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絵に描いたリンゴはなぜ本物よりいいんだろう? [絵]

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司馬遼太郎の水彩画には前から注目していた。このブログでも書いたことがある。
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2010-11-15

安野光雅の近著「絵のある自伝」(文藝春秋 2012年)に次の文章を見つけた。
「また司馬さんの描く絵は、とても味わい深いもので、たとえば「アメリカ素描」(新潮社)の表紙などを見ると、わたしは気後れがするのである。
司馬さんは「絵に描いたリンゴと本物のリンゴとでは、どうして絵のほうがいいんだろう」と難題を持ちかける。いつか明快に答えようと思いながら、今日に至っている」
本職の画家が気後れするというのは相当なものだが、ここでは、司馬遼太郎の絵のことではなく、後段の「難題」のことを書きたい。
司馬遼太郎は座談、雑談の名手で作家の周りにはそれを愉しみにして、いつも人が集まったという。これもその雑談の中で出た話だそうなので、気楽な問いかけだったのであろう。
安野氏は、即答出来なかったようだが、杉本秀太郎「洛中生息」(筑摩書房)にそれの答えらしきものがあるけれど、長くなるから引用しない、とあるのであとで読んで見たいと思っている。
以下はまだそれを読む前に自分が思ったことである。

絵に描いたリンゴは嘘だから実物より良いのである。あるいはウソを含んでいるからと言った方が、より正しいのかもしれないが。嘘は人に楽しい夢を見させる効能があるらしい。
小説を例にすればわかりやすい。
小説も虚実ないまぜだから面白いのだ。司馬遼太郎でいえば、歴史小説は死んでしまった人が主人公だからどんな嘘でも自由に想像力で書ける。また、モデルに迷惑もかけることもない。だから自分は、現代小説でなく、歴史小説を書くのだと言っていたのをどこかで読んだように記憶している。
安野氏に問いかける時、司馬遼太郎は自分の答えを持っていながら、にこにこ顔で問いかけたのではないかという気さえする。
現実を題材にして、ウソをまぶし真実と違ったものを作り上げ、読む者に快感を覚えさせるのが小説である。快感を引き起こすホルモンか脳内分泌物かをたくさん出さしめるのが傑作小説だ。つまり想像力によって、現実より素晴らしい世界を創造して読者に提供するのが文学というもの。

真実や現実は多くの場合、醜く辛い。もともと人は、この真実の醜悪なもの(ストレス)から目を逸らして身を守りたいという本能のようなものがある。
つまり不快を避けて、快感をもたらすホルモンか脳内分泌物かを出すのだ。そして個体維持をはかるのである。個体維持の目的は、むろん種族保存のためだ。
小説や絵画美術はこのことが基底にある。

絵も現実を写生しようとするが、写真と違い無意識のうちに美化して描いている。巧まずして、嘘を描き込んでいる。一方それを見る人も、無意識のうちにさらに美化して見る。だから現実のリンゴより絵に描いたリンゴの方が良い、と感じるのである。これをなさしめるのは現実回避の本能(らしきもの)である。美術という芸術を成立させているのはこれに他ならない。
現実のリンゴはすっぱいかもしれない。あるいは虫が果肉を食べていたり、一部腐っているかもしれない。だが、絵のリンゴはいつも甘く美しい。柿でも同じだ。渋柿さえ絵になれば甘柿になる。
絵に描いた餅は空腹は満たさないが、無聊をいっときは慰める。

実際にはやってみると分かるが、リンゴを絵にするのはそう易しいことではない。写実的にせよ、デフォルメして描くにせよ、良いりんごを描こうとすれば、素人でも千や二千個以上練習のために描かねばならないと脅かされるくらいだ。もちろんテクニックもそれなりに必要だ。
それでもなお、素人、子どもであっても描いたリンゴの絵は、実物より味があることに変わりはない。むろん、安野画伯を含め画家の描いた絵はそれぞれに素晴らしい。

それなら、ムンクの叫びや怖い幽霊の絵などはどうかという問いもあろう。人間の精神、心象を表現する絵は、現実とどう関わっていると考えるのか。
司馬遼太郎の問いは、ごく原理的な、原初的な問いである。クレーの抽象画やピカソの絵、ダリなどシュールリアリズムのような極端なものは、もっと突っ込んだ特別な考察と論理的な説明が必要かもしれぬ。ポップアートなども然りだ。今の自分の手にあまる。しかし通底するものはあるに違いない。

音楽の良さも理由は絵や小説と同じである。
太古から火山の爆発音、雷鳴、嵐の風雨の音、恐竜の威嚇音や狼の遠吠えなど厳しい現実の自然の音は人類を長きにわたり苦しめてきた。
恐ろしい現実音や雑音、騒音は聴きたくない。美しい音楽を体(細胞)が、心(精神)が求めるのである。
音楽の三要素である旋律(メロディー)、和音(ハーモニー)、拍子(リズム)は、耳に心地よいが、三つをそなえたものなぞ現実にはない。人間が自分の快感のために作り出したのである。多分鳥の鳴き声、川のせせらぎや雨の音などがヒントになったのであろう。
音楽も現実にはないもの、つまりウソだから現実の音より良いのだ。

絵に描いたリンゴはなぜ本物より良いか、という問いの答えを書いてみたが、こんなことは誰でも最初に考えるだろう。すぐに、しかしそうではないのじゃないか、と否定されそうで確たる自信はない。

先に掲げた杉本秀太郎「洛中生息正・続」を読んだが、それらしきものが見つからなかった。急いだので斜め読みになり、見落としたかもしれない。
ただ一カ所だけ似た文章を見つけた。(「洛中生息・正」231ページ 「心象風景 紋章」)
「この運河にうかぶものの影は、その影を投げた実体よりもなぜ美しいのか。色彩はもっと活きいきとしているが、しかももっと完全な調和にとけこんでいる。遠い森が、やわらかな潤む色に内からひろがるさま、山の輪郭がそれを遮るさま、これは真実以上である。しかもゆがんでいる(シェリー「詩と恋愛」阿部知二訳)」

これが安野画伯の言われる、「答えらしきもの」ではなさそうだが、問いは少し似ている。答えもないが最後の「しかもゆがんでいる」が気に入った。

なお、パーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley, 1792年- 1822年)は、イギリスのロマン派詩人。有名な「フランケンシュタイン」の作者メアリー・シェリーは彼の妻である。
メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリー(Mary Wollstonecraft Godwin Shelley、1797年 - 1851年)は、イギリスの小説家。詩人も知らなかったが、夫人も知らなかった。フランケンシュタインは知っていたのに!。不勉強・蒙昧の謗りを免れない。








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erieri

wakizaka様初めまして。
エミール・ノルデの水彩を検索していてこちらのブログを拝見し、絵のカテゴリーだけを見てもとても勉強になることばかりで、嬉しいです。長沢節氏の水彩画のこととか今まで全く知らずにいたので、一部ノートさせていただきました。日本一時帰国の折是非購入したいです。

フランスで文学者で絵の達人といえばビクトル・ユーゴーではないでしょうか。実際に記念館で彼の絵も見ましたが墨絵のようなモノクロームながら、名だたる絵描きも逃げ出すのではと思うほどの、個性と感覚と技術がマッチして素晴らしいもので芸術です。あとジョルジュ・サンドの水彩画も美しいです。

御挨拶のつもりが長々とすみません。
私も此方(フランス、パリ)に来て50歳位から絵を描いています。
日々勉強ですが怠け心に勝つのが大変です。。。
今後ともブログを拝見させてください。宜しくお願いします。
by erieri (2013-03-07 20:24) 

wakizaka

erieriさま
はじめまして。コメントありがとうございました。パリからとは驚きました。
パリで画を描かれていられるとのこと楽しいでしょうね。拝見したいものです。
ビクトル ユーゴーの絵もジョルジュサンドの水彩画も知りませんでした。教えて頂き感謝申しあげます。これから少し勉強したいと思います。気ままなひとりよがりのブログで恥ずかしいですが、今後ともよろしくお願いします。
by wakizaka (2013-03-08 15:59) 

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