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ミレーとミレイの水彩画 [絵]


「晩鐘The Angelus1859」、「落穂拾い The Gleaners1857」「種を播く人The Sower1850」などで有名なジャン=フランソワ・ミレー Jean-Francois Millet (1814-1875 61歳で没)は、フランス 写実主義 の農民画家 。

油彩画家であるが、晩年には、力仕事である油彩が手に負えなくなったのか、芸術的な心境の進化からか、印象派に近いパステルや水彩画も制作した。パステル画に惹かれるものが幾つかあるが、水彩画は油彩のための下絵が主で、ペンを使ったものが多い。人は知らず、自分にはミレイより心に迫るような水彩の作品は、少ないように見える。しかし、これは自分の鑑賞力のなさであることがはっきりする。その説明は後になる。
パステル画は分かりやすい。1枚だけ挙げる。
「The Women at the Well 」(1866 Black Chalk and Pastel on paper laid down on canvas)

ミレーの水彩画は、油彩に比べ点数は圧倒的に少ない。
「The Return from the Field」(Date unknown .Watercolor over black chalk on laid paper)これも「Peasant with Wheelbarrow 1848-52」という似た油彩があるのでその習作ではないかと思われるが、日付不詳で確認出来ない。
Laid paper 簀の目紙というのはどんな紙なのだろうか。

また、「In The Garden 」(1862)など、おだやかな雰囲気の水彩もある。

油彩のための水彩スケッチがあったので並べて見た。
「Manor farm Cousin in Greville 」(1854 水彩 Sketch and Study)
「Manor farm Cousin in Greville 」(1855 油彩)、manorは荘園のこと。
二つの絵は基本的な構図は変わらない。が、油彩には近景、中景にスケッチになかった農民と牛が付け加えられる。また、右手にはあひるの群が描かれ、その結果いかにも農村風景になる。ミレーの絵の描き方の一例、その一端が分かるような気がして面白い。

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サー・ジョン・エヴァレット・ミレーSir John Everett Millais(1829年- 1896年 67歳で没)は、イングランド南部、ササンプトン出身。イギリスの画家。冒頭のミレーと間違い易いので、日本ではミレイと表記されることが多い。
フランスのミレーとほぼ同時代の画家であるが、ラファエル前派の代表の一員に数えられる。やはり、油彩画家ではあるが水彩画にも佳品が多く、アマチュアの自分にはこちらの方に惹かれるものが多い。

ラファエル前派(ラファエルぜんぱ Pre-Raphaelite Brotherhood)は、ヴィクトリア朝のイギリスで活動した美術家・批評家から成るグループである。ミレイとダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとウィリアム・ホルマン・ハントの3人が1948年に結成した。名前の由来は、彼らがラファエロ以前の芸術、すなわち中世や初期ルネサンスの芸術を範としたことによる。
19世紀後半の西洋美術において、印象派とならぶ一大運動であった象徴主義美術の先駆と考えられている。
同時代の思想家であり美術批評家であったジョン・ラスキン(John Ruskin,1819-1900)がラファエル前派に思想的な面で影響を与えたことはよく知られている。

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ミレイの代表作は、やはり「オフィーリアOphelia 」(1852 Oil on canvas )だろう。
ヴィクトリア朝の最高傑作と名高いこの作品は、シェイクスピアの「ハムレット」のヒロインを題材にしたものである。川の流れに仰向けに浮かぶ少女のモデルは、後に画友ロセッティの妻となるエリザベス・シダルという。
夏目漱石の小説「草枕」にオフィーリアの絵に、言及した箇所が幾つかあることでもよく知られている。
「余はまた写生帖をあける。この景色は画にもなる、詩にもなる。心のうちに花嫁の姿を浮べて、当時の様を想像して見てしたり顔に、
花の頃を越えてかしこし馬に嫁
と書きつける。不思議な事には衣装も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影が忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。」

フランスの画家ポール・ドラローシュ(Paul Delaroche1797 - 1856)の晩年の作品に「若き殉教者の娘(殉教した娘)」 (La Jeune Martyre 1853 油彩ルーヴル美術館)1855年 がある。 ミレイのこの絵に触発されて描いたのではと言われる。確かにこの二枚は似ている。
ポール・ドラローシュと言えば、同じく漱石の「倫敦塔」に出てくる「レディー・ジェーン・グレイの処刑 The Execution of Lady Jane Grey」( 1833)の作者である。
「二王子幽閉の場と、ジェーン所刑の場については有名なるドラロッシの絵画がすくなからず余の想像を助けている事を一言していささか感謝の意を表する」(漱石「倫敦塔」)

ミレイには「塔の中の王子たちPrinces In The Tower 」(1878 Oil on canvas)があるが、ドラ・ローシュにも「ロンドン塔の若き王と王子The Children of Edward 」(1831 )があり、二人は同じような画題を描いたのである。
そして二人の絵はともに漱石の創作の触媒となった。

漱石が出てきて油彩の名作の方の話がつい長くなったが、閑話休題。

ミレイの水彩画である。
以前から気になっていた絵で、一番のお気に入りの水彩画がある。
「Portrait of Effie Luskin ,later Lady Millais 」(1853 Watercolor on paper )
ラファエル前派の思想的主柱のラスキンの妻エッフィーと画家ミレイは恋に落ち、後に結婚するが当時一大スキャンダルとなる。画家は庇護を受けていたヴィクトリア女王の機嫌を、妻と共に損ねてしまい疎まれる。
二人が結婚する2年前に、そのエッフィの肖像をミレイが水彩で描いたのがこの絵である。

ほかに、いかにもイギリス水彩画らしい3枚もそれぞれ味がある。
「The Wrestlers 」( 1840-41 Watercolor on paper )
「Christmas Story Telling, A Winter's Tale 」(1862 Watercolor over pencil on paper )

「A Christmas card written with pictograms 」 (Date unknown . Pen and ink and watercolor on paper )pictogramsは絵文字のこと。

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さて、水彩の勉強になる絵はないかと画集を見ていると、次の2枚が見つかった。
「A Wife 」(Date unknown 、pencil on paper)
「A Wife 」(Date unknown 、 Watercolor on paper )
1枚は鉛筆画。着色していない。もう一枚は水彩で着色したもの。一枚の絵を書くために同じものを鉛筆で描いたのであろう。さらに、この水彩をもとに油彩を描いたのではないかと探したが、見つからなかった。

また、例によって水彩と油彩と同じ絵を探すと、二つあった。ひとつは両方とも1852年に描いたもの。
「ユグノー教徒The Huguenot 」(1852 Watercolour ,pen ,ink and gouache on paper)
油彩の方は題名が長い。
「聖バルトロマイの祝日のユグノー教徒、ローマン・カトリック教徒を装って身を守ることを拒絶するユグノー教徒 A Huguenot, on St. Bartholomew's Day, Refusing to Shield Himself from Danger by Wearing the Roman Catholic Badge 」(1852 Oil on canvas)
ユグノー(Huguenot)は16世紀から17世紀における近世フランスにおける改革派教会(カルヴァン主義)。守旧派から教徒への迫害が続いた。だが、絵から題名を想起するのは至難。むしろ愛の別れといった風情。

もう一つは、「The Order of Release 」(Date unknown 、Watercolour on paper)と
「The Order of Release 」( 1852-1853 Oil on canvas )
題名も同じだが、放免令とか釈放令と訳すのか。
1688年の名誉革命で廃位したジェームズ2世の支持者であるジャコバイトはイギリスに捕らわれていたが、釈放になった。
ちなみに、ジャコバイトとはジェームズ2世とその正嫡(男系子孫)をイングランド王に復位(スチアート王朝復活)させるべきとして、ジェームズを熱心に支持した人たちのこと。彼らのとった政治・軍事的行動はジャコバイト運動とよばれる。1745年の反乱で敗れ、半世紀以上にわたる運動は終息した。1746年に放免令が出された。それを題材にしたもの。
モデルはジョン・ラスキンの妻(のちに画家の妻)エフィーと言われている。

これらの絵は水彩と油彩と全く同じものを描いているが、どうしてそんなことをしたのだろうか。一番考えられるのは、油彩が最終目的で水彩はそのための「study、習作」ということ。
genre(ジャンル)としては「sketch and study」。水彩自体が目的の時はgenre(ジャンル)は「painting 」というらしいが、不勉強でこのあたりは半知半解で正確性を欠く。
しかし、習作にしては大きさもほぼ同じで、絵自体が全く同じというのは理解し難いし、水彩の出来が良すぎていまひとつ確信が持てない。
下絵というものはそういうものだったのだろうか。
いずれにしても、水彩は習作と思えないくらい「水彩らしさ」を発揮していて、迫力もあって見飽きない出来ばえだ。今となっては、油彩の方がむしろ「記録写真風」に見えてしまうものもある。

さて、上述のように画家夫妻は、不倫の末に結婚としてヴィクトリア女王の機嫌を損ねて以降、絵が売れなくなり困窮する。その間、妻と8人の子の生活のため売れる絵も描かねばならぬ。大衆にもわかりやすく、手元におきたいような絵もあえて描いたであろう。しかし、1860年頃には再び名声を取り戻し、晩年にヴィクトリア女王が妻エッフィーとの謁見も許した話は美談として残る。

自分がミレイの方がミレーより分かりやすいと思った理由は、こんなところにもあったかもしれないと思うと、我が美術鑑賞眼はあてにならぬ。


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