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岸田秀再読 その35「親の毒 親の呪縛」 岸田秀 原田純 2006 [本]

 

「親の毒 親の呪縛」 岸田秀 原田純 大和書房 2006

 

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 著者は当時73歳。対話者、原田純氏(1954〜)は、当時52歳。径書房代表取締役。著書に「ねじれた家 帰りたくない家」がある。

 

 岸田氏の「まえがき」に本書を刊行した目的が記されている。「親から歪みを受け継がされた我々二人」というのは、母親との葛藤に苦しんだ岸田氏と、とくに父親との関係で荒れた原田氏を指す。確かに率直な二人の姿を知って心を打たれぬ人はいないだろうと思う。特に岸田氏の丁寧な受け答えには頭が下がる。二人の話を聞いて多分心が安まる人がいるに違いないと思う。

 

「本書は、いろいろな事情や条件は異なるが、それぞれともに親から歪みを受けつがされた我々2人が親を理想化するか一方的に非難するかの両極端のいずれにも陥らないようにするためにはどうすればよいかを、それぞれわが身を参考にしながら(すなわち、精神科医が患者の症例を報告するようにではなく)、真剣に論じた記録である。多かれ少なかれ親から歪みを受け継がされているはずの多くの人々にとって、いささかでも参考になれば幸いである。」p9

 

岸田「精神とは壊れた本能と見失われた現実との隙間を埋めるため、切り離された両者のつながりを何とか回復するために作られた人為的構築物です。生まれてからの経験の一つ一つ、親をはじめとする人々に教えられたことの一つ一つが精神という建築物の建材になっています。我々は、まず初め、親に指示されたようにそれらの建材を組み立てるのですが、いつかはそれを自分で組み立て直さなければならないのです。そうすることによって親を克服するというか、親から独立するのですね。」p 208

 

「自分のことが説明できるというか、自分と言う実体があらかじめ存在していて、後からその自分が自分を説明するのではなくて、自分についての説明が自分なんですよ。自分についての説明、物語がなければ自分はないのです。」p220

 

「親がなぜ自分についてこういう物語を作って自分に与えたかというのを知らないとそれを覆せないでしょう。とにかく親から与えられた物語を覆すためには、自分で自分の物語を作ってそれを足場にするしかないですね。その新しい物語の中で、自分なりに落ち着けるというか、安定感があって、そこでいろいろな自己表現ができるようになれば、その物語に基づいて生きていけばいいんじゃないですか。」p223

 

「自我と言うのは人間関係ですから、他者に支えられる必要があるので、自分の物語を作れば、人々にそれを認めてもらう必要があるんですね。だから、こういう本を書くという事は、非常に必要なことで、かつ非常に効果的な解決なんですよ。」p245

 

→岸田氏は親の呪縛から脱するには物語を書くことは有効だと薦める。原田純氏も、柳美里も書いている。本を書く=言語化するのが効果的なのは、「自分は言語だから」と岸田氏は言う。ただ、物語に嘘が無いということが大事。自分が見ていない自分はどういう自分かというと好ましくない自分=醜い、恥ずかしい、劣っている面、これを見てないと人間関係に問題が起きる。物語ではこれを直視し、逃げないことが重要とも言う。

 

「長く続く本当の友達がいない。寂しい人生になる長く続く。本当の友達より美しく生きる立派な自分と言う物語の方を選んだのですから仕方がない。」p250

 

→対話者原田氏の父親のことを岸田氏が言っているのだが、ニュアンスは異なるが自分のことを言われたような気がした。人と交わらないと言うわけではないが一人遊びが好きだと歌った良寛が好きなわが身と重なる。

 

「親が作った物語はどこがおかしくて不満だから無視するというだけではダメなんじゃないかな。それはどこでどう間違っていたか、なぜ親はそのような間違った物語を作ったか、その間違った物語が自分という存在の形成にどういうふうに影響したか、などをよく考えて、それらの因果関係を理解した上で、それらの要素を含み込んだ新しい自分の物語を作っていく。そういう必要があるんじゃないかな。」p251

 

「無意識を意識化するという事は、それらの削除部分を見つけ出し物語の中に組み込んで物語をよりより良いものにすることです。「より良い」というのはどういうことかというと矛盾が少ないというか、筋が通っているというか、納得できるというか、とにかく本人がそれに基づいてよりよく生きていけるような物語です。」p255

 

→醜い自分をよく見る。隠蔽しない、自己欺瞞せず、読んだ人はどう思うかも考える 悪行や歪みを出して物語る、と言うが難しそう。親から受けた歪みから脱するために物語をかくことも有効な手立ての一つだと二人の意見は一致する。しかし、これは言うはたやすいが、一般の人には難しそう。親がなぜ歪んだか、自分の何が悪いのか、特に無意識に抑圧しているものを引きずり出すことこそ、必要とも言うが普通の人には至難だろう。良いカウンセラーでも、側にいればいいが。

 

 原田純氏の父親が共産党員だったということから、同じ党の機関誌編集長が父親だった米原万里氏を思い出した。米原氏はロシア語同時通訳者で作家である。岸田氏の唯幻論について随所に頷くところがあるが、国家や文明を精神分析の手法で見ることに抵抗。(中略)かなりトンデモ本ぽい、と批判したと岸田氏自身が書いていた。

 

 米原万里は父の影響をどう受けて育ったのだろう。親子関係は皆異なる、同じものなど一つも無い。

 

(注)米原 万里(よねはら まり、1950年 - 2006年)は、日本のロシア語同時通訳、エッセイスト、ノンフィクション作家、小説家である。「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」「オリガモリソブナの反語法」などを読んだ記憶がある。父の米原昶(いたる)氏は共産党機関誌編集長。

 

岸田秀再読その11「唯幻論大全」2013(1/3)

 

https://toshiro5.blog.ss-blog.jp/2023-07-06

 

読後感

 

 このような言いようは、女性差別と非難されそうだが、自分は女の子がいないこともあって、娘心ははなから慮外の外(?)と諦めているふしがある。女性のことは、たぶん正しく理解出来ていないという変な自信がある。かといって男の子をわかっているかと言えばそれも怪しい。岸田氏は、精神分析学者だから当たり前ながら、原田氏のことも女性一般のこともよく理解出来ると脱帽である。しかも、対談では何度も同じことを丁寧に繰り返し応答していて感服する。

 

 蛇足ながら、この本を読むと親の端くれとしては、自分がどんな親だったかを顧みずにはいられない。

 基本的には「親は無くても子は育つ」と思っていたのは、下手にかまうと自分を超えていかないと、怖れたと言えばカッコいいのだが、単に自分が楽だったからか。放っておけば自立する、バックアップは必要だが、手をかけすぎない方が良いと思っていた。

 また、子を褒めることにはメリットとデメリットがある。メリットの方が大きいようだが、褒めるとそれで努力をしなくなると決めつけ、けなす態度をとっていたと思う。悪い親だったと反省してももう遅い。今となれば、けなすのはチョー良くないと分かる。

 さらにまた、特に小さい時、親の支配力は強力であることを、もっと認識すべきだったなと思う。などなど万事にわたり、後悔の方が圧倒的に多い。後悔先に立たず…涙。

 

  蝌蚪ふしぎ 父の不可思議子のふしぎ  (2020)

 

 親子というのは不思議なもの。難しく言えば不可思議なもの。他人だが、他の他人とも違う他人。2020年に読んだ駄句。冷や汗ダクダク。蝌蚪は俳句では、おたまじゃくし。蛙の子。鯰の孫にあらず。


 

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