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岸田 劉生の水彩画 [絵]

岸田 劉生( りゅうせい 1891- 1929 )は、大正~昭和初期の洋画家。父親はジャーナリストで明治の傑人といわれた岸田吟香(ぎんこう 1833-1905)で、その第9子、4男。吟香58歳の時に東京銀座で生まれる。父は72歳で没したが、劉生は38歳で夭折した。

岸田劉生も大下藤次郎の技法書を見て絵を独習 するが、1908年白馬会洋画研究所に入り黒田清輝に学んだ。
劉生も萬鉄五郎と同じく、大下の水彩画入門書が絵を描く契機になっている。
若いながら岸田は、中川一政、、三岸好太郎、斉藤与里、椿貞雄などと、関係の深い画家が多かったから大下の影響はここでも裾野を広げたと言って良い。
1912年(明治45年)、高村光太郎・萬鉄五郎、木村荘八らとともにヒュウザン会を結成した。また、草土社でも中心となり、活躍する。
草土社展に出品された「切通しの写生(道路と土手と塀)」(1915 T4油彩)は、劉生の風景画の代表作の一つとして教科書で多くの人に知られる。

岸田劉生は、理論家で文筆家でもあった。
デューラーに影響され緻密な写実力を持つとともに、モナリザに傾倒し、70点以上の麗子像を描いた画家の言は、アマチュアにも非常に分かりやすく説得力がある。
例えば次の如くである。

婦人は美くしいものである。 だから婦人は画家にとつて何時の時代でもよき画材とされてゐる。古来からの名画の中には婦人を描いたものは甚だ多い、もし古今東西の美術の中から「婦人」を除いたら実に寂寥たるものであらう(中略)
古来、手を美くしく描き得る画家があればその画家は必ず偉れた美を知つてゐる画家であるといふ事が云ひ得る。手は人間の肢体の中でも最も線の交響の微妙な部分である。其処には無数の美くしい線が秘くされてある。力のある画家はその力その美を捕へる。「美術上の婦人」 (「日本の名随筆 23 画」作品社)

「想像と装飾の美」の中では、日本画を痛烈に貶してきめつける。
「要するに、結局は今日の日本画は殆ど凡て駄目、今日の日本画家の大半は西洋画にうつるべし、さもなければ通俗作家たれ。日本画は日本人の美の内容をもてる一つの技法としてのこり、装飾想像の内容を生かす道となり、そういう個性によりて今後永久に生かされるべし。以上。」(「岸田劉生随筆集」岩波文庫、岩波書店)

水彩画についてはこう言う。
「実際水彩には水彩の味がある。無論労作から来る、シンとした深い重い味はない、しかし、新鮮な自由な大胆な強い味等はすいさいはよき技法だ。感じを、しっかり掴んで、呑み込んで、つまり充分その美を理解し切ってきて、いきなりそれを表現する。この事が素画及水彩の秘訣だ。だから水彩や素画で本当の芸術魅力ある美術を作れるのは、中々の事なのである。これが出来れば〆たものである。対象(画因)の芸術的美がいきなりはっきりと解る
強く強く解るのでなければこの事は出来ない」
(「水彩素画個人展覧会に就いて其の他雑信」 白樺 1920.3)余計ながら、素画とは、デッサン、画因とはモティーフのことであろう。

「水画には水画としての、美をあらはす道がある、水画家はそれをつかめばいいのである」「私の水画具パレット」 (みづゑ1922.3)

極端な潔癖症であったが、皮肉にも旅先で尿毒症を悪化させ38歳の若さで没した。

水彩を主に油彩を含め代表作を何枚か。
麗子像、村娘など水彩と油彩が比較できるのも楽しい。

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「落合村ノ新緑」(1907 水彩)大下風。
「生活(たつき)」(1907 水彩)
「麗子像 」(1912年頃 木版画 )劉生といえば麗子像だが、これは初期のもの。
「画家自画像 」(1918. T7 水彩)劉生の絵には文字や数字劉のサインなどが書かれているのが多い。アルブレヒト・デューラーのAとDの独特なサイン(モノグラム)を想起させる。画家27歳の時のもの。後掲の1920年の水彩自画像とくらべ目が鋭い。
「麗子六歳之像」(1919 水彩)
「毛糸肩掛せる麗子肖像」(油彩)
「麗子微笑(青果持テル)」(1921 油彩) 代表作、重文。
「自画像」(1920 水彩)

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「村娘於松立像」(1921水彩)麗子像を描いていた頃、麗子の友達だったお松をたくさん描いているが、麗子像とは違った良さがある。特にこの水彩の赤が良い。
「村娘」(1921水彩)
「村娘の図」(1919 水彩・コンテ)
「村娘之図」(1919 水彩)
「麗子十六歳之像」(1929 油彩)1929年は没年。まさに遺作。
「麗子五歳之像 」(1918 油彩)
「道路と土手と塀(切通之写生)」(1915 油彩) 代表作。
「猫」ー題名、画材、制作年など不詳なれど猫好きには魅力的な絵。日本画か。岸田劉生は、日本画を貶したりしているが、晩年は「四季の花果図」(1924)など日本画も描いた。

ところで、先に引用した「日本の名随筆 23 画」作品社は、青空文庫で読むことが出来るが、随所に参考になることが記されている。例えば人物画の手については先に引用したが、次は目について。劉生の絵を見ながら読むと本当にそうだなと思う。
「生きものや人物画を描くに当つて眼は実に大切である。眼は心の窓といふ事があるが、画家に於ても、その事は本当である。眼でその画の活殺が極ると云つて過言でない程、この眼といふものは大切である。 人物画(及び動物画)にあつては眼を立派に描き得るといふ事は、とりもなほさず「形」以上のものを描き得るといふ事である」

また、別の箇所でこう言う。劉生の美的感覚が解って面白い。
「要するに、美の最も深い感じは、「静寂感」又は「無限感」にあるのだから、「力」といふ様な多少でも動的意義のあるものは最後の美の主的形式となるには応はしくない。これに反して、綺麗とか優美とか云ふ様なものは、静寂にずつと近い素質を持つてゐるので、最高の美感の形式としてはずつと適当なものであると云ひ得る」

岸田と知り合いフュウザン会、草土社結成に参加した木村荘八(1893-1953)に「岸田劉生の日本画」(「東京の風俗」冨山房百科文庫、冨山房)があって、岸田の日本画嫌いから、その変節?の経緯や岸田のばけもの好きなどが書かれていて面白い。少し長めの引用になるが。
「岸田は初めフューザン会の頃には日本画式を全然軽視して、殊に浮世絵は、歌麿など蛇蝎のやうに厭んでゐた。そして日本画式といふよりも広く東洋画式に対して、草土社の後期の頃、壺や林檎の静物や風景を一区切り描き上げて、麗子像の始まる頃から、頓に開眼関心するに至り、いはゞ大道から真向に入つたが、そこで仕事が燃焼して来るとスケールは見る見る絞るやうに狭く、深くなつて、初期浮世絵肉筆の鑑賞に至つて、止んだ。 ぼくの最近に見た「化けものづくし」の岸田について少々余事を述べておかう(中略)注 「頓に」は急にとか一途にとかいう意味があるがその両方であろう)
その「ばけものづくし」を見た、その一つ前に見た岸田の日本画が、これはまた、初期に属する作品の、猫を描いた白描で、辛酉晩春劉生写と署名ががある。辛酉は大正十年である。(中略)注 大正10年は1921年)
岸田劉生の「劉」字は―元より吟香先生の撰―「まさかり」又は「ころす」の意で、「生」字と併せて、「活殺」の意味であつたこと、間違ひない」

ここに出て来る猫は上掲の猫のことかどうか分からない。署名が見当たらないから多分違うであろう。
また、劉生には「ばけものばなし」という愉快な随筆がある。「岸田劉生随筆集」(岩波文庫、岩波書店)絵入りだからゲゲゲの鬼太郎の参考になっているかも知れない。

劉生といえば、「麗子像」と「切り通し」しか知らなかった自分が、初めて知ることが多く恥ずかしくなった。「劉生ー活殺」もである。この辺で筆を置いた方が良さそう。

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