SSブログ

岸田秀再読 その30「物語論批判  世界・欲望・エロス」岸田秀 竹田青嗣 1992 [本]

 

「物語論批判  世界・欲望・エロス」岸田秀 竹田青嗣 青土社 1992

0_IMG_1927.jpeg

 著者59歳の時の本である。文芸評論家竹田青嗣氏との自我、欲望などについて唯幻論をめぐる対談。「幻想の未来」、「自我の行方」などに類したもの。竹田氏は1947年生まれ、岸田氏の14歳(自分より7歳下になる)年下。思想、哲学等に造詣が深く、岸田氏の理論に共感しつつ的確な指摘もする。この対談は難解な「幻想の未来」、「自我の行方」より読みやすいが、不学の自分にはやはり理解できない部分も多々あって、上記2冊に劣らず「我に難解」の書。

 

 例によって気になったところに付箋を付けながら読む。

 

1§近代日本と自我

 

竹田 「幻想の未来」に自我は他人の自我のコピー。最初母親を模倣するとあったが。

岸田 母親が子に抱くイメージを子供は受容する。規定は子供への支配、攻撃。それ以外の可能性を弾圧、抑圧する。p16

 

→普通の人は最初に母親の自我をコピーし、しかるのち父、家族の順。よって母親の自我は重要だと岸田氏の持論。

 

竹田 はじめに過剰な欲望への抑圧ありきは、人間は奇型のものというイメージ与える。奇型でも困ったものでなく、人間は単にたまたま人間であるにすぎないと思う。p29

岸田 本能が壊れてのち(動物と比べ)奇型になるのだp29自我はかたち=物語=幻想、人には必要不可欠なもの。

 

→竹田氏の「たまたま人間であるにすぎない」というのは、自分には納得感がある。本能崩壊で人は奇型になるという岸田説よりも。この書のイントロであるこの部分も「幻想の未来」同様難しい。

 

2§対人恐怖と対神恐怖

 

岸田 自我の不安定さは資本主義に向いた条件。欲望は他者の欲望との差異から生じ、欲望が欲望を生み際限がない。自己増殖する。資本が利子を生む資本主義の構造と同じ。みんなの自我がバラバラで不安定な社会ほど資本主義に向いている。p63

 

岸田 人間はそのように無自覚的に何かを信じないと生きていけないから、当人は自覚的に信じているつもりでもそれ自体がその背後の、当人の知らない無自覚的信仰の上に乗っている。

 

竹田 岸田さんは何を信じているのか。p73岸田 唯幻論。僕の宗教。

 

竹田 唯幻論を言って生きていける人は信じられる。唯幻論が正しいと思っても信じることでは生きていけないから信じるわけにはいかない。他の何か神様とか革命とか創価学会とかを信じざるを得ない。

 

岸田 我々は何か究極のものが必要。しかしそれは存在しない。究極のものと信じると破滅する。思考停止が自我の安定に必要不可欠。p74とにかく自分が何かを信じているとき、それが正しいから信じているのではなく、他人のためや社会のためを思って信じているのでもなく、信じなければ、自分の自我の安定を保てないから信じているに過ぎないことを認めて、相手が自分の子供であろうが、同胞であろうが、赤の他人であろうが、とにかく自分以外の人間には押し付けないという一線を守ってゆくしか道は無いのではないですか。この一線を守らない思想は、それが内容的にどれほど優れた思想であろうとダメだということ以上の事は言えないんじゃないか。p89

 

→この一線を守らない思想はすべてテロリズムに行き着くほかはないと岸田氏は言う。自分が信じるもの(宗教、民主主義、民族主義、自由、)を人に押し付けないことの難しさは、世の争いごとが絶えないことを見れば、天を仰いで絶望的になる。

 

岸田 人間が残忍なことをするのは残忍な本能があるからではなく、何らかの普遍的価値を信じているからなのですから、普遍信仰が崩れていけば残虐行為は減っていくと思います。僕の唯幻論も普遍信仰を崩すために、いささかでも貢献できればと思っているわけです。p105

 

→唯幻論の効用。それを期待するには、全ては幻想だと言い切ると単純にニヒリズムになりかねないので、要注意だと思う。幻想だからそうむきになるな、も同じことだろう。

 

3§欲望と不安

 

岸田 自我が神経症の症状だというのは、自我というのは恐怖(自己喪失の恐怖)からの逃亡だからです。p120世界との関係が自我なのですから世界との関係から逃れようとするこの逃亡は自我の土台を崩すことになります。自我は世界との関係の中に埋没して自己放棄してしまえば消滅してしまうし、自己拡大して独自の存在になろうとすると、世界との関係が切れて崩壊してしまいます。自我とは、いわば前門の虎と後門の狼に挟まれて、危ういバランスの中に保たれている幻想です。p123

 

→人間の自我は、度し難く厄介なものということだけはよく分かる。

 

竹田 ハイデガーは死とは何かという問いを立てて、それはある観念だと言うわけです。どんな観念かと言うと、非常に重大で切迫したものだけれど誰も体験できない、体験できないけれど、またずっと見つめていることもできない。そこで人間は、この観念を何かの形で隠蔽するわけですね。どういう形で隠蔽するかと言うと、死というのは空間的に向こう側の世界だ。つまり他界だとするわけです。他界だとしておくと、ここで死んだら向こうへ行くという説明がつくので安心できるわけです。p124

 

→宗教の天国、浄土思想も同じ?

 

竹田 ハイデガーの方法は現象学なんで、これは自我と言う意識の生命をまず出発点にして、そこに何か浮かんでくるかをじっと見ていくんです。そのとき死の観念は最後には不安の気分につながっているんだと言う洞察が現にある意識に即して現れてくる。岸田さんのは、自己は不安定からの逃亡であると言う観点から始まって、そこからどんどん自己と世界の構造を説明して一貫させていくわけです。最終的に似ていると言うのは、ホントは岸田さんもハイデガーのモチーフを含んでいるんだけれど、岸田理論では、体系的に完結した形で現れるので、本当はなぜ岸田さんがそう考えたかという推論はよくわからない。 僕はそこが所々引っかかるところなんです。岸田さんの理論は、相当水準が高いと僕は思うんですが、議論と言うのは、むしろ破れ目が面白いんで、体系的な完備なら、どんな理論でもそれを目指して作り上げているからです。p125

 

→現象学。難解なのが出てきた。このあたりは不学を嘆くのみ。ハイデガーのモチーフ、議論の破れ目など。思考停止に陥いる。

 

竹田 そういう日常の不安をハイデガーの言葉で言えば配慮的な気遣いというんです。つまり働かなくてこのままいったら死んでしまうかもしれないという不安が遠くにあるので、家庭を持ってネクタイを締めてサラリーマンをやるわけです。しかも子供を産んでおけば、死んでも大したことない、という幻想に支えられて、子供を育てている。p127

 

→サラリーマンの気持ちだけはよく分かる。

 

竹田 僕の感じでは、どうしても岸田さんの病気だとか症状だとかと言う言い方に引っかかるところがあるんです。全快とか健康というのはどこにもないわけで、動物のほうに行けば全快と言うわけでもないし、進めば進むほど悪いと言うこともないわけです。つまりさっき言ったように、どのぐらいの症状にあるかという事は自由に選べるわけではなくて、その社会と文化の構造にその形を規定されているわけです。p130

 

→竹田氏は、このほか欲望には恐怖からの逃亡というネガティヴな面だけでなく、例えば恋愛のように、ポジティブな面もあるのではと岸田氏に言う。自分も持った疑問なので、共感する面が多い指摘だと思う。

 

岸田 僕の言う弱い自我というのは、他者が主体的で自律的な強い自我を持っているということも信じない自我です。自分の内にも他者の内にも強い自我の可能性を信じないと言うのは弱い自我です。他者のそういうのを信じないから強い自我を持っているように見えるものに帰依することもしないわけです。強い自我なんて存在しないと思っているから、自分も強い自我を持とうとしない。弱い自我というのはそういうことなんです。p134

 

→弱い自我の方が強い自我より良いと言う意見には賛成。弱い自我は強い自我にも従わないからと岸田氏。

 

 竹田 恋愛、エロティシズム、美の原理は認識的領域でなく超認識的領域。例えば、美の幻想が恐怖から始めようとするところにあると言うのは、ちょっと座りが良くない。p142

 

→どこからともなく、突然現れる現象として、「欲望」を捉える現象学的観点の竹田氏、意識の水面に現れてくる欲望の背後の無意識的構造問題にする岸田氏の精神分析的観点の対立。岸田氏は説明の仕方の違いだけでどちらもありだと言う。欲望の中身にもよるのでは無いかと思うのだが。

 

竹田 唯幻論で、全ては幻想だと言う時に、どこかに現実があると言う感覚をどうしても持ってしまうのではないか。またすべては症例だと言うときには回癒、健康と言う状態がどこかにあるというイメージを持つ。これはまずいと思う。p147

 

→どこにも現実はなく、回癒、健康など無いとすれば確かに誤解を招きかね無い。

 

4§恋愛と嫉妬

 

岸田 すべては幻想であると言うとでは何が現実かと反問してくる人は、現実と幻想との二項対立思考を前提にしているが、二項対立思考こそが問題。「色即是空 空足是色」と続くように幻想すなわちこれ現実と言い直した方が良いかもしれません。二項対立思考を克服しようとすると二項対立思考と非二項対立思考との二項対立を立てることになってしまいます。p184

 

→「現実が幻想であり、幻想が現実である」と言い換えた方が良いかも知れないと岸田氏は言うが、言い換えてもよく分からない。全ては幻想だというのは、幻想の中でしか生きられないのだから、今持っている幻想の中でいかに美しく生きるかということだそう。これ解る?

 

岸田 起源論は成り立たないんですけれど、しかし物語には始まりと終わりが必要なわけです。始まりと終わりがなければ物語にならないですから。物語は始まりを必要とするわけですから、唯幻論も一つの物語である以上そういう物語の要請に応じて初めに本能の崩壊ありというの持ってきただけなんです。p198

 

→一番はじめは神の一撃、起源論は人の論理思考外。本質的に不可能とカントは「純粋理性批判」の中で言っているとする竹田氏。丸山圭三郎の「言葉が先、自我があと」、岸田氏の「本能崩壊が先、自我があと」論争はどちらでも良いのだと岸田氏の言。こだわらないと言いつつ撤回はせずというところ。たしかにどちらでも良いような気はする。

 

竹田 唯幻論が完全な世界の説明だと言う形で受け取ら取られるとまずい。岸田唯幻論というのはフロイトの心理学のいわば唯物論を観念論の立場から読み替えた点に一番中心があると思っています。岸田さんの理論は、例えばヘーゲルやラカンやバタイユやサルトルの独創的な考えと本人は知らないのに、何故か深いところで一致しまっている点がすごくある。岸田さん、内心は唯幻論は世界を制覇すると思ってるでしょう。岸田唯幻論は、幻想という概念のあるいは、現実という概念の根本的な読み替え、転倒だと僕は思うんです。

だけど唯幻論もまた幻想であると言う言い方は、今までの幻想と言う概念を温存したままなんです。それだと世界概念は本当はひっくり返ってないんです。僕はそれを唯幻論にもその要因があると思うんですけど。p199

 

→唯幻論をヘーゲル理論などで武装すればもっと強くなると竹田氏は言う。岸田氏はものぐさなので面倒と言う。唯幻論の立論は岸田氏の独自の発想法によるものなのだ。それで良いような気がするのは、自分がヘーゲルなどの哲人の知を知らぬせいか。

 

以下は対談後の二人の補足。

 

岸田 対談を終えて、私は何を信じているか

 

 すべては幻想であるとお経のように100回か1万回か唱えていれば我執から解脱できるわけではない。どうすればいいのか。これらの問題に明快な回答があるわけではない。お前は何を信じているかと問われても、私自身、自分が何を信じているかをはっきりとは知らない。p207私がある場面で自分としては意外なことを言ったり、したり、感じたりする時である。それらの言葉、行動、感情を生み出した何らかの思想が私のうちにあるはずであり、それが私の意識的な思想と矛盾する。しかし私はまだそのいわば無意識的思想を知らない。そういうとき意識的思想のレベルでどれほど明快な理論を展開したとしても少なくとも私自身のためには何の役にも立たない。無意識的思想と矛盾する意識的思想は無意識的思想によってたちまちくずされるからである。p208

 

→我執から解脱出来ないのは釈迦以来のこと。意識的レベルでは自分が何を信じているか分からないが、無意識的思想がいつか出て来て分かるときがあるかもしれんと言っているのか。対談の補足なら、もう少し凡百にも分かるように書いてくれるとありがたいのだが。

 

竹田 欲望について、実存の根底

 

 ヘーゲルが、この人間の<諸物語>の階梯を、ついに完全な知、<世界>と<私>との完全な調和へ行き着くべき道筋とみなしたのに対して、岸田氏は逆に、この完全な<物語>への欲望を、そもそも神経症的な<病気>とみなしている。p220

 ヘーゲルは、人間は結局、真面目に努力して、生きることによって、自らを<歴史>的<社会>的な精神(=人倫)として成熟させてゆくのだ、それが生の意味だ、と答えたのにほかならない。まじめ人間は仕事でも何でも一生懸命やろうとする。仕事ができるとそれは無意識裡に<力>の意識を生む。それはまた社会的な価値感(観)に暗黙のうちに支えられているからいつの間にか真面目な心情のままで、できない人間や弱い人間や、ハンディキャップトを抑圧してしまうことになる。弱い人間は弱い人間でまた、知らず知らずに強さに憧れ自分の弱さを様々なもの物語に転化したり、ルサンチマンを産み落とたりする。岸田氏の唯幻論のリアリティーは何よりこういった人間の生活心理上の機微に突き当たっているのだと私には思える。そしてわたしはそういう思想的肉質に、私は基本的に共感している。p223

 

→ヘーゲルは真面目人間、岸田氏はものぐさ人間(?)。岸田氏の唯幻論のリアリティーは、人間の生活心理上の機微に突き当たっている、という意味ももう少し噛み砕いて説明してくれると凡百には有り難いのだが。

 

読後感

 冒頭で難しい対談と言ったが、読み終えてなお、消化不良の感が強い。「自我もの」は難しいのはなぜだろうか。自分の不学もあるが、それだけでなく、「自我」を見つめていない、「自我」をせんじつめて(つきつめて)考えていないからのような気もしてくる。これではいくら岸田氏の本を読んでも、氏の理論を理解することは無理なのかも知れない。やれやれ。難儀なことである。


 

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。