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藤村操「巌頭之感」と高山樗牛「瀧口入道」 [随想]

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安野光雅氏(1926年~)は、気になる水彩画家の一人であるので、時々著書を読んだり画集を眺めたりしている。最近も、近著の「絵のある自伝」(文藝春秋)と復刻版「わが友の旅立ちの日に」( 山川出版社)を面白く読んだ。

後者の本の中に、著者自身がびっくりしたと言って書いているのだが、読んでいる自分も初めて知って、同じくびっくりしたことがあった。
1903年(明治36年)5月、藤村操 がミズナラの木に「巌頭之感 」を彫って遺し、華厳の滝で自殺したことについてである。
藤村操は、一高秀才 、眉目秀麗の18歳だったことから当時センセーショナルに報じられた。そのことは、ほぼ40年後に生まれた自分も知っている。
これまでこの自死は、若者の哲学的悩みが原因とばかり思っていたが、1986年7月1日朝日新聞の記事によれば、死の原因は年上の女性へのプラトニックラブ(片思い)の失恋だというのである。
相手の女性は馬島千代さんといい、東京工大名誉教授、崎川範行さんの御母堂であるという。明治17年生まれで、操より一つ年上。「本郷の屋敷から人力車で麹町の女子学院に通う千代さんに恋文を出し 高山樗牛「滝口入道」を渡して傍線を引いたところを読んで欲しいと言ったという。
馬島千代さんは1982年97歳で亡くなられたが、その後藤村操の「恋人への遺書」が発見されたというのが朝日の記事の内容である。
へえー、「人生不可解」でなく失恋か、「恋は不可解」なら分かる、分かる。と安野氏ならずとも思う。ただ、死因は一つだけでなく複合的なものであろう。今となっては真実のところは闇の中か。

「巌頭之感」の世に与えたインパクトが強かった。これも藤村が若かったこと、良家の子息だったことなど複合的な要因があったのだろうが、誰かが指摘したように当時の世相、特に日露戦争前夜の言い知れぬ恐怖感、閉塞感が背景にあったのではないかという説はそこはかとなくだが、分かるような気がする。
もし原因が失恋であったとしたら、哲学的懊悩も戦争も周りが勝手に思い込み大騒ぎをしただけということになるかもしれぬ。

その「巌頭之感」全文は次の通りである。

悠々たる哉天壤、
遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、
胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、
大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。

藤村の死後4年間で、日光華厳の滝で自殺を図った者は185名にのぼった(内既遂が40名)といい、周知のようにその地はたちまちにして自殺の名所となった。
このうち失恋、人生(哲学)の悩みなどでそれぞれ何人亡くなったのかなどと考えても詮なきことだが、もとより自分も自死、自損については関心が強いので気にはなるところだ。
http://www016.upp.so-net.ne.jp/toshiro5/kaze.pdf
「風」9ページ 四 「自損と他損」

最近、15年ぶりで自殺者が3万人を切った、という報道があり同慶の至りだが、なお、多いことに変わりがない。自殺は優れて個人的なものではあるが、その総和は現代社会の病根であり、悲劇は絶えることなく続いている。
また、いじめによる子供の自殺、宗教色の強いテロ自爆、焼身自殺、医療における尊厳死、はたまた自決、殉死など、特別の視点から考えねばならない自死もあまりに多い。
池内紀だったか、自死については深く何度でも考えてみる値打ちがある、と言っていた。自分もそう思う。しかし、この場合の池内氏のいう自死は、むろん失恋によるものではなくそれこそ哲学的なもの、ひとの生き方にかかるものであろう。
安野氏ならずとも失恋くらいで死ぬな、と言いたくなる。命がいくつあっても足りない、とは安野氏さすがに大人だから言っていないが。

さて、藤村操が馬島千代さんに読んで欲しい、と渡した「瀧口入道」は高山樗牛が東大在学中に書いた23歳の時の作品 。昔読んだような気もするが、覚えていない。
安野氏は自分で読めと書いているので、藤村操がどこに傍線を引いたのだろうかなどと考えながら、あらためて青空文庫で読んだ。
著者の高山 樗牛は、1871年(明治4年) 山形県鶴岡市生まれ。明治時代の日本の文芸評論家、思想家。東京大学講師。文学博士。明治30年代の言論を先導した。本名は林次郎。1902年(明治35年)31歳で夭折。

「瀧口入道」は平家物語に材をとったもので、平家一族の盛衰を背景に、次のように始まる。
「やがて來む壽永の秋の哀れ、治承の春の樂みに知る由もなく…」
治承は平家の最盛期、寿永は没落時の年号である。
清盛の子である重盛(小松殿)の侍、齋藤瀧口時頼と云ふ武士が、西八條の花見の席で、中宮の曹司横笛を一目見て恋に落ちる。が、父に反対され出家。隠遁した僧の後を追った横笛は、入道に疎まれたと思い、病の果てに若くして恋塚の主となる。
平家が西国に追い詰められたころ、高野山にいた瀧口入道を平家三代目維盛とその従者足助二郎が訪ね、二郎がかつての時頼の恋敵だったことが判る。
そして、時頼に潔い最期を勧められた維盛は、次の書き置きを遺して従者の足助二郎と共に和歌浦で自死。
「祖父太政大臣平朝臣清盛公法名淨海、親父小松内大臣左大將重盛公法名淨蓮、三位中將維盛年二十七歳、壽永三年三月十八日和歌の浦に入水す、徒者足助二郎重景二十五歳殉死す」
また、瀧口入道時頼も同じ和歌浦において、あとを追うようにして切腹自死する。
物語は次のように終わる。
「嗚呼是れ、戀に望みを失ひて、世を捨てし身の世に捨てられず、主家の運命を影に負うて二十六年を盛衰の波に漂はせし、齋藤瀧口時頼が、まこと浮世の最後なりけり」

つまり「瀧口入道」は恋だけが主題ではなく、平家物語と同じ無常、もののあはれがテーマである。しかも自死が重要な意味をもつ。
藤村操の「巌頭の感」も恋が動機のひとつだったかもしれないが、それだけではなく、やはり「人間の生き死に」や無常、つまり哲学的なものに悩んだのであろうと思いたい。
むろん本当のことは知る術もないが、最後の行動が自死だったことは大事な重い意味があると思うのだ。
それにしても藤村18歳、瀧口入道23歳、それぞれ若さに恋が絡むのは自然のこと、また恋が無常と絡むのも、男女の愛が人間の生死と深い関係があるのだから当然といえば当然であるが、普通人は、そこから自死までいくには距離がある。しかし意外とその距離は短かくて、誰にとっても危ういものなのかもしれない。

人は14歳前後にはたいていのこと、人間の生死、哲学的なものを含めてだが、を見てしまうという。そう思えば18歳、23歳などとりたてて若いとも言えない。

昔の人はよく自決したし、弱いいじめられっ子も自損するが、現代人の中には、誰でも良いから沢山人を殺して死刑にされて死にたかったなどと、自損でなく多損に走り捕まる者が後を絶たないのは何故か。他損のエネルギーは自損に比べ強大だと思うのに、これも不可思議なことである。別途じっくり考えて見る価値があるように思う。
自分は死ぬのだからと、核のボタンを押されたりしたらたまらない。

なお、藤村操の「巌頭の感」に関連して、ウキペディアには、彼の失恋の相手は菊池大麓の長女多美子だったとある。
どういうことなのか分からないが、あまりどちらが本当かなどと知りたいという意欲もわかない。
ちなみに、菊池 大麓は1855年(安政2年)生まれ で1917年(大正6年)没。明治・大正期の数学者、政治家である。長女・多美子は、有名な天皇機関説の憲法学者の美濃部達吉と結婚。美濃部亮吉(1984年、昭和59年没)はその息子である。
都知事になる前、自分は美濃部亮吉の経済学講義を聞いたことがあるはずだが、50年前のことで茫々としていて、内容など全く覚えていない。
主題と無関係な自分のことを記したのは、藤村操が投身自殺して110年、これらの出来事と自分の時間的な位置関係を確認したまでのこと。




  


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