SSブログ

岸田秀再読 その26「吹き寄せ雑文集」1989 [本]

 

吹き寄せ雑文集 岸田秀 青土社 1989

0_IMG_1925.jpeg

分裂病日本の中の戦後民主主義教育

 

 私の図式で言えば、これはまさに外的自己と内的自己との対立であるが、この分裂病的対立の特徴は、和解と統一が極めて難しいことである。両者はそれぞれ、思想としてあるいは運動として存在している以上、それなりの何らかの根拠に基づいている。ともに両者について言えることであるが、その根拠は重層になっている。すなわち無意識的な根拠と意識的な根拠との2つの根拠からなっており、無意識的な根拠が真の根拠で、意識的な根拠はその隠蔽、正当化のためのものである。もちろん両者それぞれが意識しているのは、意識的な根拠のみで、それが別の根拠の正当化であるとの自覚はない。そして両者それぞれの意識的な根拠は、絶対的に対立しており、前者の立っている意識的根拠は、根拠には見えず、もし見えても、とんでもない馬鹿げたことをしか思えず、また逆もそうなので、両者それぞれにとって、相手は馬鹿が気違いにしか見えない。p25

 外的自己と内的自己とが共にもとづいている共通の同じ根拠とは、この屈辱否認である。外的自己は、屈辱的現実の存在は認めるものの、それが屈辱的であることを否認し、内的自己は屈辱的現実が屈辱的である事は認めるものの、そのような現実の存在を否認する。(中略)両者とも自分が真に依って立っている。この根拠については無意識的で、意識的には別の根拠に戻基づいていると信じ、それぞれを互いに自分には疑う余地のない明々白々なことで、相手には何のことやらさっぱりわからない馬鹿げたものでしかない意識的根拠をぶつけ合って不毛な争いを演じている。その不毛な争いが、最もはっきりした形で見られるのが、教育に関してである。p32

 

→これが書かれたとき戦後44年経過している。今は戦後78年である。戦後で無く新しい戦前だとタモリ氏が言ったとか伝えられるくらいの長い時間が経ってしまった。ここでいう戦後民主主義の教育問題は今どこへ行ってしまったのか。

 

日本人の自我構造に内在するいじめ

 

 現代の子供たちの間で流行っているという「シカト」するといういじめ方も、村八分や「非国民」の伝統の延長線上にあるものであろう。殴る蹴るの迫害ではなく、ある犠牲者をみんなで一致して無視すると言う形でいじめるのである。追い詰められた犠牲者が自殺したとしても、加害者が直接手を下して殺したのではないから責任の所在は曖昧である。もちろん、このようないじめ方だけではないが、これが日本人の典型的ないじめ方である。明確な基準に基づいて差別、迫害、処罰、馘首追放、殺害等をする欧米のやり方と日本式の曖昧ないじめ方とは文化の違いの問題であって、例えば欧米式の方がすっきりして良いといったところで簡単には変えられない。先に述べたようにこの違いは、欧米人と日本人との自我の構造の違いとつながっている。(中略)個人は、自分の自我の安定を乱す内的要素を排除している限りにおいて、不可避的にある種の他者を排除し、差別しいじめざるを得ないのであって、自分の人格構造における自我とエスの分裂をそのままにしておきながら、他者に対する差別をやめる事は不可能である。p70

 

→今も子供のいじめは大問題だが、シカト以外の凄惨なものも後を絶たず、教育委員会の相変わらず無責任な対応が報道されている。大人のいじめも問題だが、差し当たり子供の自殺はやりきれない優先的に取り組む課題ながら、解決しないのは自我とエスの分裂をそのままにしておくからだと言う。さればどうする唯幻論。さればどうする大人(自分も含む)たち。

 

ゲームの心理学

 

 2人のゲームというが実は参加者は4人である。ゲームをする人が勝ちたい願望を持っているのは当然であるが、同時に負けたい願望を持っている。負けたい願望と言うと変に聞こえるかもしれないが、勝敗がかかっているゲームの緊張から解放されたい願望、「降参しました」と相手の勝利と優位を認め、敗者としての位置に安住したい願望と言い換えてもいい。敗者の位置は確かに望ましくはないが少なくともある種の安定感はあり、その安定を求める願望も存在するのである。p100 勝負に強い勝負師とは、自分がいかに負けたがっているかを知っているもののことである。

 

→ゲーマーは負けたい願望はあるとしても、勝ちたい願望に比べたらごく小さい。90:10、いや99:1 以下かもしれない。二人ともそうだろう。このことに岸田氏は触れていない。勝負師藤井7冠は、自分がいかに負けたがっているかを知っている、とは現実的にどういうことだろう。理屈は分かるが実感に乏しい。

 

まともでないキノコ

 

 根、茎、幹があり、緑の葉がついていて花が咲くのが植物の代表。上昇志向があり、まともなもの。魚でいえば鯛、鮪の類い。

 キノコは日陰に生える。目立つまいとしているかのよう。笠を被り伸びるのを自制している。まともな植物と言い難い。魚でいえばタコ、イカの類い。

 タコやイカや、キノコを食っているときのような、自己の存在が食物とつながり、食物と一体となって、食べ物によって無限に拡大していくような、精神的次元の楽しさはない。p108

 

→植物らしからぬキノコ、魚らしからぬイカ、タコが好き、までは感覚的に同調するけど、まともでない方を食べたとき、自己の存在が食物と一体となる、また精神的次元の楽しさを味合うという心境には未到である。修行が足りないか。

 

再び性格について

 

 要するに、性格とは、当人の世界認識における盲点を表わしているのであって、すなわち、ポジティブなもの(実体)ではなく、ネガティブなもの(欠落)であって彼には何が見えていないかを知ることが、彼の性格を理解する鍵である。したがってポジティブなもの実態ではない性格を血液型とかリビドーの内向または外向とか、いろいろな衝動の力関係とか、大脳皮質に形成された条件反応とかの実体的なものによって説明しようとするのは、何かが欠けていることでできている穴という現象を、「穴といかなる物質で出来上がっているか。丸い穴の物質組成と四角い穴のそれとはどう違うか」という観点に立って研究しようとするのと同じであって、まさに荒唐無稽であるp113

 

→喩えの荒唐無稽はよく分かるが、性格に関する本文の理屈が難しくて分からないのは、自分を笑うしかない。

 

思想書の難しさ

 

 著者自身が自分でもある程度は問題を理解しているが、わからない点も多く悪戦苦闘して考え考えしながら書いた本がある。この種の本もなかなか理解できないが、はっきりと理解できないのは、著者もまだ考えをスッキリさせていないのだから当然である。しかしこれは最初に挙げた無内容の本とも、著者が気取ってわざわざ難しく書いてある本とも違うから読者も悪戦苦闘しながら読む値打ちはあろう。p118

 

→わが岸田秀再読はどのタイプなんだろう。著者はスッキリ。読み手は悪戦苦闘。

 

貨幣の起源

 

 自我に基づく人間の労働は、自我がもともと孤立してしているため、同じく孤立しており、その生産物もそうである。人間の孤立した私的労働を社会的労働に転嫁し、その生産物に価値を生じさせるためには、他者がいて、それに価値に付与する必要がある。この他者とは、最初はおそらく共同体の神であった。あるいは神を代表する共同体の長であった。人間は、おのれの生産物を神に捧げ、神から何か聖なるしるしを賜ったのである。この聖なるしるしが貨幣である。(中略)したがって、人間ははじめ自給自足の生産をしていて、そのうち労働の生産性が上がるようになって余剰生産物ができて、それを他者との交換に回したのではなく、初めから貨幣のために労働し生産したのである。貨幣は人間の最初の所有物であった。(中略)貨幣は神々の地位を簒奪し、神々の上に立ち、唯一絶対神のごときものにのし上がる。資本主義主義の成立である。(中略)神はおのれの地位を簒奪した貨幣を恨んでおり、それ故、金持ちを軽蔑する。金銭は汚い。きたるべき神の国においては、貨幣を廃止されなければならないであろう。唯幻論連続オトギバナシ貨幣の巻、オワリ。p133文藝87秋季

 

→岸田氏のユニークな論理展開にそっくり似ているオトギバナシなので、笑えぬブラックジョークでもある。

 

人生をますます楽しく過ごす三つの方法

 

 現代人に特徴的なこの種の悩み(神経症的)を解決する方法はない。悩みをむやみに耐え難くする方法はある。①悩みを解決する方法があると信じること②悩みを別の悩みにすり替える③自分の悩みの責任を他人に押し付ける。

 ①(無いのに)本来の正しいあり方があると信じる=悪あがき。②空しいだけに無限につづく③無限に敵をつくり空回りする。

 

→要するに悩むべきことをありのまま悩んでいればいい。そうしていればもともと耐え難い悩みをなおさら耐え難いものにする愚は避けられる。これが人生をますます楽しく過ごす三つの方法であるとする岸田氏の結論とは。見出しに釣られて読んだ悩める子羊は怒り、そして悲しんで泣く。

 現代人の個人神経症の特徴=共有してくれる人がいない、解決方法が見つからない、見つかってもそれが正しい保証が得られない、これらの悩みがアホらしいと自分でも心のどこかで思っておりウジウジ悩む。

 岸田氏の分析はまさに完璧だ。加えて対処方法の言い方は優しげで厳しい。悩みはそのままにしておくしか無い。あとは自分で引き受けろ。精神分析とは厳しいものと、誰かが言っていた。

 

幸運な出会い

 

L.Bolk 胎児化説 「人間の成人は猿の胎児と似ている」もしボルクのこの論文と出会っていなかったら、「唯幻論」は生まれなかったかもしれない。p196

 

→唯幻論の源流=岸田氏の病い+フロイド学説+ボルクの「胎児化説」。

 

過剰補償

 

「深い洞察」は人の気持ちがわからないという性格のベースに対する「過剰補償」なのである。(中略)「深い洞察」は人格の表層に留まり私の性格のベース、人格の深層構造にまでは影響しない。(中略)

 その場では気がつかないで、後で気がつくのを「下司の後知恵」と言うが、人間の心に関する理論なるものは、要するに「下司の後知恵」の集大成なのである。それはあくまで「後知恵」であって、それを必要とする場には間に合わず、実際に役立つ事はほとんどない。p226

 

→この項の「過剰補償」の意味がわからない。後段の「下司の後知恵」の部分は理解できる。すべて後知恵という「人間の心に関する理論」は幅広い。精神分析理論も。唯幻論もか。

 

注)下衆の後知恵=愚かな者は必要なときに良い考えが浮かばずに、事が終わってから良い考えが思いつくこと。

 

鉄砲をすてた日本人

 

 本書は、要するに、江戸時代に日本人が鉄砲を捨てたのは、怠慢や無気力のゆえではなく、鉄砲の害を知った日本人の積極的決断の成果であったことを豊富な資料に基づいて実証をしている。このような逆戻りは、世界史上、極めて珍しいことであり、日本人のこの知恵に、現代の軍縮の行き詰まりを打開する1つの道があるのではないかとの希望を託している。p244

 

→ノエル・ペリン 川勝平太訳 書評。 核兵器を花火にするわけにはいかないが。

 

マルサの女は宗教映画である

 

 国民は自分の金の一部を不本意ながら強制的に税金として取られると思っているが、国の立場から言えば、金の価値は全て国が授与したものであり、従って国民が働いて得た金は本来は全て国のものであり各人の働きに応じて、いわば労働と言う資本主義的苦行の多寡に応じてあたかも信仰心の厚さを賞するかのように、その一部を国民に与えてやるに過ぎない。そのような国の裁可を得た金のみが正当な金である。(中略)我々現代人は、みんな信仰心の深い浅いの違いはあれ、金を神とする宗教の信者であり、従って我々にとって金という現代の神を通じて人間を描いたこの宗教映画は一見に値するであろう。p257

 

→「マルサの女」は伊丹十三監督のヒット映画。いきなり宗教映画と言われて、怪訝な顔をする観客が目に浮かぶようだ。

 

手錠

 

この本(宍倉正弘著「手錠」)は事実の経過を淡々と冷静に追っていて、なかなか優れたルポルタージュであるが、この事件からも、主観的「正義」の恐ろしさがよくわかる。犯罪者が犯罪を犯すのは悪人だからではなく、主観に欠落があるからである。そしてわれわれ人間の主観は、誰の主観であろうが、皆ある点では欠落しているのである。p262 宍倉正弘著「手錠」書評

 

→「義理固さと殺人は二極化で無く、犯人は終始一貫義理固かった」と言うのが岸田氏の説。殺人犯の「義理堅さ」と「悪い性質」は“彼の主観”にあっては矛盾していない。人間の主観はそういうものだ。ある点で欠落していると岸田氏は言う。「欠落」という言葉はよく理解出来ないが、たしかにそのとおりだと思う。

 

読後感

 

 著者56歳の時の雑文集である。わがサラリーマン人生では、定年直前でそろそろ後輩にバトンを渡す時期、しかしながら働き盛りの年齢である。岸田氏の「雑文」は随筆、エッセイと言うより、わが感覚からすれば論文に近いものだろう。

 前に読んだ内容のものもあるが、新しいものもあって飽きさせない。しかしながら難しいものも多く、随筆を愉しむという感じは少ない。どうしても消化不良の感が残って、消化剤か整腸剤が欲しくなるのは否めない。しかしこれは全面的に読み手の問題だから、嘆くだけで如何ともし難い。


 

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。