岸田秀再読 その25「心はなぜ苦しむのか」朝日新聞社 1999 [本]
「心はなぜ苦しむのか」朝日新聞社 1999(朝日文庫)
前回読んだ「フロイドを読む」は、1991年刊行であるが、この本は5年後の1996年刊行(毎日新聞社)である。文中に何度か引用されており、読んだ順序というかタイミングは、偶然ながらベストである。
本は、毎日新聞社出版局の編集者の志摩和生氏が岸田氏にインタビューする方式。インタビュアーも経験したという「鬱」、「神経症」などがテーマである。
結論から言えば、自分には面白い本であった。面白いとは語弊があるが、自分が「フロイドを読む」を含め、ずっと感じてきた岸田氏の強烈な母御への憎しみとも言える感情への違和感を、志摩氏が執拗に本人に迫り、それに対して岸田氏が撥ね付ける第二部巻末部分(「許せないこと」)である。
志摩氏は岸田氏の母親にエンパシー(感情移入、共感)を感じ、母御を許せないものか、そうしないと岸田氏も傷つくし、母御は亡くなってもういないのだから解決策がないと言う。
自分も志摩氏と同じことを思った(エンパシーなるものは湧いていたか、どうかは不明だけれど)が、よく分からなかったので、「フロイドを読む」を読んだ時、「くも膜下出血で倒れられた母御が、手術をした時の衝撃で自分の誤りに気づき、岸田氏に謝り、氏もこれを受け入れて強迫神経症が治る」という「夢想」で誤魔化した。
再三にわたって質す志摩氏への、岸田氏の答えは凄まじい。推察するに90翁になった今でも岸田氏の考えは変わっていないだろう。
(注)エンパシーは、自分と違う価値観や理念を持っている人が何を考えるのか「想像する力」、シンパシーは、同情や共感など、感情の動きを示す言葉。
以下例によって気になったところ(岸田氏の言)を§章ごとにメモしながら読んだ。「・・・」は引用。→は、自分の所感など。
注)引用は出来るだけ「ママ」にしたかったが、対談など話し言葉は、「意訳的」にまとめたりしているものがある。また、わたくしが、「私」、つづくが、「続く」など、ときに著者の表記と異なるものになっていたりする。論旨に変わりはないが、お断りせなばならない。なお、これらは岸田秀再読共通であり、この記事だけに限らない。
第一部 心は何を恐れているか
§不安の心理
「神経症に対する治療については、薬か精神療法かは、二者択一ではない。薬は一時的に抑え、精神療法は持続的効果をもたらす。」p5
→鬱や神経症が心因性か生理的なものかには興味がある。両方なのだろうが。
§神経症体験
「恋愛は不安、鬱からの一時的な逃亡。病気の始まりということもありうる。」p76
「唯幻論の考えは空しい。鬱病的傾向が子供の時から。抗鬱剤が効いたから、身体的原因もある。抑鬱、自己否定的思考を自覚させるのが認知療法。無意識的観念などを自覚させるのが精神分析療法。自己否定的思考の起源を探るのが特徴的。」p78
→薬物療法のほか精神分析療法と別に「認知療法」というのもあるのか。
§偽りの自我
「自我+エス=存在全体の図式でいえばなるべくエスを自我の中に取り込み、自我を組み替えれば神経症的不安は減少する。 自分で自分を解体するようなもの。難しい。
鬱は自己否定が勝って安定=株の安値安定。不安は自己主張と自己否定の葛藤状態。強迫観念は不安からの逃亡。
存在に支えられている自我。偽り(強弱ある)の自我は、神経症を引き起こし易い。
存在= もって生まれたものと自然な成長や努力によって得たもの、その後の経験で身につけたものそれらのものを合計した一切合切。存在の中で本人が自分だと認識していない部分がエス。
自我とエス=存在全体から自我化された部分を引いたものは常に葛藤状態にある。自我は自らを固めようとする。エスは抑圧の壁を突き破り自らを表現しようとする。
偽りの自我(の起源)=親に押し付けられた規定された自我。
図
偽りの自我は、現実に適応しているが、存在に根をもっていないので存在に反逆される。現実的自我は、現実に適応かつ存在に根を持つ。重なり部分が大きいほど安定した人格構造。人格構造の不安定。
図2A 広い自我を築いているが存在に根を置いていない偽りの偽りの部分が多い=ずれている自我。
図2B 自我のすべての部分が存在に根をもち偽りはないが、自我自体非常に狭い=狭い自我。
→このベン図も自分にはどうしてもストンと腑に落ちない。どこにその原因があるのか。何度も考えるのだが不明だ。
「生きる喜びは存在自体の自己表現にある。p116人間生命の存在はむなしくない。観念は別。生命存在は幻想ではない。生命存在を全面的に生きようとすると不適応になり破滅。破滅を避け安定を求めればひからびた、つまらない人生を送らざるを得ない。安定と生きる喜びは二律背反。人間は両性具有。
→ここになぜ両性具有が出て来るのか不明。なお、人は女が先に生まれたのち、男が後から生まれたことはあまり出てこない。何やら男女の精神形成などに影響が大きそうな気がするのだが。男は急拵えなので色盲など欠陥も多いと誰かが言っていた。
「フロイドは男であるのが人間の本来のあり方で、女は男のなりそこねのように扱っているが、現存する性差別の中で男と女がどのように形成されているか描いているだけで性差別を擁護しているわけではない。むしろ男も女も作られるとはじめて明かした」p203
→異性の親に育てられるか、同性の親に育てられるか、で男と女に別れるというのがフロイド説とか。同性の母に育てられた女の子は不運。上記の自分の疑問と関連性ありや?なさそう。
§恋と憎しみ
「自我にもとづいて擬似現実に適応すれば生存は確保されるが、退屈で無意味で生きる喜びのない人生となり、壊れた本能を表現すれば、不適応になって滅びると言う二律背反を背負わされている。」p129
→あちこちに二律背反が出て来るが、今一つ納得感が弱いのは我が理解力が弱いからか。
「精神分析でいう置き換え、すり替え=父親、母親のような幼い時の重要な人物との関係のパターンが別の人物との関係にずらされること 別の人物との関係は、現実のその人に基づいているわけではないので、当然現実離れしており、現実の状況に見合っておらず、強迫性を帯びる。」p143
「パーソナリティーというのは、要するに思想体系であり、価値体系であり、世界観ですから全部がつながっていると思う。天皇制、恋愛、政治など。」p153
→それはそうだろう。一貫していなければ多重性格、性格破綻。
「人間は精神的に成熟し、悟りを開けば、全てを許すことができるようになる、という幻想をある種の宗教が理想の目標として説くのはいいですが、一個の具体的人間がそのような理想を実現できると信じるのは迷妄です。僕は母を許しません。」p 163
→宗教における悟りは幻想どころか迷妄。されば、人は許せないものは許せない。憎いものは憎い。岸田氏は、自分は一個の「具体的」人間だと言っている。具体的とは観念的で無いということだ。うーむ、こうなるとここで行き詰まり、解決策は無くなる。放っておくか、触らず関係を断つしか道はないと、氏の結論へひたすら進むことになる。
第二部 現実の母と現実の私
§人間の出発点
「口唇期(生後1年)は、栄養摂取のみならず母親依存、世界と繋がる。肛門期(4〜5歳)は、母に対する自己主張、母親を別個の人間として認識して自我が芽生える。母親依存を屈辱と感じ不満攻撃性が出て来る。人間においては、世界との関わりたい欲望が栄養摂取機能にも排泄機能にも生殖機能にも寄りかかる。あと男根期、性器期とつづく。ただし必然的な発達段階でも無い。p187全知全能の母親依存を屈辱と感じるから、自我意識の根底には屈辱感がある。」p190
→これらが人間の出発点。唯幻論による。
§自己愛と性格
「生物学的には大人にならないのだから、人為的に大人にならなければならないというのが、人間に負わされた運命です。p195大人とは、①社会通念を受け入れ社会に適応した人。②潜在している可能性を実現していく人。適応派と実現派。フロイドは固着と退行という。「大人になるのは、全能感が縮んでいく過程。」p199
→幼形成熟のことか。大人とは何かも難しいし、本来大人になりたい欲求もないとも言う。
「欲望は人間に特有なもので、どのような欲望も自己放棄と自己拡大の二大衝動に由来している。その基盤に葛藤と不安があるのが特徴。」p202
「幻想の自己はナルシシズムに由来し、現実の自己は人々との関係の中から生まれるのですから、起源が別であって、もともと分裂しているものなのです。」p 207
「自分の性格というのも、自分が投げ込まれている現実の諸条件の1つであって、それを踏まえて現実の問題に取り組むほかはない。」p209
「日本人もヨーロッパ人も一般にまず母親に育てられるわけですが、ヨーロッパ人においては母親との関係に父親が割り込んでくることから問題が生じ、日本人の場合は母親との関係が濃すぎ、長すぎて問題が生じる。」p233
→ヨーロッパは一神教、父家長制。日本は家庭主義、母親中心。文化の相違が大きい。
ヨーロッパは母親との関係に父親が割り込み、日本は母親との関係が濃すぎ、長過ぎ問題が生じる違いがあるとも。なるほど。
§許せないこと
「フロイドの功績は、家族関係は特別な関係だという幻想を打ち破ったことにある。しかし、息子が母親を恋し父親を敵視する現象で、神話を持ち出して、エディプス・コンプレックスと名づけ普遍的だと主張したことで、自分の理論の切れ味をいくらか殺いだ。」p234
→なるほどフロイドは父、母、子といえども、個人であると考えた最初の分析者だったとは、知らなかった。
「フロイドもさすがに人の子の親であって、やはり親のほうに有利な考え方をするところがある。エディプス・コンプレックスにしても、子供の側の事だけが問題にされている感じがあります。僕は親側に有利な考え方をあまりしないのは子供がいなくて、親になったことがないせいかもしれません。」p235
→岸田氏の考え方に何となく納得する。具体的にどこがと考えても、思いつかないけれども。親に厳しく、子(岸田氏自身)に甘い? そんなことはない。
「青年期に個人として独立して自我を確立しようとするときに、ヨーロッパではやはり父親と抗争し、父親を乗り越えると言う形をとりますが、日本では母親の支配を脱するということが重要になりますから、問題の焦点が違う。」p237
母は、恩着せがましさが強く、道徳的に自分を責めた。道徳的に許しがたい。許さないは、復讐することではない。解決のない問題もある。心の不安を取り除く道、愛や許し、それは逃げ、自己欺瞞である。
自分の価値観の表明だ。なぜ神をもちだすのか。神がいるとして神が持てるような許しは、人間は持てない。やはり許しの思想は都合の悪い事実の隠蔽の上に成り立つ無責任で欺瞞的な思想だと思う。子は親を憎むべきではないという通念がある。禍いのもと。僕の理想的解決は、親子関係が親でもなければ子供でもないというふうになること、憎まず許さずの境地になること。難しいが。」p246
→母御が自分が悪かったと思ったとして岸田氏が許すと、今度は母御が苦しむ。因果の連鎖だ。母御にエンパシーを感じ、ただ悲しいのだ、と言うインタビュアに対して岸田氏は上記のように答える。一貫して揺るがない。
「自分で引き受けると言うことは自分のあるいやらしい性質を相手に「「投影」をし相手を非難することをしないということ」p252
→岸田氏のアドバイスにある「それから先は自分で引き受ける」という場合の引き受けるという意味は何かという問いへの答え。許せない母が氏の念頭にあるのか。
「精神分析は人事でも宗教でもありませんから、別に厳しくはありませんよ。ただ、神経性人格障害などを含めての苦しみ、周りの人々に与える苦しみをも含めてと現実の苦しみとは二者択一であると言う事実を明らかにしただけです。現実の苦しみから逃避すれば、神経症の苦しみを招くということ、神経症の苦しみを解決するためには、現実の苦しみを引き受けなければならないということ、この2つのことを説いているに過ぎません。どちらの苦しみも同時になくする道はないということです。フロイドは、耐え難く苦痛な事態にぶつかり、それに直面できずに神経症へと逃げ込んだある患者について、神経症を直して現実の苦しみを味わうより、神経症で苦しんでいる方がまだマシではないか、神経症を直すことではないかと言ったことがあります。このように精神分析だって、是が非でも苦しい現実に直面することを教えるわけではありません。」p253最終ページ。
→精神分析とは、厳しい。人の心の闇を暴きあとは何とか自分でしろ、安全装置を外し危険物を自分で処理せよというような教えに聞こえる。優しい教えではない、というインタビュアへの岸田氏の答え。
読後感
冒頭に面白い本と書いた。岸田氏の母親に対する強い憎しみの強さ、それはどんなことがあっても消えないとする、強い思いが印象的であったことに尽きる。母の子への思いというのは無意識のうちにこれほどまでに子に植え付けるものか。母の思いが欺瞞だからか。母の思いが、真の愛でも同じだろう。欺瞞、真の愛、実に考えさせられる本である。
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