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曖昧模糊 [雑感]

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「曖昧」の本来の意味は、ものの本によれば「どちらか一方に決めることが出来ない状態」をいうそうだ。曖昧模糊などと日常的に使われる。模糊とは禅語で刹那と同じように1未満のごく小さいミクロの単位のことという。

「曖昧」の反対ことばは、明確=疑う点がない、または明瞭=曖昧なところがない、ということになる。また、「はっきり」という語も曖昧なところがないという意味を持つ(ただし、この語は副詞であり、英語のclearlyに相当するとか)。
曖昧に似たことばは、漠然=程度がはっきりしないことや優柔不断=態度をはっきりさせないことなどがある。また反対ことばの、「明確」や「明瞭」に接頭語の不をつけると「不明確」、「不明瞭」となる。これらもまた「曖昧」の類義語である。このくらいで曖昧の一般的な意味は十分であろう。

しかし、自分はこの曖昧という言葉をなぜか、本来の意味と少し違うと思うのだが無意識のうちに、「中間的な」という意味で使っている。
自分は全ての面で曖昧だなと思う,といった具合だ。性格的に突き詰めるということをしないが、どちらとも決めかねている状態ではなく、極端と極端の中間のどこかにある状態、またはどこかに居る状態だ。「中庸」の語感に近い。
 例えば極端な不幸と極端な幸福の中間、ひどい苦難と安楽の中間、優れた能力と愚昧の中間、永劫と刹那の中間、世俗性と宗教性、その中間のどこかに自分はいるという感覚。大多数の人間は誰でもそうなのかも知れないが。

 さて、曖昧を突き詰めるのが科学であり、やや乱暴ながら曖昧のなかで遊ぶのが芸術、文化とも言えるのではないか。
 よく日本人は曖昧を好む国民と言われる。とくに外国人からはそう見られるようだ。確かに心情主義、狎れあい、義理人情が日本人の特質とも言われる。
 一方あまり固いことは言わない。玉ねぎの皮は全部をむかない。といった突き詰めない処世術が尊ばれる。和を以って尊しとなす、というのも曖昧そのものを尊ぶとのだと言えなくもない。
 昔、九州で働いていた時、土地の人が豪快に「てけてけにせい。」と言って白熱していた議論をやめさせたのを見たことがある。てけてけ=適当に、いい加減に、理屈をいうなというニュアンスであった。

 曖昧という概念を取り入れた科学理論に「ファジィ理論」というものがあった。今でもあるのかもしれないが。
ファジィ集合においては、通常の集合のような「ある集合に属している、または、属していない」という考え方を拡げて、「ある集合にある程度属している」という曖昧の度合いを定義する。つまり曖昧の度合いを定量化するのであろう。この理論が何の役に立つのか不勉強にして知らない。
 曖昧を理論化するというのも難儀なことだが、自動車のハンドルの遊びのようなものを考えるのに役立つのだろうか。

 ここまで書いて、一体自分は何を言いたいのかと、はなはだ曖昧で漠とした文章であることに呆れる。我ながら言いたいことを一言で言えと怒鳴りたくなるが、曖昧について考えるのだから仕方がないとも言える。

 なぜか、曖昧という言葉に惹かれるのである。

 曖昧で良いものは何か、曖昧ではいけないこととは何か、といった具合である。
 唐突ながら、「生病老死」という仏教でいう四苦がある。この四苦のうち生と死は曖昧でなく、病と老は曖昧か、などと考える。

 混沌という「るつぼ」の中をかき回しているような感じであるが、曖昧というのはいろいろなことを考えさせる不思議な言葉である。と、しみじみ思うが、何一つはっきりしない。曖昧である。

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