SSブログ

かくもながき愉しみ [絵]

yarehatisu.JPG

 これまでに描いた水彩画を作成日順に整理して、水彩画文集を作った。
 手作りで自分のためのものである。よって一冊だけ印刷した。A4版、135p、収録した絵は270枚余 になる。

 水彩画を意識して描き始めたのは、まだ現役の九州福岡勤務のときだから平成元年頃である。水彩は高校時代、選択科目に美術があってそのとき描いたことがあるだけで就職してからはほとんど描いたことがない。
 担当する範囲が九州一円と沖縄なので、長崎、鹿児島、大分、宮崎、熊本、沖縄などによく出張したが、出張先のホテルで朝起きてから食事までの間に、気が向けば小さなスケッチブックで窓の景色などを描いたことを想いだす。
 福岡勤務は一年一カ月と短かったが、その後東京に戻ってからの6、7年は、仕事に追われてあまり描いていない。時々身の回りの花などを描いたくらいである。

 平成7年から9年までの2年間の大阪勤務は単身赴任だったこともあって、付き合いゴルフのないたまの土、日曜日に奈良や大阪の中之島公園などをスケッチしたこともある。

 平成11年退職後の第二の職場では余裕もなく、ドタバタもあって絵どころではなかった。そこをリタイヤしたのは14年3月。絵を習おうとカルチャーに通い始めたのは、その2年後の16年10月である。64歳になっていた。
 この間も、その後もいろいろなことがあった。そして、もはや平成も24年となる。長い、長い歳月を重ねてしまった。

 水彩画の教室に通うこと八年目になるので、この間に描いた絵の枚数は膨大になる。
 普通ひとは気にいらない習作は捨てるが、何故かほとんどもっている。いつかは捨てねばならないことは分かっているのだが、下手な絵にしても、これを描いていた自分の長い時間を思うと破って反古にする気になれない性質、たちなのである。

 さて、誰も見るものはいないと思いつつ、これまで描いた絵に文を添えてHPに掲載してきた。もう10年以上になる。それを最近、B5の電子書籍画集(5冊)にしてで眺めていたが、どうしてもこれを紙の本にして見たくなった。やはり古いアナログ世代の人間である。

 今回は、この電子書籍画集を編集し直して製本した。B5版でなくA4版としたのには、些細なことではあるが、それなりの理由がある。両面印刷する場合には、B5版の紙の種類が少ないので選択肢が限られてしまう。不本意ながら、B4を買ってきて半裁せねばならない。これが結構大変なのである。A4は少し大判であるが、それをしないですむので助かる。

 画集の題名案は当初「水彩画習作集」だったが、「水彩画集」とし、さらに「水彩画文集」と昇格させた。正直のところ「画文集」とするには、絵に添えた文があまりにぼやきばかりでせいぜい「習作集」というところなのだが、「画文集」というなんともいえぬ魅力的な「語感」の誘惑には勝てなかったのである。従って名は体を表していない。
 容易ならざる時代に、絵をかくも長きにわたり描けるというのは、本当に有り難いことだとつくづく思う。
 「絵の恥は描き捨て」とか、「下手の横好き」とか自嘲しているがやはり描くことが好きなのだろう。体調が悪くても毎週金曜日になると、雨が降っても、暑いさなかでもいそいそとカルチャーの絵画教室に出かける。
 古希を過ぎた耄碌寸前というこの年齢で好きなことができるのは、もはや奇蹟に近いと言っても大げさでは無い。健康と周りのみんなに感謝するばかりだ。そこで副題を「かくもながき愉しみ」とした。
 「ありがたやかくもながきに愉しみて」という気持ちである。「かくも」は「描く」をかけた。これは、言わぬが花、蛇足だ。

 芭蕉は「多作多捨」といったが、自分の場合は、描いた原画を余り捨てないから「多作少捨」。
 もちろん絵は沢山書いたからといって上手くなるとは言えない。水彩を習いはじめてから描いた絵は膨大になる。失敗作を含め駄作、習作ばかりだが、それをほとんど破棄することなく持っている。
 それだけでなくご丁寧にも、描いている途中のものも含めてデジカメで撮影、保存してきた。このデータもまた膨大である。
 考えるに、この「捨てられない」というのとデジカメによる「絵の写真記録」は、きっと水彩画の技術が上達しない、また良い絵が描けないことと関係があるのかも知れない。
 透明水彩には他の画材の絵にない幾つかの特質がある。一番はその非可逆性であろう。油彩画は重ね塗りが出来て、後から修正が出来るが水彩はそれが出来ない。最近のお絵かきアプリは、ほとんど無限のredoがついていて羨ましいが、水彩はやり直しが出来ない。取り返しがつかないのである。その代わりに短時間で美を捉えることが出来る特質、利点があるのだ。
 透明水彩画には思い切りの良さと自由奔放のようなものが必要かなと、時折り思う。描いたものにこだわっているのは、絵の上達のために確かに良くないような気がする。

 さて、近年のカメラ、印刷技術やITの進歩は、目覚ましい。ハード、ソフトそして扱うための人間とのインターフェースを含めて日進月歩である。
 おかげで水彩画を描く愉しみだけでなく、それを中心にHP、ブログ、ポストカード、電子本の画集など愉しみは広がる。今回の画集の製本も同じ延長線上にある。
 絵と文のファイルがあるのでそれを編集すれば、印刷製本も出来るし、自炊もせずに電子書籍を作ることもわりと簡単である。それをもとに、「天上天下唯我独本」と洒落ているこの世に一冊だけの究極の愛蔵版画文集が出来たことになる。

 絵の方は、ますます混迷の度を深め、悪足掻きが続いているが、それもまた楽し・・である。副題に「愉し」と入っているのが泣かせるところ。
ちっとも上達していない絵を進化著しい液晶でiPadをめくって眺め、さらに手にずっしり重い印刷本も読めるという贅沢をひとり愉しんでいる。

 この頃、素人向けお絵描きソフトが良くなっている。水彩も油絵も描ける。これはこれで楽しい。面白いのでこれで遊んでいるが、作った画文集を眺めながらやはり本物の水彩の良さはまた格別だなとあらためて思った。
 パソコンHDやCD、SDカードなどの記録媒体に保存された絵はいつ迄鮮度を保つのだろうかと訝っているが、それに比べて長い伝統を持つ水彩画は保存力は勿論のこと、透明感、色の輝きなども液晶の輝きとは別の素晴らしいものがある。
 それだけに水彩画を学ぶ者にとっては、奥が深いということのようで、道ははるけくも遠いなとも、しみじみ思うのである。

 HPの表紙でもこの画文集を紹介した。次の駄句を添えて。心臓である。

   絵も文もアブラカダブラ春隣り
   水彩を学び八年破蓮(やれはちす)
   淡彩は茄子の浅漬け白小皿
   妻の絵を描き損じけり老いの春 

 2句目。水彩を習って八年目なので「やれ蓮(やれはちす)」としたが、「敗荷」とも書くとか。負けないよう、まして枯れ蓮(かれはちす)にならないよう、これまでどおり愉しみながら精進できたら嬉しい。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

老いらくの恋歳時記はえらい ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。