SSブログ

岸田秀再読 その36「 日本人と「日本病」について」 岸田秀 山本七平 1992 [本]

 

日本人と「日本病」について 岸田秀 山本七平 青土社 1992 (文藝春秋1980初刊)

 

IMG_9047.jpeg

 岸田氏47歳、山本氏59歳の時の著書。唯幻論の「ものぐさ精神分析」は1977年の刊行だが、それをめぐって書かれた「哺育器の中の大人 精神分析講義」(対談者 伊丹十三1978)の次に刊行された比較的早い時期の対談共著になる。岸田氏の方から持ちかけた対談のよう。

 山本七平(1921〜1991 70才歿)は、ノンフィクション作家 山本書店店主。著者に「日本人とユダヤ人」(ペンネーム=イザヤ ベンダサン)、「空気の研究 1977」などがある。

 

「空気の研究」で有名な山本氏は、この対談でもまず、組織には、論理的意思決定と空気的意思決定の二つがあり、明らかに後者のがほうが強いと言う。

「空気的意思決定は非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ『判断の基準』であり、それに抵抗する者を異端として、『抗空気罪』で社会的に葬るほどの力を持つ超能力であることは明らかである。」 戦艦大和の出撃決定は典型的。

 

→企業でも当然論理的に矛盾しようが空気で決まることがある。日本は何故そうなったかが問題。和をもって尊しとする、世間体優先がその依ってきたるものだろう。閉鎖的共同体の論理より人を重視するという岸田氏の持論と親和性が高い気がする。

山本七平の本は読んだ記憶がない。難しいので二人の議論の中で印象的な言葉をメモしながら読んだ。

 

唯一神と血縁

岸田 「空気」と「共同幻想」は共通性がある。

山本 徳川時代は断章取義。原典から都合の良いものだけ取る。明治以降の和魂洋才も同じ。日本文化はサザエ。殻に閉じこもり蓋を閉め必要な時だけ開けて外を見る。骨(バックボーン)無し。相手の立場に立つが、自分の立場は無い。

宗教法が神と個人の契約であり、神との契約に基づく自己規定のない人間は信用されない=神との契約がないんじゃ何をするかわからないーユダヤ、イスラム、ヨーロッパキリスト教の精神構造の基本。

IMG_9066.jpeg

 日本人は神に誓って=天地神明にかけて=神を信じないと言って転ぶ。農耕社会の産物。血縁イデオロギー集団。

岸田 日本はあらゆる組織、あらゆる集団が、血縁を拡大した擬制血縁の原理で成り立っている。p35

山本 ヨーロッパが血縁幻想を待てなかった条件は、奴隷制と僧院制。奴隷制は家畜文化に発している。旧約聖書では男と人間が同義。女は家畜と同じ買う対象。(man mankind)

岸田 日本には奴隷はなかった。(人身売買はあったが 山本)

山本 日本ではお金(貨幣)が無かったのが奴隷のなかった理由。アメリカは1846年まで奴隷を使っていた。日本が、奴隷なしで現代文明のトップになり得たのは何故か。

教えて治に至る

山本 文化の違いは本能の壊れ方の違いではないか。

何かが壊れた、本来のものから違ってしまったという意識は人間にある=楽園追放(エデンの園 岸田)

岸田 本能崩壊は人間皆同じ。本能崩壊は人間の生命そのものと周囲との間に隙間が生じ、それを埋めない限りこの世界で生きていけないので、その隙間をどう埋めたかが文化。本能が壊れたから物欲や名誉欲が出てきた。

 

→岸田本能崩壊論への山本氏の印象である。どちらも観念的である。崩壊論に対する我が違和感にあまり影響は無さそう。生物学、遺伝子学的、進化論的な面から見ての議論に興味があるのだが。

 

山本 江戸時代の思想。人間には本心(石田梅巖の性)がある。赤ん坊だけに本心。物欲が出て病になる。赤ん坊に原罪はない。病にかかっているから治せば本心どおりに動き、自ずと社会は良くなる。治してくれるのが聖人。

岸田 赤ん坊が本心の姿で病気になりそれが失われるというのは唯幻論と順序が逆。

日本人というのは、自然本来の姿を個人のレベルで赤ん坊の時代に見る。ヨーロッパ人はそれを楽園に見る。つまり人類としての集団の歴史が始まる以前に見るわけです。本来の自然な姿があるという観念は同じだけど、それを個人のレベルで見るか、歴史のレベルで見るかで違ってくる。p47

 

山本 派閥は何集団か。血縁、地縁集団か。原則が無い政党の規約綱領は機能しない。藩閥が起源。天皇制の国は明治国家の神話。実際は幕府制の国。

 アメリカ(典型的な地域社会)という国に入れば王族、貴族でも血縁的なものを一切認めない、各人の伝統的宗教法さえ認めない。アメリカ憲法絶対優先。嫌なら出て行け。日本はあいまい。イスラム教徒になれば(宗教は自由)4人と結婚できる。両性合意だけが規定されている。理論的に答えに窮する問題が(現)憲法にはある。

 

岸田 米欧の社会、集団は血縁を離れ別の明確な原理で集団を形成。忠孝不一致が当然。社会的適応は親からの独立が絶対条件。

山本 日本は血縁集団で地縁集団はない。擬制の血縁集団として統制する=共同体。ただし機能しなくなると分解。

 新井白石 (日本が)キリシタンは困るとする三つの理由①日本に法がない。「教えて治にに至る」教える根本に触られるのは困る②日本人は温和にしてまどかだが、絶対主義的なものが来ると争う。あやふやが一番。③直接神を拝する。すぐ一つ上だけ拝することで秩序を保つ。天を拝するのは皇帝。二君にまみえず。貞女二夫にまみえず。(飛び越えるのは困る)

 

岸田 (日本では)行動を規定するのは人間関係だけ。ヨーロッパ人の自我は唯一神に支えられている。

 日本が非常に珍しいケースだというのは、血縁をイデオロギーにしたこと、擬制として拡大したということで、これは世界でも例がないですね。血縁幻想がしっかりとあって、それに抵触する一切のイデオロギーははねつける。p67

 

規範なき社会

山本 自分たちが自覚していない伝統的な文化的規範に触れるようなことはしない、という信頼が自民党を支持する原因。p72

日本人の行動基準は「花は紅 柳は緑」。おのずと「なる」のであって「する」のではない。形の重視、礼儀の秩序、形は心が行動原理。

 

明治体制の自己矛盾

山本 明治維新の原動力というのは、国学的方向と朱子学的方向の二方向からきている。 日本には天皇とは何ぞやという思想的規定がなかった。天皇家、徳川家両方あって結構=伝統的経験主義。徳川家は朱子学を秩序の学とする宋、明の体制哲学に依った。

天皇絶対制の支えは尊皇攘夷思想。西欧化は尊皇攘夷と相容れず。憲法制定は天皇の主権を制限するものであり、矛盾する。バランス上教育勅語をつくった。明治憲法に忠誠=天皇機関説。教育勅語=日本的朱子学、尊皇攘夷を生かしておく=無原則 天皇は神聖にして犯すべからず(君臨すれども統治せず 岸田)不合理性の棚上げ。明治体制は外圧と輸入の思想で出来た。

 本当の主義とは状況への対応。戦後世の中が落ち着いているのは、日本人は伝統的経験主義の中にいるとき何も感じる必要がないから。結果経済発展で皆中流意識を持つようになった。昭和は元禄から変わらず「昭和元禄」は正しい。何故明治に日本は変わったのか謎だ。p121

 

→明治憲法と教育勅語はセットとは、初めて勉強した。なるほど。

 

純粋信仰

岸田 日本人は軍人が純粋であったことを忘れてはいけない。純粋な正義漢たちに国を任せた結果、どういうことになったかということを。p196

 

山本 サタン(悪魔)は正義の味方。神のそばにいる検察官。正義によって人間を告発する。人間が正義を口にする時の動機は憎悪。p199

 

岸田 (日本国憲法が)ニセ物という意味は、憲法が理念や原理としてまちがっているかいないかでなく、日本人の行動を決定している本当の法じゃないということ。固執するのは、強迫観念と同じでニセ物でなければ固執する必要がない。

山本 日本病の症状は、人間性善説、主観主義、純粋主義、正義幻想…と平等主義(岸田)。

 

岸田 現世は不平等だから、現世、後世がないと納得できない。やはり神がいない日本の精神風土から出ている。和は基準が人間だから平等でないと困る。平等主義は血縁幻想と繋がっている。人類皆兄弟など。

 

→日本語に命令形はない。仮定形の転用。「行け」は 「行けば、よい=丁寧語」これも命令が嫌いという平等主義と岸田氏は言う。面白い見方だと思う。方や聖書などの箴言の多くは命令形が圧倒的に多い。

 

山本 岸田氏の発想は極めて伝統的。石田梅巖には歴史が無く生物的に見る。「形ハ直ニ心ナリト知ルベシ」 大自然の秩序(善)の中に動物も人も生きている。そのとおりに生きれば良いのに人間には出来ない。人間には手足の形が勤労によって生きるしかないように出来ている。人間には規範がいる。規範は聖人が作ってくれた。p130

 

→規範が岸田氏のいう文化=幻想。岸田氏は規範は梅巖が規定したもので正しい根拠ではないという。また、自分の唯幻論は昔人が言ったことを言い直しただけで、オリジナリティはないとも。山本氏の唯幻論が梅巖説と近いとは初耳。

 

(注)石田梅巖(1685〜1744)江戸時代の思想家、倫理学者。石門心学の祖。京都府亀岡の人。梅岩の思想の要諦は、「心を尽くして性を知る」、すなわち人間を真の人間たらしめる「性」を「あるがまま」の姿において把握し、「あるべきよう」の行動規範を求めようとする点にある。この点において、武士も庶民も異なるところはなく、士農工商の身分は人間価値による差別ではなく、職分や職域の相違に過ぎないとする。(ウキペディア)

 

組織と共同体

岸田 日本人は家庭、会社、何にでも生き甲斐の場を求める。生き甲斐は主観の問題だから組織化困難。日本的集団は軍隊向きでない。日本には組織概念が無く究極的には人間=「人は石垣、人は城」。日本は原則が無いというのが原則。日本語は家族語。暗黙の前提がありすぎて外国人には通じないことが多い。

 日本は血縁が原理原則だから抽象的規則はない。

山本 日本の組織は個人に頼る。名人芸が好き。原理原則が無いので海外で相手に合わせ対応出来る。 明治人は朱子学という自覚的規範を持っていたので外国人に理解された。戦後原理原則が無いのに民主主義みたいなことを言っているので相手にわかって貰えない。

 日本人の行動には擬制の血縁原理が働いていると、(外国人には)説明しなければならない。

 

赤ん坊普遍主義

岸田 これからの日本人は外国人の行動規範と自分の行動規範の違い、相対性、限界を知り、無意識的にそれに引きずられのでなく、自覚的に自分の行動規範に基づいて行動出来るよう努力すべし。

山本 (歴史的にも、精神分析的にも)自己の精神史の把握は(疲れることだが)必要不可欠。

 明治はそれが出来たが、昭和は出来ず失敗した。戦後はこの失敗を決定的にする要素を持っている。

 

→これからの処方箋。山本氏の「自己の精神史の把握」というのは少しわかりにくい。また赤ん坊普遍主義という見出しも内容との関連がわからない。

 

読後感

二人の考え方には親和性あり、唯幻論についても山本氏に大きな異論は無さそう。議論は日本人の西欧と比較した特殊性、デメリット・メリット、その克服など。全体を通じて岸田氏が押し気味と感じるのは、氏の理論のほうが明快だからか、弁(文)が立つからか、は不明である。

 対談から二人の考え方の相異を指摘し、まとめるのは難しい。対談全体のトーン、「空気」から推察するしか無いのか。面白い本だが。

 二人とも太平洋戦争の末期を人生の若い時期に経験したのが思想のベースになっているのだと思うが、時間の経過とともにこのような対談集は貴重な存在になりつつある。

 戦後78年を経た今もなお解決していないことが多く、これからも議論せねばならないことが数多あるのに、脳漿が加齢により軟弱化してきているのが嘆かわしい。


 

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

岸田秀再読 その37「母親幻想」 岸田秀  1998 [本]

 

母親幻想 岸田秀 新書館1995  改訂 1998

 

2_IMG_9048.jpeg

 初刊は著者62歳の時のもの。例によって「§・章」ごとに気になる言葉をおってメモしながら読んだが、難渋した。あちこち話が飛ぶので、どうもメモが取りにくい。

 

 また、文体はこれまでとちょっと違う感じ。基本的には「ですます調」であり、「つぶやき調」、会話文でもないが、時折り読者への話しかけがあったりする。名文家の岸田氏だから分かり易い文章が多いことに変わりないが、話が飛ぶのがいちばん困る。

 他にメモ難渋の原因は、今夏の猛暑のせいか、加齢のせいか、かなりわが脳が脆弱化していることにあるようだ。

 

 テーマは母子。父と子の関係もだが難しいテーマではある。特に男がこれを書くには相当の努力・力量が求められる。自分にはとても出来ない。

 

 なお、余計ながらこれは岸田氏には少ないいわゆる「書き下ろし」に入るのだろうか。

 

1§ 母と子

1§−1日本の根本は母子関係にある

 ヨーロッパは子ども性悪説だが、日本はこれがなかった。

 日本の場合、社会全体の根拠(絶対的普遍的観念)は母子関係=人間が体験する最初の人間関係、ヨーロッパの場合は神(神が死ねば後釜の革命とか正義)。それぞれメリットデメリットがある。

 

→ヨーロッパというか唯一神教は人間性悪説にたつ。だから原罪があるし、人と神の間に契約が必要。日本は性善説。赤子は赤心、無垢。世に染まり悪くなる、と他の岸田氏の対談集で教えてもらった。

 

性愚説というのは無い…のか。

 

1§−2母性愛は自己愛の延長

母性愛は実は自己愛の延長であることが多い。子供の自我をどの程度認めるか、感情のコントロールを効かせられるかが大事。子供の自我が目に入らない盲目的愛情は偽りの愛情。p37

 

→岸田氏の母親との葛藤の経験が影響しているか?自我を客観的に自己分析し相対化するのは至難、と他の岸田氏の著書で読んだような気がする。

 

1§ −3母子関係は反復する

 母子関係は反復する。親への批判は自己批判にはね返る。母親の子供に対する関係は世代から世代へと反復する。愛情を注いでかつ束縛しない育て方がベストだがこれが難しい。

 

1§−4選択肢の多様化が破綻生んだ

 母と仕事いずれを選ぶか。みんなが役割を意識する時代が母子関係を難しくしている。誰もが母子関係に悩みを持っているが、とくに表現者達に親子関係問題(相剋、齟齬)を抱えている人が多い。

 

1§−5性の根本的問題は母親にある

 母子関係がセックスの根源。父親は観念。日本は母親中心主義。人間はなぜセックスをするのかまだよくわかっていない。本能ではなく文化=人工的な介在物がいる。日本の場合は根拠に母子関係をもってくるのが最も手近でしょう。一神教の場合は神様を持ってくることもあります。p70

 

1§−6「職業としての母親」の時代

 夏目漱石の「こころ」、「行人」妻を試す。女性を第三者が価値を認めるかを試してから自分の所有物にする。母を試している。継母コンプレックス。反復 何故貰いっ子なんかに、させたんだ!

 実母、実父である必要がない。母親業があっておかしくない時代。プロの子育て師。王家の子育て。

 自分の父母の認識は観念に過ぎない。人は他者と関係が持てないと生きていけない。家族関係は維持しなければならない。

 

2§ 家族

2§−1父性本能は存在しない

母性本能は崩壊。父性本能はもとよりない。

 

→母性本能は壊れてもわずかながらかけらが残るが、父性本能はもとよりないと断言されると少しさみしい。育休パパはどうする。

 

2§ー2父は昔から弱かった

「お母さん!」、「天皇陛下万歳!」も、本音と建前の違いでなく同じ文化に属する(母子関係を基準に対人関係の構造をつくった日本的社会)

 日本兵はマザコンだったから弱かった。もともと闘争的民族でない。

 軍国の母から教育ママへ。日本の先端産業の男たちを支えた。男と同じ社会的機能をはたしていた。過大な母性愛を要求することが子供いじめを生んでいる。

 

2§−3子育てが生き甲斐?

 自由放任が良いとして母親がしつけをしなくなる。母親業と会社業のニ択。

 

2§−4少女のままの母親たち

 世代全体が幼児化(男女とも)。ユング〜人間は恋愛すると幼児化する。かつてはほとんどの女性が母親という役割を引き受けたが、その文化は崩壊。現代は子供が不必要になり母親もそれに伴い不必要になった社会状況の変化。処女幻想、新卒採用の崩壊。共同幻想の崩壊。

 

2§ー5夫婦は親子を反復する

 自分の親と正反対に子供を育てようとするのも反復強迫。夫との関係は親子関係の反復。子供は親の無意識層を見て模倣して育つ=親の無意識層をコピーする

 文化的遺伝。無意識層を引き継ぐ。文化は無意識的に遺伝される。親のしぐさやものの言い方、身体所作。無意識遺伝。親と似ているのではなく、人間一般の特徴だと思い込んでいる。ケチは人間一般の特徴だと思い込み親とは似ていないと思う。

 日本はヨーロッパ以上に母親の気質や文化を模倣することが多いといえよう。

 

2§ー6父性は支配のために創造された。

 家族を生み出す根拠となるのは社会である。その社会の体系について、日本文化は総じて母系制的であるのに対し、ヨーロッパ文化は父性である。

 母系的なものは理念としては普遍的になり得ない。個別的なもの。

 原理原則である帝国主義的支配は父系的でないとだめ。観念として父が生み出された瞬間父という観念が神になる。一神教のもとに帝国が成立する。近代日本の天皇も同じ。

 

3§ 学校

3§−1 学校制度が「いじめ」の原因

 いじめは教育システム=学校制度が原因。母親が子供に目を向けすぎる母子関係に関連している。

 

→学校制度は徴税、徴兵のための国民を作るための教育システム。義務教育の一部までは必要だがあとは税金の無駄遣い、一利ありでも百害あるならやめた方が良いとするのが岸田氏の考え方。そうは言うけどねぇ…。世の母親の皆様どう思いますか。

 

3§−2教育者は人格者ではない

 教育者は人格者というのは幻想。人格教育と技術教育の狭間で親、学生とも混乱中。

 

3§−3文部省不要論

 教育システムが不備だから塾との二重教育体制になる。税金の無駄遣い。

 学歴信仰打破、人格教育と技術・知識教育というアマルガム(異なるものの融合、筆者注)を解決しなければならない。

 人格教育の破綻の結果、塾と新興宗教が発生したように新左翼、マルクス主義、オウム真理教も存在した。

 

→技術・知識教育の破綻が生み出した受験一辺倒、大企業就職願望はいじめの要因の一つ。

 

3§ー4母親教育が存在しない

 規範となる母親像がない。若者の幼児化=母親教育を受けたがらない。

 

3§ー5窒息する子供たち

 義務教育は国民の一体感=愛国心のためのもので学校制度の中心。国家という幻想を守るための学校制度のなかで子どもが窒息している。子どもがいじめる、いじめられている問題(登校拒否も同じ)は、母子関係の破綻とも連動している。

 

→説得力はあるものの、社会の中で生きるための最小限度の事は教えないとならないから、やめるわけにもいかない。解決策はどうする?

 

4§おわりに 

4§−1母親は欺瞞のうえに成立している

 村上春樹の小説には父母が登場しない、希薄な代理父のみ。現実的な両親の存在は希薄。吉本ばなな。「キッチン」いびつな家族構成。

 戦争嫌い、平和の味方。母親という存在が欺瞞のうえに成り立っている証拠。

 子育てを事業として見ている。子供のペット化。子供に自我が成立したとき親が態度を変えるのが難しくなる。親には必ずしも従わないその自我をも愛せるか。

 

4§−2母親幻想に頼れない時代

 母親の代わりの女とセックスしたいというのが男の本音。男の子の前に最初に現れたのが母親だから当然。

 恋愛問題、結婚問題、夫婦問題というのは母子関係の関数。法則の支配を受けていると本人が自覚さえすれば、法則の支配からある程度は脱出できるるのが精神分析の教え。

 

読後感

 改訂版では読者のために多くの見出しをつけたと、著者のあとがきにあるが、見出しと中身がどう一致するのか、何を言いたいのかよく(話が飛ぶので)理解出来ない章がいくつかあって戸惑う。

 主たる読者は母親と想定して書いたようにも見えるが、はたして子育てに悩む母親にどれだけ理解されるだろうかと訝しむ。

 たぶんロジカルというより、岸田氏特有のものの言い方が、若い悩める母親の心に訴える力を持っているかも知れないなとは思う。典型的なのは表題の「母親幻想」だろう。本の題名として、キャッチアイ、キャッチコピーとして秀逸。悩める母親は飛びつきたくなる。装丁も「母親幻想」の大きな文字のみで目を惹く。

 

 

 なお、「おわりに」は、何をおわりに言いたいのかよく分からない。結論はおろか要約でもないようだし、特に強調したいことでも無さそうだし。補遺のような。

 

 母親の難しさは、特に日本では男社会なので、その原因の多くは男、父親が作り出している事は間違い無かろう。もっと男、父親の問題点を探り出し、あからさまにする必要があるが、この本では少し足りないような気がする。

 

蛇足

 ふと想起しただけで本稿とは無関係。

 

 短夜や乳ぜり泣く子を須可捨焉乎(すてっちまおか)

 

 竹下しづの女(福岡県 1887~1951)


 

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

岸田秀再読 その38「日高敏隆の口説き文句」 小長谷有紀 山極寿一編  2010 [本]

 

日高敏隆の口説き文句 小長谷有紀 山極寿一編 岩波書店 2010

 

2_IMG_9076.jpeg

 日高敏隆(1390-2009 東農工大、京大教授、滋賀県立大学学長。)は、岸田秀氏とフランス(ストラスプール)留学時代からの交友があり、唯幻論に似た本能代理論を説く。

 この本は2009年日高氏没後まもなく氏と交流のあった人たちによる追悼文、日高氏の著書の批評文などをまとめたもの。その中の冒頭に岸田氏のインタビューが掲載されている。本の編者は小長谷有紀(文化人類学者)と山極寿一(人類学者、京大教授)の二人。

 

 日高説は唯幻論と共通点があり、似ているが、微妙に異なる点もあり、自分の岸田本能崩壊説に対する違和感に関わる様な気がして以前から気になっていた。

 インタビューの内容は次のとおりで「人間と動物に差、優劣はない」と日高氏は言う。こちらの方が自分には納得感がある。

 

岸田ー動物は本能がしっかりしているが、人間のは壊れているので動物の方が優れている。人間だけ幻想、イリュージョンを持ち動物は現実の世界に住んでいる。

日高ー動物の本能も万全ではなく(人間との間に)優劣はない。動物もシンボルで動き、イリュージョンを持っている。

 

 なお、日高氏の著書「チョウはなぜ飛ぶか」、「プログラムとしての老い」、「ネコたちをめぐる世界」、「人間はどこまで動物か」などの書評も面白い。機会があれば読んでみたい気になる。

 例えば、坂田明(音楽家)の「動物と人間の世界認識ーイリュージョンなしに世界は見えない」評。 (日高氏の岸田理論に触れた箇所がある。)

 

(日高)岸田氏の論旨(本能崩壊、自我発生)は明快だが、動物たちもある意味での幻想を持っていないわけではない。環世界はけっして客観的に存在する現実のものではなくあくまでその動物主体によって客観的な全体から抽出、抽象された、主観的なもので、人間の場合について岸田氏のいう現実という幻想にあたるもの=イリュージョンと呼ぶことにした。

 報道や死に対する態度を含むあらゆる信仰や宗教もまた死を発見した人間の作ったイリュージョン。イリュージョンは人間の情緒的感覚と結びついて、強固に存在し続けている。

 

 (注)環世界(かんせかい、Umwelt)はヤーコブ・フォン・ユクスキュル(独)が提唱した生物学の概念。環境世界とも訳される。

 すべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、それを主体として行動しているという考え。ユクスキュルによれば、普遍的な時間や空間(Umgebung、「環境」)も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されている。動物の行動は各動物で異なる知覚と作用の結果であり、それぞれに動物に特有の意味をもってなされる。ユクスキュルは、動物主体と客体との意味を持った相互関係を自然の「生命計画」と名づけて、これらの研究の深化を呼びかけた。(ウキペディア) 

 

 他に、「チョウはどこまでカミか」中西進(国文学者、京都芸大名誉教授) など、面白いものもあるが本題から逸れるので省くことにする。

 

読後感

 岸田氏は人間の本能は崩壊し、代わりに自我を持ったが、動物は行動規範たる本能があるのでむしろ人間より優れている、とするのに対して日高氏は動物も同じで優劣はない。 幻想、イリュージョンを持った点は共通しているという。日高氏は人間の本能が壊れたと言っているわけではなく、人間も動物もそれぞれのあり方の違いだとすると解して良いのだろうか。


 

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

岸田秀再読 その39「沈黙より軽い言葉を発するなかれ」」 柳 美里対談集」 2012 [本]

 

 沈黙より軽い言葉を発するなかれ 柳 美里対談集 創出版 2012

 

1_IMG_9075.jpeg

 柳 美里(1968〜)は在日韓国人の小説家、劇団青春五月党主宰。「家族シネマ」で芥川賞。他に「八月の果て」、「フルハウス」など。今までこの人の作品は読んだことがない。

 

 岸田秀氏との対談は3.11震災原発事故をめぐるもの。事故の1年1ヶ月後に収録された。

 岸田氏の事故に対する見解は明快。原発は戦艦大和の建造と似ており、その事故は自閉的共同体の体質によるものだとする。

 平たく言えば原子力ムラであるが、歴史的に見ればペリーによる開国、富国強兵、太平洋戦争敗戦、経済復興すべてはこの自閉的共同体の悪弊が根底にあり、原発事故はその延長線上にあると断じる。柳美里氏もこれに異存はさそう。

 

 岸田氏の自閉的共同体からの脱却もまた明快。その悪弊を直視し、自覚して少しでも現代社会にマイナスの影響を与えるかを理解して自覚的、反省的に捉え直すことで克服出来るとする。しかしこれが容易でないことは、事故から13年以上経過した今、原発依存はむしろ高まり再生エネルギー軽視が続いていることから見ても明白だ。

 

 メルケルが脱原発を決断したドイツに比べて、日本は何がどう違うのか。自閉的共同体の悪弊以外にも何か他の要因があるのではないのか。更に考える必要があるだろう。

 

 故郷を追われた人の苦難はなお続き、被災地復興はままならず、原発事故の後始末はまだまだ手付かずと言って過言ではない。アンダーコントロールはまやかしだと誰もが思っている。一国の総理が世界に隠蔽し嘘をついた罪は大きく、子供への悪影響は計り知れない。自閉的共同体性はいや増していると言わざるを得ない。

 

 この本は岸田氏以外の対談も3、11後のありようや表現者らの苦悩を論じていてそれぞれ興味深く読んだ。

 

 しかし、あのとき誰もが、これから日本は変わるのではないか、と思ったにもかかわらず基本的には、さして変わっていないのではないかと訝る。この岸田ー柳対談は、そのことを示している様に思える。

 

 蛇足ながら本の表題「沈黙より軽い言葉を発するなかれ」は、柳美里氏は触れていないが、「まえがき」の人との対話において、声が重要だと改めて気づいた、というくだりと関係があるのだろう。沈黙は死者への礼という言葉もあるが、沈黙より重い言葉を持たない人はどうしたら良いのか。表題の受け止り方は人それぞれだけど、キャッチコピーとしては成功しているように思う。

 

 例によって記事と直接関係はないが、自分が3.11から2ヶ月後に書いた文章と腰折れを再読している。

 

大震災から2カ月 

 

https://toshiro6.blog.ss-blog.jp/2020-10-01-5

 

  平成二十三年五月  (2011.5)

  大震災から2カ月が過ぎた。この間、何もせずテレビを見ていた。

 今なお、ぼんやりとしている。

 原発事故まで引き起こした大津波地震が発生した日、以後世の中が変わるだろうと予感したが、本当のところは変わったのかどうかもわからない。

 

 生まれた翌年が開戦、敗戦時五才では戦争体験者とも言えないだろう。以来古稀に至るまで大きな災難を免れて来ている自分の幸運は、僥倖いや奇跡とも思える。

 有難いことであるが、それだけに被災者の方々の辛さを思うと、言葉を失い茫然として腑抜けになっている。

 

0_IMG_9109.jpeg

 写真は水戸市に住む義兄の手づくり地震計。

 東京は地震も多かろうと、数年前家具を固定してくれた時に据え付けてくれたもの。

三月十一日、東京でもこの重い方の錘が大きく振れた。

 義兄は今回の地震の被災者でもあるが、東海村原研の元研究員なので近所の人から放射線の影響のことなど何かと頼りにされているよう。

 

 テレビ映像を見ていて腰折れ五首     

 

  山火事の消火のごとく原発へ  ヘリのバケツで水を撒くとは     

 

  海嘯(かいしゅう・津波)は車も漁船も流しけり  家もろともに人もろともに  

 

  ひと気なき浜を彷徨う黒い牛  ペレット飼料は牛舎にあるぞ

 

  校庭のグランド削るパワーショベル  子等の心も削られてをり

 

  あっけなくなゐ(地震)と海嘯この国を  三たび被爆の国と定めり

 

 注) 6首目 第五福竜丸被爆を含めれば四たびになる。(2023/11/23追記)


 

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。