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カンディンスキーの水彩画・抽象水彩画1 [絵]



9年前、水彩画の教室に通い始めた時に、きっと水彩画で抽象画を描いたら面白いだろうなと思っていた。隣で描いていたベテランの生徒、かなりお年を召されたお母さん風であったが、試し描きを小さな白い紙に描いて色を確認しながら描いていた。彼女の本物の絵も素晴らしかったが、失礼ながら試しがきの方も綺麗だった。勿論色を見るだけの筆のタッチだけだから、具体的な形はない。自分にはまるで抽象絵画に見えた。
最近になって水彩は最初に白の紙の上に塗ったのが、一番水彩らしい良い色と教わって、あらためて思い出して納得している。
赤ん坊もチンパンジーも象も筆と絵具があれば、絵(らしきもの)を描く。まずは塗りたくるだろうから具象画でなく抽象画的なものだろう。
周知のように、絵画史は アルタミアの洞窟画から始まるが、これは獲物となる動物などで具象だ。

抽象画も不勉強にして詳しくないが、ロシア出身の画家ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky 1866年- 1944年)、オランダ出身のピエト・モンドリアンPiet Mondrian(1872年 - 1944年72歳で没)、カジミール・マレーヴィチKasimir Malevich (1878年- 1935年57歳で没)の3人がその創始者と一般的に言われているそうだ。
彼らは、ほぼ同時代人で抽象絵画の先駆者として位置づけられている。となれば抽象画の歴史というのは思っているほどには古くはない。たかだか一世紀であろう。

何故抽象画が生まれ、これから先どう進化するのか。きっと面白いテーマが沢山あるのだろうが、自分の場合は単純ながら、「彼等は、抽象画を水彩でも描いたのだろうか」というのが関心事だ。抽象画は、想像するに油彩中心であろうから。
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カンジンスキーは、モスクワに生まれ、子供時代をオデッサで過ごした。1886年から1892年まで、モスクワ大学で法律と政治経済を学んだ。ドイツ及びフランスでも活躍し、のちに両国の国籍を取得した。多くの著作を残しており、美術理論家としても著名である。
1909年には新ミュンヘン美術家協会会長となるが、1911年にはフランツ・マルクとともに脱退して「青騎士」(デア・ブラウエ・ライター)を結成している。
青騎士グループは、印象派を脱した当時の表現主義画家中ではのゆるい結社とされる。

青騎士を結成する前に描いた「The Blue Rider 」(1903 Oil)を見れば、カンディンスキーといえど、具象画から始まることが分る。つまり、具象画の追求の過程で抽象画に到達する。画風を革新するなかで創出するのだ。よって前衛と呼ばれる所以である。いきなり抽象画から始めるひとは多分無いだろう。具象に 戻る抽象画家はいそうだが。

カンジンスキーは、1910年に最初の抽象画を手掛け、1911年に 風景を色彩的にとらえた「インプレッション」シリーズを描き、絵画表現の歴史の新たな一歩を踏み出した。
第一次世界大戦の始まる1914年頃までに、無意識の表現「インプロヴィゼーション」シリーズ、自己の内面を作品に表現する「コンポジション」シリーズを次々と発表した。「コンポジション」シリーズは最初のドイツ滞在期に制作され彼の代表作となる。この時期が具象から抽象、非対称へと変化していく時期ということになる。時代とすれば大雑把に第一次世界大戦前後。
「Study for Composition Ⅱ 」(1910 Oil)まだ具象が残っているようにも見えるが、強い色で画面一杯に描かれ、はや熱い抽象画と後にいわれる片鱗が見える。

ありました。同じ1910年に描かれた水彩の抽象画。
「Untitled (First Abstract Watercolor )」(1910 pencil,watercolor and ink on paper )
「無題」ながら「最初のアブストラクト水彩」というのは誰がつけたのか。油彩と比べ無地の背景が広くゆったりしていて、鑑賞者に良い印象を与える。

画家は、1915年から1921年にかけて第一次大戦(大戦終結は1918年)により、生地ロシアにもどる。
この頃にも、水彩でも抽象画を描いている。
「Untitled 」(1915 Watercolor )細い線が明るく踊りまるで日本画のよう。

「To The Unknown Voice 」(1916 Watercolor and ink on paper)
「Study for "Circles on Black" 」(1921 Watercolor )2枚には制作に4,5年の間隔があるけれど、油彩と比べ、水彩の抽象画の迫力は勝るとも劣らない。

「Blue Segment 」(1921 oil)カンジンスキーらしい極彩色(ごくさいしき)の絵。自分には鳥に見える。まるでロールシャッハだが。

1922年から34年までドイツで活動する。ドイツバウハウスの教授として、パウル・クレーとともに教鞭とっている。
この時期「Crossing 」(1928 Watercolor )と題する水彩抽象画があるが、直線を使っていて、だいぶ趣が異なる。

パウル・クレーは、カンジンスキーと交流もあり、(公認メンバーでは無かったにしても、青騎士に親近感があったされる)彼の絵も我々から見ると抽象画そのものというものもあるが、なぜ抽象画家の祖ではないのか。この辺は専門家の領域か。

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カンジンスキーは、1933年、ベルリンのバウハウスが、ナチスによって閉鎖されたので、1934年パリに移る。78歳で亡くなる1944年までパリで暮らした。
「Gloomy Situation 」(1933 Watercolor、gouache and pencil on paper)
「Surfaces Meeting」(1934 Watercolor )。2枚とも、なぜか熱さが冷めている印象。ゲッペルスによる頽廃芸術展は1937年。時代が確実に反映したであろう。

ナチス占領下のフランスでは、作品の展示を禁止されたり、彼について論じることを禁止されるなど、不遇のままパリ郊外で第二次世界大戦終結直前1944年亡くなった。
しかし、13年後、1967年に未亡人のニーナが、晩年の彼を支えた事でレジオンドヌール勲章を受け、完全に復権したという。
晩年の作品。
「Untitled 」( 1941 Gouache )
「Last Watercolour」 (1944)「最後の水彩画」?、どういう意味か。何やら船が客船のような、戦時だから軍艦のような。意味深ながら絵は明るい。
「Tempered Élan 」(1944 Oil )「緩和された意気込み」? 、没年1744年の作品だが、透明水彩やグヮッシュといわれても違和感がないくらいに、この3枚は近づいているようにも見える。絵の大きさもあり実際にはそんなことはないのだろうが。画像の絵は気をつけないと間違う。

間違いといえば、抽象画は素人には縦横、上下を間違いかねない。またタイトルも取り違いかねない。抽象画に限らず絵は、どう見ようと自由だが、プロからみたら失笑されるか、噴飯ものかもしれない。と思うと少し不学、不勉強が怖い気もする。クハバラ、クハバラ。

次回はピエト・モンドリアンの水彩画・抽象水彩画2

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