で「適当に」は「テケテケに」と言う。

 

 なまこは美味しいが、食べたことのないものには、気味が悪い。顔なしで後先不明、棘など無いが骨もない。あたっていないことは無いが、正義病、原理病の名前には負ける。


 

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岸田秀再読 その21「自我の行方 岸田秀・八木誠一対談」 [本]

 

「自我の行方 岸田秀・八木誠一 対談」(春秋社 1982  増補版1985)

 

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 対談者の八木誠一(1932〜)氏は、新訳聖書学者、神学者、宗教哲学者。東工大名誉教授。ちなみに岸田秀氏は、1933年生まれ、現在90歳。八木氏の一歳歳下になる。

 

 精神分析と宗教をめぐる対談である「自我の行方」は1982年刊行。3年後刊行の増補版と同時期に刊行された「幻想の未来1985.1」と合わせて読んだ。自分には両書とも難しく6月15日に図書館で借りてから、返済期限延長、借り換え、を繰り返し、「幻想の未来」の方は、今なお読了に至っていない(「幻想の未来」は7月6日に借りて、読み始めたばかり)。情け無い。

 

第一章

岸田 「宗教というのも見失った全体的生を回復しようとするひとつつの運動であるとすれば、精神分析もそういう意味では、同じく全体的な生を回復しようとする運動なのであって、そういう意味で宗教と精神分析とはつながっている。」p25

 

岸田 「すべては相対的であると言う発言は相対的か、例外のない法則は無いという法則に例外はあるかと言うこと。」

 

八木 「どうせ岸田さんの言うことも幻想なんだから、岸田さんが何を言っても本気で問題にする必要がないと言い出す奴が出て来得る。もったない。」

 

岸田 「本来的な生と非本来的な生という区別を立てた場合に、誰しも我こそが、本来的な生を握っていると思いたがる傾向が強い。2つの集団が、どちらもこっちが本来的生を握っていると言って、無意味に争い続けてきたのが歴史である。本来的生と言うのも、人間が掴み得るんだと認める立場そのものが危険をはらんでいると言うことではないか。」p55

 

八木 「帝国主義なんて言うものはどうせ幻想なんだから、ほっとけ。本気にカッカと対応して、日本の軍備を進めるなんてのは馬鹿な話だ。どうせ人間みたいにおごり高ぶっている存在はいつまで長続きするわけないんで、そのうち滅びちまうに決まっていると岸田さんは言う。」

 

岸田 「人類が今後ますます核兵器の軍拡競争を続け、そのうち核戦争を起こして滅亡するほどの馬鹿であるなら、そんなバカな人類なんて滅びたっていいじゃないか。」p57

 

→これに対する八木氏の反論は不明。自分が、理解できなかったのかもしれないが。岸田氏の「滅びたっていいじゃないか」は、警句だろう。でなければニヒリズムになるが、どうやら本音ではなさそう。

 

第二章

 同年輩、同年代の分類①戦前派(戦争に協力した反省ー吉本隆明ら)②戦中派(価値観の転回を見たー八木、岸田)③戦後派(最初から民主主義教育を受けたー自分ら)。自我形成に差異がある。

 

岸田 「世界が矛盾なく首尾一貫して説明できて、自分がその真理を把握して正義の立場に立っていると言うふうに思うことができれば、人間は非常に安定して楽なわけですね。人間はそういう自我の安定を守るためなら、人殺しはおろか、自分の生命を投げ出すことさえやりかねません。殉教とか言って。」p89

 

→殉教とか言っては、宗教徒への皮肉。

 

岸田 「唯幻論というのが、「すべてのクレタ島人は人は嘘つきであると、あるクレタ島人が言った」というのと同じで、成り立たない。すべては幻想であるという判断も幻想である。ということになって成り立たない、と八木さんに言われた。論理的にだいぶ矛盾と言えばそうなんですけど、もし、首尾一貫した矛盾のない体系を作ったら、それは必ずインチキなんだというのが僕の考えでしてね。我々は常に部分的な正しさで満足すべきです。全体的な正しさを求めようもありませんし、それが得られたと思った時は必ずや瞑想に陥っている。」p90

 

 究極の悟りはない。自我は必要悪と自覚して。

 唯一絶対神=絶対無 宗教はテーゼではない 常にアンチテーゼp98

 

「自我は基づく原理が単純なほど安定する<生命の営み>は常に広がろうとする。人間は常に広がろうとする動きと狭く固まろうとする動きの絶対矛盾的な二つの傾向に常に引き裂かれている。狭く固まろうとする傾向を助長するような単純明快な唯一絶対神とか原理は出来るだけ排除するのが望ましい。」

 

→これの反論も第一章におなじく明示されていないようだ。

 

第三章

岸田 「本能崩壊と文化の成立は相関的といっても、あくまで本能崩壊が先ではじめに本能崩壊ありきだ。」

 

岸田 「人間より動物の方が立派。環境との間に隙間がなく賢明に生きている。動物園で飼うと本能が壊れることもあるが。」

 

八木 「自我とは言葉を使って世界を構成し、考えて、選んで、決断している主体のことだと考えているんですけれども。つまり言葉の主体、あるいはむしろ言葉のかたまり。公共の言葉を使いながら、自分と言う観念を持っている。自我に目覚めている。通念で考え、慣習で行動しながら、自分がある。」p114

 

八木 「まず言語を媒体として通念や慣習を学習する、という事から始まる言語生活・文化生活が本能を壊したと言う面はあるんじゃないでしょうか。本能の崩壊が先なら自我の成立までどうして生きたか。」

 

岸田 「本能が壊れたときに人類は滅亡の危機に直面したと思いますよ。そして人類の大半は滅んだんじゃないか、その中にたまたま自我を作るというやり方を発明した少数者がいて、極めて空前的に人類は生き延びたんではないかと思っています。」p122

 

→本能崩壊が先か(岸田 壊れたあと自我が生じた)、後(八木 言葉が先であと本能が壊れた)か。二人の意見は分かれた。

 言葉が発明されたあと本能が壊れて自我が出来た?のか。その違いの意味は何か。あまり明確な議論になっていないように思えるが。

 

第四章

岸田 「自我というのは、自分の全体的生命の客観的には1部であり、主観的には全体である。全体だと考えない限り、自我の安定がない。」

 

八木 「自我をどのくらい相対化できるかと言う問題になる。頭でわかっただけではダメで実感、自覚の事柄としてわからなければダメ。自我が究極であり、それを守る社会の構造が究極だと考えると、必ず支配とそれへの同意ということが出てくると思う。そしてその社会と自我を守る手段が殺しですね。」

 

→岸田氏の言は分かるが、八木氏の後段は残念ながら分からない。

 

まとめ

岸田 「わたしは、生の営み全体−自我=エス、と言う図式を持っていますから、自我+エスが全体なわけです。自我は絶えずエスを取り込んで、広がっていく運動の中で、意識の中で自我は1部に過ぎないと言う状態は可能。八木さんはそういう意識の状態が宗教だと。」

 

八木 「いや、そういう構造の意識が全て宗教的だとは言い難いのですが、宗教的自覚は、少なくともそういう構造を持っていると。それを<いのちの営み>といったわけです。そういう構造自身が<いのちの営み>に属する。国家やイデオロギーを超えて一緒に生きる場を開くという事は、宗教の1つの本質的な面だと思うんです。だから、宗教は、エスの全面的開放ではあり得ません。できるだけ広い共存を可能にするという1つの枠組みーこれは人為とは言い難いーがあって、この枠の中でいのちの豊かさの実感をもたらすようなものだと考えてます。」

 

岸田 「まぁしかし自我というのはみんな固執するからね。」

 

八木 「自我というものは、自分が究極だと思っているだけ強くなる。強いというより猛々しい。イヤンなっちゃう位強い。」

 

岸田 「自我は幻想だとか、相対的だとか、エゴイズムの愚かさなんて口幅ったいことを言っていますが、自分が正当な権利と思っているものを侵害されたり、侮辱されて自尊心を傷つけられたりすると冷静ではいられません。自我を守るための何らかの手段をとることになってしまう。ただ、せめてもの僕の慰めは、一方では、そんなのは幻想だ。アホらしいと思いやるのでしばしば失敗もする。失敗すると心のどこかでほっとしているところがある。本当に「自我は諸悪の根源なり」ということなんですが、それがやめられないという人間の悲劇があるんですね。人類が滅びるとすれば、神への固執、国家への固執のために滅びるでしょうね。」

 

→本書の表紙には「自我は強い、嫌になるほどだ」という二人の一致点というか、同じ思いを表明した対談のこの部分が印刷されている。編集者の思いが感じ取れるが、残念ながら二人の相違点は入っていない。読者は一致点より相違点の方が気になっていると思うのだがいかがなものだろうか。

 

あとがきに代えて 宗教と精神分析 八木誠一

「岸田さんは、宗教とは自我の相対化と、生内容の自覚とに関わっているのであり、基本的には確認可能な事柄を語っているのだということにー大方の現代知識人と同様ー気がついていないようであった。

 宗教は、言葉を語る自我ということそのことが排除していたものの恢復を含んでいる。それは自我を単に滅ぼすものではなく、立て直すのである。キリスト教も仏教もそうであった。宗教は、社会的個的自我つまり理性的自我を立て直すような生内容の恢復であった。逆にいうと、ここに宗教の制約があると言えるかもしれない。従来の宗教は、理性的自我を重視するあまり、ギリシア人が知っていたような。そしてルネッサンスが発見したような、豊かな生内容を十全に取り込んではいない。」

 

→この辺りの説明はメモしていても、自分にはよく分からない。八木氏の言いたいことの一つなのだろうが。宗教は、「理性的自我を立て直すような生内容の恢復」とは?

 

追章 往復書簡・「真の自己」について

 

八木→岸田

八木氏の「幻想の未来」(岸田秀 河出書房新社 1985 )の読後感想。

「自我に関する物語」はみな「つくりものの嘘」だとすると、自我に関する諸々の理論もつくりものの嘘だということになる。だとすれば意見を言う気にはなれないが。」

 

岸田秀「幻想の未来」の基本的主張(八木氏の整理による)

「自我は支えなしに存立できるものではない。しかし自我を究極的に支えるものはどこにも存在しない。もう少し具体的にいうと、日本人は一般に自我の支えを「世間」に求め、ヨーロッパ人は「神」に求めた。しかし今や「自我の自律」が理念として立てられ、大方の賛同を得ているので、日本人は「世間」に自我の支えを求めることを否定するようになっており、ヨーロッパでは神信仰が揺らいできたためもあって、ヨーロッパ人は「神」に自我の支えを求められなくなっている。こうして自我はともに、自我の支えを自分で否定する矛盾に陥り、心的葛藤が生じている。」

 

自我は支えなしには存立出来ない、には賛成。「真の自己」はどこにも無い、には反対。

 

 宗教は、人格のいのちの営みが個を超えた働きに荷われていると言う直覚を持つ。自我の安定を求めること=我執が間違い。仏教=無我、キリスト教=自我の滅亡。

 

 生きているものはこの世界の中で他者と共存する系を作り上げて来た。

 宗教とは、まさにそこに生の営みの本質、そのように生きるところに「真の自己」があり、そこで個を超えたものの働きが直覚される。

 西欧人は自我の拠り所を神として来たが死んだので不可能になったと言うが、本来のキリスト教とその頽廃落を区別して前者を弁護することになるが。注)頽落態(たいらくたい)=堕落したもの、状態。

 

 キリスト教、浄土仏教とも信仰・信心とは自我のはからいの放棄であるとする。

 

 自我の幻想性とは、かなりの程度まで一意生の言語の幻想性と同義だ。自分で自分を定立する、我執的自我とは一意生の言語の虚構だ。人間は共存へと向けてできているもので共存の営みにおいては自由と愛とが両立するものだ。

 注)一意生=誰かまたは何かが他のものと比較して異なる状態または状態のこと。ユニーク。

 注)定立=ある肯定的判断・命題を立てること。

 

→八木氏の主張のポイントの一つであろうが、これも凡百たる自分にはよくわからない。

 

岸田→八木

「まず唯幻論も幻想であると言う唯幻論の主張についてですが、これが論理的に自己矛盾している事は、以前の八木さんとの対談においても指摘されたことがあり、その他いろいろな人に言われました。それに対する答えは、本書の対談の中でもまた別の所でも述べたことがあるので、繰り返しになりますが、簡単に言えば普遍妥当的な唯一の観点はなく、普遍妥当的唯一の真理はないと言うことであります。

 フロイド的解釈とユング的解釈の違いは、同じ譜面を見て、バッハの曲を演奏する者と、ショパンの曲を演奏する者の違いだと思います。」

 

「真の自己について」二人の一致点

=人間が自分を自我として限定し、その自我を守り立て強化しようとする。あるいは何かに依存して安全を図る。要するにまず自我を提出しておいてその自我の安定を求めること。我執がそもそもの間違いだ。一定の形に固執する自我のつっぱりは精算されなくてはならない。単に傍迷惑であるばかりでなく、不可避的に当人自身を精神的袋小路に追い込む。したがって、自我のもっとも無理のないあり方は、八木さんがピアノとチェロの合奏の例を引いて説かれたように、「チェロはピアノという与えられた状況を自分の演奏の条件に転換し」、「ピアノもチェロの音を自分の演奏の条件に転換し」て、「お互いに図となり地となり合って」、つまり、まず自分が自分の自我の形を一方的に決め、それを相手に押し付けるのでもなく、また、相手に引きずられて相手の自我の形に一方的に合わせるのでもない「共存」というあり方であろうと私も思います。p246

 

「真の自己について」二人の相違点

=「他者との共存を願う気持ち」も人格構造の1要素であれば、他者を支配し、搾取したい気持ちも、他者の言いなりに服従したい気持ちも同じく1要素であって、そのどれかひとつが真の自己でというわけではないということです。そういう共存と言う形を言語によって規定し、その形に自我をはめ込もうとすれば、他の要素を押さえつけることになります。そこにはどうしてもある程度の無理があります。」p 247

 

 八木は理念を語り、岸田は理念は幻想であると思っている違いである。

 

(キリスト教、マルクス主義の)本来の姿と頽落態を区別する普遍妥当的基準はない。良否の判断基準は現実のキリスト教徒、マルクス主義者がどういうことをしたか、にしか無い。

「八木さんの考え方は人間の本来のあり方を語っているに過ぎない。あるべき真の自己があれば文句はないが、真の自己という思想を信じた人達がその思想に基づいて現実に何をしどうなったか。

 

 八木さんは、宗教と言うものは単なる観念性ではなく「いのちの営み」の自覚である、人格の「いのちの営み」が個を超えた働きに荷われていると言う直覚を持っていると言われますし、私はそういう自覚ないし直覚の存在は認めるし、そういう自覚を持って生きる事は「我執」に囚われて人を傷つけ、おのれを苦しめる生き方よりはるかに賢明ですばらしい生き方であると思いますが、やはりそれも「観念性」であって、自我のひとつの形に過ぎないと言うわけで、これはどこまで行っても平行線ですね。ここまでくると、これはもう「いのちの営み」と言うものを信じるか信じないかの問題です。」p250

 

「いのちの営み」の自覚であるという保証はどこにあるのか。自我とは他者である。

 

岸田は「本能が壊れたから自我が代替物として生まれた」とし、八木は「人間が言葉を使い出したから本能が壊れた」とする。岸田は、「講釈師見て来たような嘘を言い」であり、どちらでも良い、自説に固執しない。よほど追い詰められたからとするのが岸田説。

 

→八木氏の「あとがき」もなかなか難解。それに比べると追章の「往復書簡」の方が、双方の主張が対談より直截的に語られており、いくらか分かりやすい(ような気がする)。

 

読後感

 岸田氏の精神分析論も難解だが、八木氏の宗教論も、当方普段あまり考えていないせいか、良く理解出来ないことが多い。例えば、「いのちの営み」などは重要なワードと思われるが直感的にというか、感覚的にというか、わからないせいか、「自我」や「真の自己」など議論全体の理解を妨げる感じがあってもどかしい。

 岸田論の理解が目的のための読書だから、それに資すれば良しとするのだが、宗教学や論理学、哲学用語が出てくると、もうお手上げなのは残念である。

 

 不学と加齢による理解力低下をまた思い知らされた。次は「幻想の未来」に挑戦するつもりなれど、この本の「幻想」は「自我」のことだそう。「自我の行方」は、はてどこへ行くやら。


 

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岸田秀再読 その22「幻想の未来」1985 [本]

 

岸田秀 幻想の未来 河出書房新社 1985

 

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 先日読んだ八木誠一氏との対談「自我の行方」の方が先(1982年)に刊行され、本書はのちに上梓された。「文藝」(1983.9〜84.8)に「唯幻論」のタイトルで掲載されたものをまとめたという。「自我の行方」巻末の往復書簡に登場する。「自我の行方」の前に読んだ方が良かったかもしれない。(とき既に遅しだが。)

 

 フロイトに同じ題名の著書があるそう。その「幻想の未来」における「幻想」とはキリスト教のことで、その未来はいずれ滅びる、キリスト教は迷信というのが論旨とのこと。

一方で、岸田氏の本著「幻想の未来」における「幻想」は自我のことである。強い自我を持つべしは病い、対人恐怖症などを論じ自我の未来(行方)を考察している。

 

 浅学の老人には、かなり難解な本である。例によってメモしつつ理解しようとするが、耄碌寸前である身には覚束無い。長い引用ばかりでまことに気が引けるが、後からも何度も読み直したいので、乞うご寛恕。

 

 §対人恐怖と対神恐怖

「日本人はその自我の安定を他の人たちに支えられて保っているがゆえに、対人恐怖が強いのである。自我の安定が、人に自分がどう思われるかと言うことにかかっていれば、人は恐ろしくないわけがない。(中略)日本人が他の人々を恐れるのと同じ意味で、欧米人は神を恐れる。神を恐れることを対人恐怖と言う言葉にならって、仮に耐神恐怖と呼ぶとすれば、日本人が昔から対人恐怖であるのと同じく欧米人は昔から耐神恐怖である。」p10

「中国は対天恐怖かも。日本人は欧米人の対神恐怖を強い自我と見たのである。自我の強弱の相対性を見ず実体的に捉えてしまった。そして近代的自我の確立を目指したのが明治維新後の和魂洋才、脱亜入欧の日本であり、文化人の代表が漱石。「自己本位」と「則天去私」の間で苦悩した。」

 

「つまり、日本人は、日本人の眼に映ったところの架空の欧米人、すなわち神に対しても、他の人たちに対しても、その他自分以外のいかなる存在に対しても「不合理な」恐怖を持たない、言い換えればどのような支えも必要とせず、それ自体で存立する自我を持つ自主独立の主体的個人になろうとしたわけである。」

 

 →その結果がどうなったか。国レベルでは、明治維新、欧米の殖民地化を免れ、日清、日露戦争を経て昭和の敗戦に至る。

 

 §引き裂かれた人間

 ・自己放棄衝動=没我、快感、安心感、愛、信頼、尊敬などポジティブな感情。幻想の母親(全知全能)に依存。拡大衝動より先に生まれる衝動。

 ・自己拡大衝動=我執 自尊心、自己主張、支配欲など。かつての全知全能を実現したいのだから退行現象でもある。恐怖と屈辱感に駆り立てられた衝動。

 

 人は、二つの基本的衝動の間に引き裂かれる。フロイトの「山あらしのディレンマ」。引き裂かれたままで生きていられない。決定的に解決は無理なので文化で誤魔化す。誤魔化し方は文化により異なる。

 欧米は自己放棄衝動のすべてを神に向け、神の回路を介して再び人間に取り戻す。自己放棄衝動を神に預けてしまうと他の人と友好関係を結べず自我を張り合いいがみ合い殺しあうほかない。一神教はこれを打開する巧妙な策だ。神に預けた自己放棄衝動を神の回路を介して再び人間に取り戻すのである。一神教同志でしかこれは出来ない。

 一方、日本では、日本文化は自己放棄衝動と自己拡大運動との解決しがたい葛藤を、欧米文化のように、それぞれ別の対象に振り分けることによってごまかすということをせず、直接的な人間関係の中で表現するという線は守りながら、特にタテマエとホンネを使い分けると言う形でごまかしてきた文化である。

 

 欧米人には①タテマエホンネの使い分けは不誠実、偽善と見える。②甘えは幼児的に見える。③暗黙の配慮、遠慮の態度は卑屈さに見える。

 

 →自己放棄衝動と自己拡大衝動に引き裂かれた人間は、文化で誤魔化さないと生きられないが、この文化が幻想だから厄介である。

 

 §「甘え」の弁明

「日本文化は、欧米文化においては幼い時に厳しく禁圧され、神の方へと逸らされる自己放棄衝動を直接的な人間関係の中に温存して甘えとして形づくり、人間と人間とのつながりの基本的パターンヘと練り上げ、洗練し、昇華させた文化であって(中略)日本文化のあらゆる面が甘えを中心として構造化されている。」

「要するに、日本文化か、欧米文化かの問題は、人間と人間とのつながりの根拠として、母子関係という幻想を信じるか、神という幻想を信じるかの問題である。どちらも幻想なのだから、まさに文化の究極の根底は、「とにかくこっちを信じる」ということでしかないのである。」

 

 →甘えをなくすためには日本人の人格構造を変える、日本人の根拠を神やその他普遍的原理に求める、相対主義世俗主義をやめるなど文化体系を変えねばならないが、欧米の文化を変えられないのと同じくそれは無理というもの。両文化の中間もあり得ないと言うのが岸田氏の持論。なぜなら文化は幻想だから。それはその通りだけど。やるせない。

 

 §「卑屈さ」の研究

「岩川隆(1933〜ノンフィクション作家)は、要するに近代化によって日本人としての伝統的な倫理観や感性を否定し、この日本という風土自然の中に基盤を持たない欧米式の道徳観や、あるいは逆に、同じくそういう基盤を持たない観念的な愛国心を強制したことがミヤジマ・ミノルのような人物を生んだと考えているように思われるが、岩川の見方は私が本書で述べていることと基本的に一致していると思う。(中略)このような日本兵の「卑屈さ」は彼らだけに特有の事ではなく末期の幕府、初期の明治政府の欧米諸国に対するそれ、敗戦後の占領軍に対するそれ(同じ敗戦国であったドイツにおいては見られなかったような)と同じ根から出ており、この根はまだ無くなっていない。言ってみればこの「卑屈」な日本兵の捕虜たちは、アメリカを神とする日本の戦後民主主義の予兆、走りであった。」p82

 

 →ミヤジマ某は米軍の爆撃機に乗り込んで爆撃地点を支持した日本兵の捕虜。われわれ近代人の一人一人の中にミヤジマ・ミノルが住んでいることを忘れまいと岸田氏は言う。

 内なるヒトラー、内なるミヤジマとは確かに怖い指摘である。

 また、卑屈か忠誠かは観点の問題で、対神恐怖の欧米人の神への態度は卑屈に見え、日本人の対人関係も欧米人から見れば卑屈に見えることもある。首尾一貫した忠誠の対象(企業など擬似共同体も)がなければ個人は卑屈にもなる。場当たり的に一時凌ぎで自我を守ろうとするからである。近代的自我は急拵えで不安定、不確実だったのだからというのが岸田氏の言いたいことだ。

 

 §ふたたび自我の問題

「自我はつくり物の幻想であって、なんら実体的根拠のあるものではなく、自分の外に存在する(もちろん幻想として)何らかの存在(神、理念、世間等)に支えられる必要があること、かつ、自我は自己放棄衝動と自己拡大衝動とに引き裂かれている。」

 

 ・自我=他者、過去、死、幻想 

伝統とか常識とかの既成の何らかの共同幻想、すなわち過去において形成されて伝わってきているものにもとづいており過去が自我を形づくる。自我とは言わば死んだ過去である。自我は固定した秩序。

 ・エス=自分、現在、生、現実 

エスとは、当人の生命が存在全体の中の、自我から排除されたもの、すなわち当人の存在そのものでありながら、当人がこれは自分ではない、自分のものではないと思っているところのものである。従って、例えばある衝動も、当人がこの衝動は確かに自分が持っている衝動であると思っていれば自我の1部をなしているが、当人がそう思っていなければ、すなわちその衝動を抑圧していれば、エスの1部である。 エスは流動する混沌。

 

「ところが、我々人間は、自我こそが現在の自分の生きた現実だと思っており、本当にそうであるエスについては無意識、無自覚である。自分に属さないものとして、自我から排除しているのである。ここに人間という存在の根本的倒錯がある。人間とは、他者を自分、過去を現在、死を生、幻想を現実と思っている存在である。」

 

 →この章はなかなか難しい。特に最後の〜人間とは、他者を自分、過去を現在、死を生、幻想を現実と思っている存在である〜は、未だ実感としてストンと落ちない。エスの概念がよくわかっていないせいだからと思う。エスは幻想でなく現実なのか。いやはや。

 

 §「真の自己」

「私に言わせれば、「真の自己」なるものは、どこにも存在しない。個人の人格構造は、相矛盾する様々な要素から成り立っている。「誠実で協力的な」要素も「残酷で加虐的な」要素も個人の人格構造を現実に構成している要素であって、その一方を「真の自己」他方を「偽りの自己」の表現とみなす事は、一定の恣意的な価値基準に基づいて、個人の精神内容を狭く規定することであり、人格内部の抑圧体制を強めこそすれ、何か押さえつけられて実現を妨げられているものを実現することにはならない。真偽の基準は当人の世界観、人間観によってどうにでもなる。」p129

 

 →どこにも無い「真の自己」に自我の支えを求めても無駄であるだけで無く、危険だと岸田氏は言う。「真の自己」とか言われているものは、神その他の外部の超越的存在を自我の支えにできなくなった近代人が、個人の内部にそれを求めようとして作り上げた架空のものであり、いわば内なる神である、とも言う。真の自分探しなどあり得ないということである。

 

 §自我と欲望

「真の自己のように個人に内在する普遍的なもの(神など)が存在していれば好都合だが、無いとすると個人の心の中の「欲望」に自我の支えを求めるようになった。

 われわれの欲望は本能的欲求の派生物でなく、それらの他者たちの欲望の集積である。

人間の欲望はすべて自我に発する。したがって、すべての欲望は唯一の原型的欲望に集約される。それは自我の形を整え、自我を安定させたい欲望である。様々な欲望はこの原型的欲望のさまざまな現象形態である。

 自我の上に立って自我を説明するのも自我でありこの自我が存立するためには、さらにその上に立って、この自我について説明する自我がなければならない。これはどこまでいってもキリがない。人間が自我の究極の支えとして神を必要としたのも、この無限遡及に終止符を打つためである。

 自我はまさに空中楼閣であり、自我の確実な根拠はどこにもない。」p168

 

 結論 自我の決定的安定は無いのだから、欲望の目指しているところは実現不可能である。欲望が挫折するのは、たまたま不運にもその実現を妨げる外的要因があるためではない。欲望は満足されても、満足されなくてもその目指しているところに到達できない。ただ、本質的に不安定な自我にもかりそめの安定はあり得るが、このかりそめの安定は欲望の満足の予想によってしか得られない。欲望の満足そのものが自我の安定のために必ずしも必要でないどころか、かえって自我を新たな仕方で不安定にする。

 欲望の対象は、喉の渇きにとっての水のような現実的対象ではなく、すべてフェティッシュ(物神、呪物=呪力や霊験がある物)である。自我の安定した形にとって欠けているものが欲望の対象であるが、自我の安定した形とは安定しているように見えた他者の自我の形を借りたものに過ぎずなんら根拠のない幻想であって、ある特定の形で自我を安定させなければならない何の必然性もなく、自我のあるべき形が生まれつきの本能とか気質とか、才能とかによって決定されているわけでもない。p193

 

 →この説明も自分には難しい。

 

 §自我の支えの否認

 近代以降の葛藤

 ・欧米人は自我の支えであったキリスト教の唯一絶対神を否認して、それを理念などに求めたが、依然として内的葛藤が続いている。

 ・日本人は伝統的な世間、先祖を否認し近代的自我という迷妄に陥り、対人恐怖症、真の自己や欲望に自我の安定を求めたが出来なかった。

 

 欲望とは、既に繰り返し述べたように、安定している(と我々に見える)他者の自我を基本として己の自我を安定させたい欲望に他ならならないからである。したがって、そのいずれの呼び方をしようが同じことなのである。同じものが、ときには規範、ときには欲望と見えるのは、それがどれほど社会的に共同化されているかの違い(すなわち共同化されない個人的な規範は欲望と見えるであろうし、共同化された欲望はちゃんと見えるであろう)それに対する我々の態度の違い(すなわち、同じものがそのネガティブな面で捉えれば規範、ポジティブな面で捉えれば欲望となるであろう。)などによるに過ぎない。p229

 

 →岸田氏のこの本の最後の結語は、「われわれはまだこの幻想にしがみつき続けるであろう。しかし、もしこの幻想にしがみつき続けざるを得ないとすれば、少なくとも、そのことがどういう結果をもたらしているかを知った上でしがみつき続けるべきであろう。」p232である。

 

 →どういう結果をもたらしているか、とは日本人は内的自己と外的自己に分裂した状態が続いている(対米従属)。欧米人は一神教キリスト教を完全否認せず、幻想たる理念に囚われ戦争に明け暮れている状態だと言いたいのだろうと推察する。

 

 読後感

 幻想=自我の未来について、自我を棄てれば生きていけないのだから、これからもしがみついていかざるを得ない、とすればそのことがどういう結果をもたらしているかを知っておけと岸田秀氏は言う。

 どういう結果とは、上記のように国レベルでは日本の対米従属、世界の絶えることのない戦争などと思うが、個人レベルでは、どうか。自分のこととして考えてみる値打ちはある。しんどいが。

 

 この本は岸田氏の唯幻論理解のためには、重要な「自我」を論じており正しく理解せねばならないが、残念ながら自分には少々難解である。

 

  夏風邪や 我執と没我往き来して


 

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岸田秀再読 その23「唯幻論物語」2005 [本]

 

「唯幻論物語」岸田秀 文春新書 2005

 

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「支配的で勝手な親の弾圧、無理解、虐待などがストレスを生み、そのストレスに苦しんで子が神経症になるというような直線的因果関係を小谷野(注)は信じているらしいし、他にもそのように思ってる人は多いようであるが、この因果関係の因と果の間にはもうちょっと込みいった紆余曲折がある。(中略)わたしの場合は、むしろ、母がわたしを育てたのはただ単に、老後の生活の安定という現実的、打算的な目的だけのためではなかったからこそ、すなわち、そこに他のいろいろな動機が絡んでいたからこそ、神経症に追い込まれたと考えられるのである。」p33(母との対立 §2神経症)

 

 注)小谷野 敦(1962〜 )は、作家・比較文学者。愛称、猫猫先生。恋愛の比較文学的研究から出発し、「もてない男」を出版し、ベストセラーになる。「新近代主義の提唱」を展開している。

 

→この本を執筆したのは、小谷野敦著「すばらしき愚民社会」(新潮社)の中の岸田氏紹介文が動機だそう。つまり小谷野氏への反論ということになるが、内容的には、唯幻論を唱えた理由などで、特に新しい説明は無い(ように思える)。ただ文中主題に関係なく、面白いと思った箇所は幾つかあったので、以下記して見たい。

 

「いずれにせよ、人が唯幻論を好むかそれとも嫌うかは、まず、その人の親子の関係がどういう関係であったか、幸せな関係であったか不幸な関係であったか、その人にとって現実とは何か、現実に対して肯定的か否定的か、現実とその現実感覚との間にズレがあるかないか、などによって左右されるのではなかろうか。」p115(現実感覚の不全と唯幻論 §5現実感覚)

 

 →岸田氏ならずとも、「唯幻論」への読者の反応は賛否両論に分かれて面白い。自分のことも含め、確かに生い立ちや性格に関係がありそうにも思うので。

 

「最近は、鬱病の薬物療法が発達し、抗鬱剤で鬱感情をかなり解消できると聞く。したがって、鬱病は心因でなく、脳内物質などの生理的条件に起因していると考えざるをえないが、わたしは薬学も精神医学も知らないのでよくわからない。」p128(抑圧された不満 §6母と父)

 

 →自分(岸田)の場合は心因性のものとして説明可能なので、薬物療法を用いる精神科医がいうところの鬱病とは違うのだろうかと、率直な疑問を書いている。自分も知りたい。

 鬱病に限らず精神的な病が、心因性か脳内物質あるいは腸(?)などの生理的な要因なのかは、特に治療のことを考えると、重大な関心事である。岸田氏ならずとも、大層興味深い疑問である。心因によって鬱になったときに、脳内の細胞に何らかの物質が生じて同じ脳内の細胞に作用してトラブルが発生するのであろうか。抗鬱剤、睡眠剤などは、それに対してどう作用して改善するのだろうか。詳細なメカニズムは無理として、原理的なことは知りたいものである。現代医学ではかなりのことが解ってきているのではないか。

 心因性なら精神分析治療が、生理的要因なら薬物療法が有効なのか、併せて治療すればより効果的なのか。

 

「精神分析とは、実のところ、誰でも普段に自ずと知らず知らずのうちに用いているありふれた常識的な人間理解の方法をいくらか深めて体系化したものに過ぎない。早い話が、精神分析が記述しているような精神現象のほとんどは、とっくの昔に諺や箴言の中で言及されている。

 

「下司の勘ぐり」(投影)、「歴史は繰り返す」(反復強迫)、「己惚れと瘡気のない奴はいない」(ナルチシズム)、「可愛さ余って、憎さ百倍」(アンビバレンス)、「頭隠して尻隠さず」(抑圧)「泥棒にも三分の道理」(合理化)、「江戸の仇を長崎で討つ」(すり換え)、「三つ子の魂百まで」(幼児期の重視)、「鰯の頭も信心から」(宗教幻想論)、「朱に交われば赤くなる」(摂取)、「怪物と戦うものは怪物になる」(攻撃者との同一視)、「岡目八目」(無意識は他者に見える)、「羹に懲りて膾を吹く」(反動形成)、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」(同一視)、「類は友を呼ぶ」(集団形成)、「一事が万事」(転移)など。」p162(精神分析とは §7葛藤)

 

 →面白い。岸田氏の頭の柔らかさからくる喩えの上手さには、たびたび驚かされる。なるほど、なるほどと感心する。が、上記の中には、精神分析の用語に詳しくないせいか、はて(?)と思うものもある。たとえば、

 

 ・岡目八目(第三者は当事者よりも情勢を客観的に判断出来る)が「無意識は他者に見える」とは(?)。他者からの方がよく見えるという意か。

 ・己惚れ(おのぼれ)=自惚(うぬぼれ)と瘡気(かさけ)=梅毒のないやつはいない、が「ナルチズム」とは(?) 。ナルチズムは「自己陶酔」や「己惚れ」であるが、梅毒が誰にでもあったのは昔のこと。諺の方が変なのか?。

 ・ある対象に対し相反する感情を同時に持ったりするアンビバレンス=相反する態度を取ることが「反動形成」=慇懃無礼=「羹膾(あつものなます)」とは(?)などである。

 

「私は、個人心理を集団心理に当てはめているのではなく、個人心理と集団心理とは同じ観念群を材料として同じ原理に基づいて構成され、同型、同構造であるから、同じ理論で説明できると言っているのである。」p193(個人心理と集団心理 §8史的唯幻論)

 

 →この方が(これまでより)簡潔で一般の人には分かりやすい説明だと思う。

 

「個体発生が系統発生を繰り返すかどうかは知らないが、集団の中に生まれた個人は、集団に存在する無数の観念群を受け容れ、内在化し、構築して精神を形成する。個人も自分についての物語を持つことによって個人となる。それは人類の祖先が人類になったときの過程と同じ過程であろう。個人の心理構造に先祖の心理構造と共通な要素があるのは、「集合的無意識」が遺伝されるからではない。両構造の間に共通な要素があれば、それを「集合的無意識」の遺伝によるとしか考えないのは、想像力がいささか貧困である。」p193(史的唯幻論 §8史的唯幻論)

 

 →理由は知らないが、個体発生が系統発生を繰り返すのは、胎児の成長過程などから見ても、事実と思われる。集団の発生において系統発生的なものはあるのだろうか。少なくとも個人と集団の違いのひとつだろう。このことは前から気になっているのだが、それは岸田氏の唯幻論に何か関わりがあるのかそれとも、ないのだろうか。疑問が湧くがその先に進めない。

 

「1853年にペリーに強姦されたときに生きていた日本人は、今では全員死んでいるが、そのときの日本に欧米との関係における外的自己と内的自己との分裂という観念構造が形成されると、それは、ペリーのことなんか聞いたこともない今の日本人に何らかの形で伝わっていると考えられる。インディアンを大量虐殺した時代のアメリカ人は全員死んでいるが、この虐殺の経験は、例えば、イラクにおける今のアメリカ兵の行動パターンに影響を与えていると考えられる。」p197(史的唯幻論 §8史的唯幻論)

 

 →これも岸田氏のの繰り返し主張していることの一つながら、この書き方の方が一般の人には分かりやすいのではないかと思う。

 

「幻想が歴史を決定するのであって、経済的条件等のような具体的、物質的要因が歴史を決定するのではないから、歴史には何の必然性もない。(略)ある事件が歴史的事件として選ばれるのは、その事件が招いた事態が、もしその事件が起こらなかったとすれば、こうなったであろうと想定される事態と比較して、我々にとって重大であると感じられるからである。(略)フランス革命が歴史的事件であるのは、もしフランス革命が起こらなかったとした場合に想定される事態との比較においてでしかない。すなわち、あらゆる歴史的事件は、「もし」(if)に支えられているのである。そして、何を「もし」とするかも、幻想の問題である。「もし」がなければ歴史はない。」p199(幻想が歴史を決定する§8史的唯幻論)

 

 →歴史に「もし」はないなどと馬鹿げたことを言う人は、歴史を必然とでも考えているのかと岸田氏は言う。また「もし」を考えるから歴史はあり、幻想が歴史を決定するとも断言する。歴史の「もし」(if)は歴史分析に必要不可欠であると自分も思う。

 

「ヨーロッパ人が、近代を通して、ヨーロッパ民族の優秀性を繰り返し繰り返し執拗に強調し続けていることや、日米戦争において、日本軍の作戦や戦闘が現実的勝利よりも、むしろプライドを守ることに重点を置いていたことからも、幻想の自我を守ることが民族や国家の最重要の目的であることに疑問の余地は無い。人間は個人としても集団としても、自我という幻想を守るために生きているのである。人間の歴史は幻想の歴史である。」p206(幻想の自我を守る §8史的唯幻論)

 

 →この本の末尾の文章である。書かれていることは、これまで読んできたものとほぼ変わりはない。

 集団の歴史を書いて個人の歴史を書いてないが、試みに岸田氏の論で書いて見るとこうなろう。

 人も自我という幻想を守るために生きているのである。人の一生は幻想の一生である。 そして「下天の夢に比べれば夢幻の如く」で、「浪花のこと夢のもまた夢」と付け加えてみたい。

 

 読後感

 この本は、この時期までの岸田氏による20冊余り(対談などを除いて)の著書の中では、自分が企画して書いた初めての書き下ろしという。それが岸田氏への反批判というのが少し、残念。前から思っているが、読者にはいろいろな人がいるのだから、批判などあまり気にかけなくても、良いような気がするからである。


 

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岸田秀再読 その24「フロイドを読む」1991 [本]

 

「フロイドを読む」岸田秀 青土社 1991  

 

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 本の題名を見れば、誰でもフロイド入門かと思うが、そうではなかった。岸田氏の子供の頃からの変な行いの原因を究明する過程で、巡り合ったフロイド学説を手掛かりに自己分析を続けた詳細を余すところなく(フロイド理論と自分の行為とを対照して、)解説したものである。

 まず、冷徹に自分を曝け出す勇気にまず驚嘆する。とてもここまで自分をあからさまに出して、活字にすることは常人には難しいのではないかと思う。人皆多少は、神経症というから、多くの人に読まれて、参考になったに違いないとも思った。

 

 例によってメモしつつ読んだが、フロイドの引用部分は特に専門用語が頻出して難しい。まだしも岸田氏の記述の方が、少しは分かりやすいような気がする(気がするだけかも知れないが)。

 

 ・フロイドとの出会い

「フロイド理論を信じない限り、他に(強迫神経症から)脱出の希望は持てない。私はじめ、そういう追い詰められた事情があって、フロイドを信仰したのであって、その理論をよく理解した上で、フロイドを正しいと判断するに至ったのではない。それは盲信であった。フロイド大明神にすがったのである。」p23

 →敗戦直後、岸田氏は中学生の時に「フロイド精神分析体系」、「フロイド精神分析学全集」手にしたというから恐れ入る。池田晶子は確か14、5歳が哲学を勉強する適齢期だと言っていたような気がするが、ノーテンキだった我が身に比べてとても考えられない。

 

 ・強迫観念と行為化

 岸田氏の行為化とは、「借りていない借金を返済したい」、「真っ直ぐ歩かねば」、「外泊癖」「うろつき癖」、「妹いじめ」などなどであったと言う。

 強迫観念は①馬鹿げている②自分の生活が自分の考えで動かせない③苦痛④みっともない。(それにはた迷惑も加わるだろう)

 強迫観念は馬鹿げていない、正しいと逆転してみた。すると行為化の背後にある抑圧されたものを徐々に意識化するようになった。

 「強迫観念は辛く馬鹿げた事なのでやめようとすると余計に強くなるので、逆に強迫観念は正しいと考えた。フロイド説に従って。

 

 →まさに逆転の発想ではあるが、これも常人に出来ることでなく驚嘆するのみだ。

 

 ・目立ちたがり

「幼い頃、私が目立つことを非難したのは母であった。幼い私にとって、その頃の母は何でもわかっている。全知全能者であった。誰かが私の目立ちたがりを非難すると、幼い頃の同じような光景が再現し、私は退行を起こし、全知全能の母親像がよみがえってその母親像が非難者に投影され、彼は全知全能の母親と同一視される。その結果、彼は全知全能と見えてくるのである。」p71

 

 →自分を非難する者が全知全能者のように思え(脅迫思考)、畏怖と崇敬を感じ、怯えて反論できない理由を上記のように説明している。退行、投影、同一視の流れで相手が全知全能に見え怯えるという。

 

 ・自己分析

「自己分析においては、自分が見たくないものを自分に見えるようにしなければならないわけだから、絶望的に困難であり、フロイドの言うように限界がある事は確かである。また極めて非能率的であることも確かである。自分の無意識は、自分と違って、他者にはそれを見たくない理由は無いのだから、当然のことながら、丸見えである。」p78

 「自分の無意識は、自分では発見できない。フロイドが言うように他者が必要なのである。自分の無意識は、自分の心の中にあるのではなく、むしろ自分の行動に対する他者の反応の中にあると考えた方が良い。」p82

 

 →岸田氏は自己分析はやらない方が良いと言う。他者の方がよく見え、自分では自分のことは分からないのだから、と。納得感がある。

 

 ・反復脅迫と転移

 反復強迫はなぜ起きるか。自動的に(親子関係)鳥の刷り込み。反復自体についている快感。自我が安定する。自己正当化。抑圧された衝動が不可能な満足を取り戻そうと繰り返し求め続ける。などなど

 フロイド説。反復が衝動の本質=死の衝動仮説 「衝動は以前の状態を復元」しようとする、生命体に内在する強制力。あらゆる生命の目標は死だ。

 「(フロイド)のこの説は(本能崩壊した)人間の欲望についてのみに妥当する(動物はそうでは無い)。

 「反復ばかりしていては滅ぶので、それに適応する行動パターンにはめ込む作業=精神発達、人格発達作業。 衝動の1部は、この作業に服し自我に統合されるが、残りの部分は無意識(エス)にとどまり、現実の諸条件に影響されない。この残りの部分の衝動が反復強迫的であるのは言うまでもないことである。(中略)自我から排除されているそれらの記憶や感情が衝動となり、脅迫的に反復されるのである。つまり不幸な親子関係ほど反復される。」p107

 

 →岸田氏の自らの辛い変な行為の繰り返しを、自分の母との関係にあるのだ、と反復強迫の説明をしているのはよくわかるが、この項は難かしいと思う。反復強迫の原因、その事例などが説明されるが、マゾヒズムの説明に入り込んだりするので、何かまとまって頭に入ってこない。反復脅迫と転移の関係も医者とクライアントだけの話か、良く分からない。どこかで結論をまとめたり、概要があると良いのだが。この項に限らず、テーマからしてどだい無いものねだりなのだろうとは思うが。

 

 ・恩着せがましさ

 「母は恩着せがましい人であった。今から思うと、母自身、神経性ではなかったにしても、かなり神経症的であって、その恩着せがましさも1種の反復脅迫であったかもしれない。」p140

 「母の恩着せがましさを私が他の人間関係において反復したのはどういうメカニズムだったか。自我は母の恩着せがましさを愛情だとする正当化を維持しようとしており、エスは母の恩着せがましさへの復讐の衝動を満足させようとしており、この2つ動機が出会って、形成されたと考えられる。」p153

 

 →無意識の方は、愛情がないとして母の恩着せがましさを恨む。一方で意識は愛情の形として、自我の安定のため母の愛情を正当化したい。岸田氏はこの間で葛藤し、強迫観念に脅かされ他人に当たるのだという。だが、母親の恩着せがましさをそれと認識し、自分が母を憎んで当然だと気がつくと、罪悪感がなくなり他人への恩着せがましさを、強迫的に反復しなくなったと言う。

 

 ・対象選択

 恋愛関係のパターンは親子関係のパターンの反復である。

 第一系列の恋愛=正常な恋愛。年上の恋人=僅かに残っている母親固着だ。

 第二系列の恋愛=強迫的、自己色情的、片思い。母親固着=恋愛対象が母親代理。

 「そこ(第二恋愛の分析)から見えてきたのは、幼い時の私が、いかに荒涼とした陰惨な世界に生きていたかということであった。母は慈母の仮面をつけた鬼畜であった。この鬼畜を慈母と信じようとしたことが、私の神経症の原因であった。」p194

 

 →岸田氏は二つのタイプの恋愛を幾つか経験したと言う。第二の恋愛は母親固着であり、その母に対する表現は強烈である。

 

  注)固着=精神分析で、発達の途上で行動様式や精神的エネルギーの対象が固定され、それ以降の発達を妨げられること。

 

 ・現実喪失

 「個人が知覚する諸々の現実に解決しがたい矛盾が持ち込まれるのは、要するに、私の場合のように、個人が現実を構築していく発達過程において、彼にとってももっともな重要な人物である親が嘘を現実と偽って提示するからである。この欺瞞さえなければ、相当ひどい親であっても、子供を神経症や精神病に追い込む事はないと思われる。私は母をいまだに恨んでいるのは、母が私を愛していなかったからでも、私を利用しようとしたからでもなく、この欺瞞をやったからである。」p219 「私のようにこの種の欺瞞をやられた者は、現実が2つに分裂し、意識的に信じている現実と無意識へ抑圧されている現実との間に現実感が分割され、どちらの現実の現実感も不十分で、そして、どちらにも空想(非現実)が入り混じっているが、それぞれ現実にある程度の根拠を持っているので、そちらもまるっきりの空想(非現実)と言うわけでもないと言うような曖昧なな構造ができあがる。」p220

 

 →言っていることはおおよそ解るが、親は、人は、ここまで無意識のうちに欺瞞出来るものであろうか。親が嘘を現実と偽って提示する=欺瞞は、意識してやることはあるような気がするが、無意識にやることはあるのだろうか。それは自己欺瞞か。このあたりも自分には良く整理されていないらしい。

 

 ・現実喪失と固着

 「現実喪失の原因の1つとして、これまであげてきたものの他に、幼児期のリピドー対象、人間関係のパターン、心的構造、観念体系等への固着がある。固着とは過去への固着であり過去が現在の現実では無いのだから、固着が現実において現実喪失の原因となるのは「犬が西向きゃ尾は東」と同じく当たり前の話である。」p233

 「リピドーに固着傾向があるということは、つまり「精神生活においては、最近の印象よりも記憶痕跡の方が優位にある 」からだ。(中略)固着は、過去のどうでも良い体験に関してではなく、当人にとって耐え難い精神外傷体験に関して起こる。」p235〜6

 「どれほど不適応を招こうが、固着観念がそのまま持続するのは、本来なら、その観念を消滅させるはずの妨害作業作用が、その観念に達しないからである。無意識へと抑圧されたと言う事は、その観念が、いわば、現在の現実の影響を遮断する無意識と言う箱の中に入れられていると言うことであり、したがって、現実においてどれほど不適応を招こうが影響されないわけである。固着に関して問題となるのはこの遮断であり、あるリビドー対象なり、観念なりの「慣性」ではい。p 248

 

 →この項がここに(最後に)あるのはよく分からない。岸田氏が観念に固着する、すなわち強迫的にいつまでも(繰り返し)母のことを持ち出すことの釈明だろうか。

 

 読後感

 「母は慈母の仮面をつけた鬼畜だった」、「この鬼畜を慈母と信じようとして神経症になった」とは凄まじい表現だ。如何に岸田氏の強い思いが持続しているかを示している。

自分はノーテンキに反対夢想してみた。

 母御は、心労が重なったこともあったのか、くも膜下出血で倒れたが、その治療において出血を止めた手術のときに生じた衝撃とその時に使った治療薬が効き、突然我が自己欺瞞に気づく。すべてを岸田氏に話し、赦しを乞う。岸田氏もそれを受け入れて強迫神経症が寛解した。めでたし、めでたし。

 

 このハッピーエンド幻想は、強迫神経症が心因性でなく、もしかすると脳生理学的な原因にあるのではないか、とどこかで疑っているからであろうか。

 

 とまれ、唯幻論の源流が、岸田氏のかつての病いとフロイド学説にあることを、あらためて知ることの出来る一冊ではある。


 

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岸田秀再読 その25「心はなぜ苦しむのか」朝日新聞社 1999 [本]

 

「心はなぜ苦しむのか」朝日新聞社 1999(朝日文庫)

 

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 前回読んだ「フロイドを読む」は、1991年刊行であるが、この本は5年後の1996年刊行(毎日新聞社)である。文中に何度か引用されており、読んだ順序というかタイミングは、偶然ながらベストである。

本は、毎日新聞社出版局の編集者の志摩和生氏が岸田氏にインタビューする方式。インタビュアーも経験したという「鬱」、「神経症」などがテーマである。

 

 結論から言えば、自分には面白い本であった。面白いとは語弊があるが、自分が「フロイドを読む」を含め、ずっと感じてきた岸田氏の強烈な母御への憎しみとも言える感情への違和感を、志摩氏が執拗に本人に迫り、それに対して岸田氏が撥ね付ける第二部巻末部分(「許せないこと」)である。

 志摩氏は岸田氏の母親にエンパシー(感情移入、共感)を感じ、母御を許せないものか、そうしないと岸田氏も傷つくし、母御は亡くなってもういないのだから解決策がないと言う。

 自分も志摩氏と同じことを思った(エンパシーなるものは湧いていたか、どうかは不明だけれど)が、よく分からなかったので、「フロイドを読む」を読んだ時、「くも膜下出血で倒れられた母御が、手術をした時の衝撃で自分の誤りに気づき、岸田氏に謝り、氏もこれを受け入れて強迫神経症が治る」という「夢想」で誤魔化した。

 再三にわたって質す志摩氏への、岸田氏の答えは凄まじい。推察するに90翁になった今でも岸田氏の考えは変わっていないだろう。

 

 (注)エンパシーは、自分と違う価値観や理念を持っている人が何を考えるのか「想像する力」、シンパシーは、同情や共感など、感情の動きを示す言葉。

 

 以下例によって気になったところ(岸田氏の言)を§章ごとにメモしながら読んだ。「・・・」は引用。→は、自分の所感など。

 

 注)引用は出来るだけ「ママ」にしたかったが、対談など話し言葉は、「意訳的」にまとめたりしているものがある。また、わたくしが、「私」、つづくが、「続く」など、ときに著者の表記と異なるものになっていたりする。論旨に変わりはないが、お断りせなばならない。なお、これらは岸田秀再読共通であり、この記事だけに限らない。

 

第一部 心は何を恐れているか

 

§不安の心理

「神経症に対する治療については、薬か精神療法かは、二者択一ではない。薬は一時的に抑え、精神療法は持続的効果をもたらす。」p5

 

→鬱や神経症が心因性か生理的なものかには興味がある。両方なのだろうが。

 

§神経症体験

「恋愛は不安、鬱からの一時的な逃亡。病気の始まりということもありうる。」p76

「唯幻論の考えは空しい。鬱病的傾向が子供の時から。抗鬱剤が効いたから、身体的原因もある。抑鬱、自己否定的思考を自覚させるのが認知療法。無意識的観念などを自覚させるのが精神分析療法。自己否定的思考の起源を探るのが特徴的。」p78

 

→薬物療法のほか精神分析療法と別に「認知療法」というのもあるのか。

 

§偽りの自我

「自我+エス=存在全体の図式でいえばなるべくエスを自我の中に取り込み、自我を組み替えれば神経症的不安は減少する。 自分で自分を解体するようなもの。難しい。

鬱は自己否定が勝って安定=株の安値安定。不安は自己主張と自己否定の葛藤状態。強迫観念は不安からの逃亡。

 存在に支えられている自我。偽り(強弱ある)の自我は、神経症を引き起こし易い。

存在= もって生まれたものと自然な成長や努力によって得たもの、その後の経験で身につけたものそれらのものを合計した一切合切。存在の中で本人が自分だと認識していない部分がエス。

 自我とエス=存在全体から自我化された部分を引いたものは常に葛藤状態にある。自我は自らを固めようとする。エスは抑圧の壁を突き破り自らを表現しようとする。

偽りの自我(の起源)=親に押し付けられた規定された自我。

                   図

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 偽りの自我は、現実に適応しているが、存在に根をもっていないので存在に反逆される。現実的自我は、現実に適応かつ存在に根を持つ。重なり部分が大きいほど安定した人格構造。人格構造の不安定。

 

 図2A 広い自我を築いているが存在に根を置いていない偽りの偽りの部分が多い=ずれている自我。

 図2B 自我のすべての部分が存在に根をもち偽りはないが、自我自体非常に狭い=狭い自我。

 

→このベン図も自分にはどうしてもストンと腑に落ちない。どこにその原因があるのか。何度も考えるのだが不明だ。

 

 「生きる喜びは存在自体の自己表現にある。p116人間生命の存在はむなしくない。観念は別。生命存在は幻想ではない。生命存在を全面的に生きようとすると不適応になり破滅。破滅を避け安定を求めればひからびた、つまらない人生を送らざるを得ない。安定と生きる喜びは二律背反。人間は両性具有。

 

→ここになぜ両性具有が出て来るのか不明。なお、人は女が先に生まれたのち、男が後から生まれたことはあまり出てこない。何やら男女の精神形成などに影響が大きそうな気がするのだが。男は急拵えなので色盲など欠陥も多いと誰かが言っていた。

 

「フロイドは男であるのが人間の本来のあり方で、女は男のなりそこねのように扱っているが、現存する性差別の中で男と女がどのように形成されているか描いているだけで性差別を擁護しているわけではない。むしろ男も女も作られるとはじめて明かした」p203

 

→異性の親に育てられるか、同性の親に育てられるか、で男と女に別れるというのがフロイド説とか。同性の母に育てられた女の子は不運。上記の自分の疑問と関連性ありや?なさそう。

 

§恋と憎しみ

「自我にもとづいて擬似現実に適応すれば生存は確保されるが、退屈で無意味で生きる喜びのない人生となり、壊れた本能を表現すれば、不適応になって滅びると言う二律背反を背負わされている。」p129

 

→あちこちに二律背反が出て来るが、今一つ納得感が弱いのは我が理解力が弱いからか。

 

「精神分析でいう置き換え、すり替え=父親、母親のような幼い時の重要な人物との関係のパターンが別の人物との関係にずらされること 別の人物との関係は、現実のその人に基づいているわけではないので、当然現実離れしており、現実の状況に見合っておらず、強迫性を帯びる。」p143

「パーソナリティーというのは、要するに思想体系であり、価値体系であり、世界観ですから全部がつながっていると思う。天皇制、恋愛、政治など。」p153

 

→それはそうだろう。一貫していなければ多重性格、性格破綻。

 

「人間は精神的に成熟し、悟りを開けば、全てを許すことができるようになる、という幻想をある種の宗教が理想の目標として説くのはいいですが、一個の具体的人間がそのような理想を実現できると信じるのは迷妄です。僕は母を許しません。」p 163

 

→宗教における悟りは幻想どころか迷妄。されば、人は許せないものは許せない。憎いものは憎い。岸田氏は、自分は一個の「具体的」人間だと言っている。具体的とは観念的で無いということだ。うーむ、こうなるとここで行き詰まり、解決策は無くなる。放っておくか、触らず関係を断つしか道はないと、氏の結論へひたすら進むことになる。

 

第二部 現実の母と現実の私

 

§人間の出発点

「口唇期(生後1年)は、栄養摂取のみならず母親依存、世界と繋がる。肛門期(4〜5歳)は、母に対する自己主張、母親を別個の人間として認識して自我が芽生える。母親依存を屈辱と感じ不満攻撃性が出て来る。人間においては、世界との関わりたい欲望が栄養摂取機能にも排泄機能にも生殖機能にも寄りかかる。あと男根期、性器期とつづく。ただし必然的な発達段階でも無い。p187全知全能の母親依存を屈辱と感じるから、自我意識の根底には屈辱感がある。」p190 

 

→これらが人間の出発点。唯幻論による。

 

§自己愛と性格

「生物学的には大人にならないのだから、人為的に大人にならなければならないというのが、人間に負わされた運命です。p195大人とは、①社会通念を受け入れ社会に適応した人。②潜在している可能性を実現していく人。適応派と実現派。フロイドは固着と退行という。「大人になるのは、全能感が縮んでいく過程。」p199

 

→幼形成熟のことか。大人とは何かも難しいし、本来大人になりたい欲求もないとも言う。

 

「欲望は人間に特有なもので、どのような欲望も自己放棄と自己拡大の二大衝動に由来している。その基盤に葛藤と不安があるのが特徴。」p202

「幻想の自己はナルシシズムに由来し、現実の自己は人々との関係の中から生まれるのですから、起源が別であって、もともと分裂しているものなのです。」p 207

「自分の性格というのも、自分が投げ込まれている現実の諸条件の1つであって、それを踏まえて現実の問題に取り組むほかはない。」p209

「日本人もヨーロッパ人も一般にまず母親に育てられるわけですが、ヨーロッパ人においては母親との関係に父親が割り込んでくることから問題が生じ、日本人の場合は母親との関係が濃すぎ、長すぎて問題が生じる。」p233

 

→ヨーロッパは一神教、父家長制。日本は家庭主義、母親中心。文化の相違が大きい。

ヨーロッパは母親との関係に父親が割り込み、日本は母親との関係が濃すぎ、長過ぎ問題が生じる違いがあるとも。なるほど。

 

§許せないこと

「フロイドの功績は、家族関係は特別な関係だという幻想を打ち破ったことにある。しかし、息子が母親を恋し父親を敵視する現象で、神話を持ち出して、エディプス・コンプレックスと名づけ普遍的だと主張したことで、自分の理論の切れ味をいくらか殺いだ。」p234

 

→なるほどフロイドは父、母、子といえども、個人であると考えた最初の分析者だったとは、知らなかった。

 

「フロイドもさすがに人の子の親であって、やはり親のほうに有利な考え方をするところがある。エディプス・コンプレックスにしても、子供の側の事だけが問題にされている感じがあります。僕は親側に有利な考え方をあまりしないのは子供がいなくて、親になったことがないせいかもしれません。」p235

 

→岸田氏の考え方に何となく納得する。具体的にどこがと考えても、思いつかないけれども。親に厳しく、子(岸田氏自身)に甘い? そんなことはない。

 

「青年期に個人として独立して自我を確立しようとするときに、ヨーロッパではやはり父親と抗争し、父親を乗り越えると言う形をとりますが、日本では母親の支配を脱するということが重要になりますから、問題の焦点が違う。」p237

 母は、恩着せがましさが強く、道徳的に自分を責めた。道徳的に許しがたい。許さないは、復讐することではない。解決のない問題もある。心の不安を取り除く道、愛や許し、それは逃げ、自己欺瞞である。

 自分の価値観の表明だ。なぜ神をもちだすのか。神がいるとして神が持てるような許しは、人間は持てない。やはり許しの思想は都合の悪い事実の隠蔽の上に成り立つ無責任で欺瞞的な思想だと思う。子は親を憎むべきではないという通念がある。禍いのもと。僕の理想的解決は、親子関係が親でもなければ子供でもないというふうになること、憎まず許さずの境地になること。難しいが。」p246

 

→母御が自分が悪かったと思ったとして岸田氏が許すと、今度は母御が苦しむ。因果の連鎖だ。母御にエンパシーを感じ、ただ悲しいのだ、と言うインタビュアに対して岸田氏は上記のように答える。一貫して揺るがない。

 

「自分で引き受けると言うことは自分のあるいやらしい性質を相手に「「投影」をし相手を非難することをしないということ」p252

 

→岸田氏のアドバイスにある「それから先は自分で引き受ける」という場合の引き受けるという意味は何かという問いへの答え。許せない母が氏の念頭にあるのか。

 

「精神分析は人事でも宗教でもありませんから、別に厳しくはありませんよ。ただ、神経性人格障害などを含めての苦しみ、周りの人々に与える苦しみをも含めてと現実の苦しみとは二者択一であると言う事実を明らかにしただけです。現実の苦しみから逃避すれば、神経症の苦しみを招くということ、神経症の苦しみを解決するためには、現実の苦しみを引き受けなければならないということ、この2つのことを説いているに過ぎません。どちらの苦しみも同時になくする道はないということです。フロイドは、耐え難く苦痛な事態にぶつかり、それに直面できずに神経症へと逃げ込んだある患者について、神経症を直して現実の苦しみを味わうより、神経症で苦しんでいる方がまだマシではないか、神経症を直すことではないかと言ったことがあります。このように精神分析だって、是が非でも苦しい現実に直面することを教えるわけではありません。」p253最終ページ。

 

→精神分析とは、厳しい。人の心の闇を暴きあとは何とか自分でしろ、安全装置を外し危険物を自分で処理せよというような教えに聞こえる。優しい教えではない、というインタビュアへの岸田氏の答え。

 

 読後感

 冒頭に面白い本と書いた。岸田氏の母親に対する強い憎しみの強さ、それはどんなことがあっても消えないとする、強い思いが印象的であったことに尽きる。母の子への思いというのは無意識のうちにこれほどまでに子に植え付けるものか。母の思いが欺瞞だからか。母の思いが、真の愛でも同じだろう。欺瞞、真の愛、実に考えさせられる本である。


 

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岸田秀再読 その26「吹き寄せ雑文集」1989 [本]

 

吹き寄せ雑文集 岸田秀 青土社 1989

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分裂病日本の中の戦後民主主義教育

 

 私の図式で言えば、これはまさに外的自己と内的自己との対立であるが、この分裂病的対立の特徴は、和解と統一が極めて難しいことである。両者はそれぞれ、思想としてあるいは運動として存在している以上、それなりの何らかの根拠に基づいている。ともに両者について言えることであるが、その根拠は重層になっている。すなわち無意識的な根拠と意識的な根拠との2つの根拠からなっており、無意識的な根拠が真の根拠で、意識的な根拠はその隠蔽、正当化のためのものである。もちろん両者それぞれが意識しているのは、意識的な根拠のみで、それが別の根拠の正当化であるとの自覚はない。そして両者それぞれの意識的な根拠は、絶対的に対立しており、前者の立っている意識的根拠は、根拠には見えず、もし見えても、とんでもない馬鹿げたことをしか思えず、また逆もそうなので、両者それぞれにとって、相手は馬鹿が気違いにしか見えない。p25

 外的自己と内的自己とが共にもとづいている共通の同じ根拠とは、この屈辱否認である。外的自己は、屈辱的現実の存在は認めるものの、それが屈辱的であることを否認し、内的自己は屈辱的現実が屈辱的である事は認めるものの、そのような現実の存在を否認する。(中略)両者とも自分が真に依って立っている。この根拠については無意識的で、意識的には別の根拠に戻基づいていると信じ、それぞれを互いに自分には疑う余地のない明々白々なことで、相手には何のことやらさっぱりわからない馬鹿げたものでしかない意識的根拠をぶつけ合って不毛な争いを演じている。その不毛な争いが、最もはっきりした形で見られるのが、教育に関してである。p32

 

→これが書かれたとき戦後44年経過している。今は戦後78年である。戦後で無く新しい戦前だとタモリ氏が言ったとか伝えられるくらいの長い時間が経ってしまった。ここでいう戦後民主主義の教育問題は今どこへ行ってしまったのか。

 

日本人の自我構造に内在するいじめ

 

 現代の子供たちの間で流行っているという「シカト」するといういじめ方も、村八分や「非国民」の伝統の延長線上にあるものであろう。殴る蹴るの迫害ではなく、ある犠牲者をみんなで一致して無視すると言う形でいじめるのである。追い詰められた犠牲者が自殺したとしても、加害者が直接手を下して殺したのではないから責任の所在は曖昧である。もちろん、このようないじめ方だけではないが、これが日本人の典型的ないじめ方である。明確な基準に基づいて差別、迫害、処罰、馘首追放、殺害等をする欧米のやり方と日本式の曖昧ないじめ方とは文化の違いの問題であって、例えば欧米式の方がすっきりして良いといったところで簡単には変えられない。先に述べたようにこの違いは、欧米人と日本人との自我の構造の違いとつながっている。(中略)個人は、自分の自我の安定を乱す内的要素を排除している限りにおいて、不可避的にある種の他者を排除し、差別しいじめざるを得ないのであって、自分の人格構造における自我とエスの分裂をそのままにしておきながら、他者に対する差別をやめる事は不可能である。p70

 

→今も子供のいじめは大問題だが、シカト以外の凄惨なものも後を絶たず、教育委員会の相変わらず無責任な対応が報道されている。大人のいじめも問題だが、差し当たり子供の自殺はやりきれない優先的に取り組む課題ながら、解決しないのは自我とエスの分裂をそのままにしておくからだと言う。さればどうする唯幻論。さればどうする大人(自分も含む)たち。

 

ゲームの心理学

 

 2人のゲームというが実は参加者は4人である。ゲームをする人が勝ちたい願望を持っているのは当然であるが、同時に負けたい願望を持っている。負けたい願望と言うと変に聞こえるかもしれないが、勝敗がかかっているゲームの緊張から解放されたい願望、「降参しました」と相手の勝利と優位を認め、敗者としての位置に安住したい願望と言い換えてもいい。敗者の位置は確かに望ましくはないが少なくともある種の安定感はあり、その安定を求める願望も存在するのである。p100 勝負に強い勝負師とは、自分がいかに負けたがっているかを知っているもののことである。

 

→ゲーマーは負けたい願望はあるとしても、勝ちたい願望に比べたらごく小さい。90:10、いや99:1 以下かもしれない。二人ともそうだろう。このことに岸田氏は触れていない。勝負師藤井7冠は、自分がいかに負けたがっているかを知っている、とは現実的にどういうことだろう。理屈は分かるが実感に乏しい。

 

まともでないキノコ

 

 根、茎、幹があり、緑の葉がついていて花が咲くのが植物の代表。上昇志向があり、まともなもの。魚でいえば鯛、鮪の類い。

 キノコは日陰に生える。目立つまいとしているかのよう。笠を被り伸びるのを自制している。まともな植物と言い難い。魚でいえばタコ、イカの類い。

 タコやイカや、キノコを食っているときのような、自己の存在が食物とつながり、食物と一体となって、食べ物によって無限に拡大していくような、精神的次元の楽しさはない。p108

 

→植物らしからぬキノコ、魚らしからぬイカ、タコが好き、までは感覚的に同調するけど、まともでない方を食べたとき、自己の存在が食物と一体となる、また精神的次元の楽しさを味合うという心境には未到である。修行が足りないか。

 

再び性格について

 

 要するに、性格とは、当人の世界認識における盲点を表わしているのであって、すなわち、ポジティブなもの(実体)ではなく、ネガティブなもの(欠落)であって彼には何が見えていないかを知ることが、彼の性格を理解する鍵である。したがってポジティブなもの実態ではない性格を血液型とかリビドーの内向または外向とか、いろいろな衝動の力関係とか、大脳皮質に形成された条件反応とかの実体的なものによって説明しようとするのは、何かが欠けていることでできている穴という現象を、「穴といかなる物質で出来上がっているか。丸い穴の物質組成と四角い穴のそれとはどう違うか」という観点に立って研究しようとするのと同じであって、まさに荒唐無稽であるp113

 

→喩えの荒唐無稽はよく分かるが、性格に関する本文の理屈が難しくて分からないのは、自分を笑うしかない。

 

思想書の難しさ

 

 著者自身が自分でもある程度は問題を理解しているが、わからない点も多く悪戦苦闘して考え考えしながら書いた本がある。この種の本もなかなか理解できないが、はっきりと理解できないのは、著者もまだ考えをスッキリさせていないのだから当然である。しかしこれは最初に挙げた無内容の本とも、著者が気取ってわざわざ難しく書いてある本とも違うから読者も悪戦苦闘しながら読む値打ちはあろう。p118

 

→わが岸田秀再読はどのタイプなんだろう。著者はスッキリ。読み手は悪戦苦闘。

 

貨幣の起源

 

 自我に基づく人間の労働は、自我がもともと孤立してしているため、同じく孤立しており、その生産物もそうである。人間の孤立した私的労働を社会的労働に転嫁し、その生産物に価値を生じさせるためには、他者がいて、それに価値に付与する必要がある。この他者とは、最初はおそらく共同体の神であった。あるいは神を代表する共同体の長であった。人間は、おのれの生産物を神に捧げ、神から何か聖なるしるしを賜ったのである。この聖なるしるしが貨幣である。(中略)したがって、人間ははじめ自給自足の生産をしていて、そのうち労働の生産性が上がるようになって余剰生産物ができて、それを他者との交換に回したのではなく、初めから貨幣のために労働し生産したのである。貨幣は人間の最初の所有物であった。(中略)貨幣は神々の地位を簒奪し、神々の上に立ち、唯一絶対神のごときものにのし上がる。資本主義主義の成立である。(中略)神はおのれの地位を簒奪した貨幣を恨んでおり、それ故、金持ちを軽蔑する。金銭は汚い。きたるべき神の国においては、貨幣を廃止されなければならないであろう。唯幻論連続オトギバナシ貨幣の巻、オワリ。p133文藝87秋季

 

→岸田氏のユニークな論理展開にそっくり似ているオトギバナシなので、笑えぬブラックジョークでもある。

 

人生をますます楽しく過ごす三つの方法

 

 現代人に特徴的なこの種の悩み(神経症的)を解決する方法はない。悩みをむやみに耐え難くする方法はある。①悩みを解決する方法があると信じること②悩みを別の悩みにすり替える③自分の悩みの責任を他人に押し付ける。

 ①(無いのに)本来の正しいあり方があると信じる=悪あがき。②空しいだけに無限につづく③無限に敵をつくり空回りする。

 

→要するに悩むべきことをありのまま悩んでいればいい。そうしていればもともと耐え難い悩みをなおさら耐え難いものにする愚は避けられる。これが人生をますます楽しく過ごす三つの方法であるとする岸田氏の結論とは。見出しに釣られて読んだ悩める子羊は怒り、そして悲しんで泣く。

 現代人の個人神経症の特徴=共有してくれる人がいない、解決方法が見つからない、見つかってもそれが正しい保証が得られない、これらの悩みがアホらしいと自分でも心のどこかで思っておりウジウジ悩む。

 岸田氏の分析はまさに完璧だ。加えて対処方法の言い方は優しげで厳しい。悩みはそのままにしておくしか無い。あとは自分で引き受けろ。精神分析とは厳しいものと、誰かが言っていた。

 

幸運な出会い

 

L.Bolk 胎児化説 「人間の成人は猿の胎児と似ている」もしボルクのこの論文と出会っていなかったら、「唯幻論」は生まれなかったかもしれない。p196

 

→唯幻論の源流=岸田氏の病い+フロイド学説+ボルクの「胎児化説」。

 

過剰補償

 

「深い洞察」は人の気持ちがわからないという性格のベースに対する「過剰補償」なのである。(中略)「深い洞察」は人格の表層に留まり私の性格のベース、人格の深層構造にまでは影響しない。(中略)

 その場では気がつかないで、後で気がつくのを「下司の後知恵」と言うが、人間の心に関する理論なるものは、要するに「下司の後知恵」の集大成なのである。それはあくまで「後知恵」であって、それを必要とする場には間に合わず、実際に役立つ事はほとんどない。p226

 

→この項の「過剰補償」の意味がわからない。後段の「下司の後知恵」の部分は理解できる。すべて後知恵という「人間の心に関する理論」は幅広い。精神分析理論も。唯幻論もか。

 

注)下衆の後知恵=愚かな者は必要なときに良い考えが浮かばずに、事が終わってから良い考えが思いつくこと。

 

鉄砲をすてた日本人

 

 本書は、要するに、江戸時代に日本人が鉄砲を捨てたのは、怠慢や無気力のゆえではなく、鉄砲の害を知った日本人の積極的決断の成果であったことを豊富な資料に基づいて実証をしている。このような逆戻りは、世界史上、極めて珍しいことであり、日本人のこの知恵に、現代の軍縮の行き詰まりを打開する1つの道があるのではないかとの希望を託している。p244

 

→ノエル・ペリン 川勝平太訳 書評。 核兵器を花火にするわけにはいかないが。

 

マルサの女は宗教映画である

 

 国民は自分の金の一部を不本意ながら強制的に税金として取られると思っているが、国の立場から言えば、金の価値は全て国が授与したものであり、従って国民が働いて得た金は本来は全て国のものであり各人の働きに応じて、いわば労働と言う資本主義的苦行の多寡に応じてあたかも信仰心の厚さを賞するかのように、その一部を国民に与えてやるに過ぎない。そのような国の裁可を得た金のみが正当な金である。(中略)我々現代人は、みんな信仰心の深い浅いの違いはあれ、金を神とする宗教の信者であり、従って我々にとって金という現代の神を通じて人間を描いたこの宗教映画は一見に値するであろう。p257

 

→「マルサの女」は伊丹十三監督のヒット映画。いきなり宗教映画と言われて、怪訝な顔をする観客が目に浮かぶようだ。

 

手錠

 

この本(宍倉正弘著「手錠」)は事実の経過を淡々と冷静に追っていて、なかなか優れたルポルタージュであるが、この事件からも、主観的「正義」の恐ろしさがよくわかる。犯罪者が犯罪を犯すのは悪人だからではなく、主観に欠落があるからである。そしてわれわれ人間の主観は、誰の主観であろうが、皆ある点では欠落しているのである。p262 宍倉正弘著「手錠」書評

 

→「義理固さと殺人は二極化で無く、犯人は終始一貫義理固かった」と言うのが岸田氏の説。殺人犯の「義理堅さ」と「悪い性質」は“彼の主観”にあっては矛盾していない。人間の主観はそういうものだ。ある点で欠落していると岸田氏は言う。「欠落」という言葉はよく理解出来ないが、たしかにそのとおりだと思う。

 

読後感

 

 著者56歳の時の雑文集である。わがサラリーマン人生では、定年直前でそろそろ後輩にバトンを渡す時期、しかしながら働き盛りの年齢である。岸田氏の「雑文」は随筆、エッセイと言うより、わが感覚からすれば論文に近いものだろう。

 前に読んだ内容のものもあるが、新しいものもあって飽きさせない。しかしながら難しいものも多く、随筆を愉しむという感じは少ない。どうしても消化不良の感が残って、消化剤か整腸剤が欲しくなるのは否めない。しかしこれは全面的に読み手の問題だから、嘆くだけで如何ともし難い。


 

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この花の名は? ベゴニアレックス [自然]

 

 お隣さんから鉢植えを頂いた。去年の夏、ガレージマルシェで二鉢買い求めてプランターに植え替えたら、暑さで枯れてしまい、悔やんだのと同じ種類である。その時花の名を検索した記録がiPadに残っていた。ネームカードも付いていたが、知っているベゴニアとあまりにイメージが違うのでググったのである。

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ベゴニアレックス

 ベゴニア王であるベゴニアレックスは、ベゴニア科の顕花植物の一種である。インド北東端のアルナーチャルプラデーシュ州から中国南東部にかけて発見され、バングラデシュ、キューバ、イスパニョーラ島に導入された。観葉植物のベゴニアレックス栽培品種グループの500以上の栽培品種の親である。(ウキペディア)

 

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上下ともベゴニアレックス

 ベゴニアは、シュウカイドウ科シュウカイドウ属に属する植物の総称。特徴は葉の形が左右非対称でややゆがんだ形であること、花は雌雄別であり大抵の種は雄花は4枚、雌花は5枚の花びらをもつことなどである。鑑賞のために栽培されるベゴニアの多くは多年草の草花であるが、球根性、根茎性、木立性の3種がある。

 ベゴニアレックスは、このうちの根茎性。花でなく葉を楽しむ観葉植物だ。それにしてもこのベゴニアレックス、何とも、サイケでキテレツ模様の葉である。

 

 ちなみに、ベゴニアの名はフランス人ミシェル・ベゴン(仏領アンティル諸島総督)に由来するとか。

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ベゴニア

 なお、ベゴニア属に中国原産のシュウカイドウ(和名秋海棠、学名:Begonia grandis)がある。ヨウラクソウ(瓔珞草)、相思草、断腸花、八月春とも呼ばれる。日本に古くからあるためにベゴニアとは呼ばれない。日本では本州以南各地の人家周辺の木陰などに半ば自生的に生育している。俳句では秋の季語という。歳時記には断腸花と異名があったがその由来は書いてなかった。

 

          秋海棠西瓜の色に咲きにけり 芭蕉

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秋海棠シュウカイドウ

 

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