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難波田龍起・史男の水彩画(2/2終) [絵]

難波田史男(なんばたふみお:1941 昭和16-1974 昭和49 )は繊細なタッチで幻想的な心象風景を描いた抽象画家。同じ抽象画家の難波田龍起の次男として東京都世田谷区に生まれる。画家を志し、1960年文化学院美術学科に籍を置くが、美術学校特有の授業に馴染めず62年に中退、以降、独自の画法で制作に取り組む。
型にはまらない自由な生き方は、一方で若者の孤独を増幅させ、自身の目を内面へと向かわせたとするのが一般的な見方である。

自分と同じ60年代から70年代初頭に青春時代を過ごした史男は、水彩とインクで繊細なタッチの幻想的な心象風景を描いた。
今、当時を振り返れば、アルバイトに追われながらの学生生活でいっぱいだった自分とは比較にならない、好きなことができた彼の環境が羨ましいような気がする。

1965早稲田大美術専攻科入学、心の中に生まれてくる歓びや苦悩をありのままに描き出し、今も多くの人の共感を呼んでファンが多勢いる。
1974(昭和49)年、九州旅行の帰途、瀬戸内海のフェリーから転落 して不慮の事故死 を遂げる。33歳の若さであったが、父を凌いだかも知れぬ特異な才能を思うと長生きすれば、どんな素晴らしい絵を描いたかと惜しんで余りある。

史男には殆ど油彩がなく水彩ばかりである。中でも圧倒的にインクを使った水彩画が多い。水彩のにじみ、ときにスパッタリング、インクのデリケートな線描は画家が見つめた非現実 、内面的空想の世界の表現に適していたのであろう。

若い画家は、幾つかの言葉を残しているので、絵を描く姿勢や考え方を推し量ることが出来る。残念ながら水彩そのものについて直接言及したものは見つからなかったが。

「世界が、私から逃げ出して行くという意識が、私をして、絵を描かしめる。逃げ出して行く世界を追いかけながら私は描くのだ」
「ぼくらはこの世界にしか生きられないのだ。僕はもはや孤独とか寂しいとか言わない。僕はこの世界を賛美して死にたい。それは色彩による、ただ色彩のみが美しい」
「私が点を打つと私の意識は上下左右に動き出します。音楽の繊細な旋律の中を変化してゆく音のような形象をよそおいながら、私は線の旅に出ます」




「終着駅は宇宙ステーション」( 1963 水彩 インク テンペラ)個人蔵。この年、自分は学校を卒業して会社に就職した。こんな絵を描いていた人もいたんだ。
「無題 」(1967 水彩 インク)20.8×31.7cm。パウルクレー風。
「無題 」(1963 水彩 インク) 2枚組?。
「自己とのたたかいの日々 N-14 」(1961 水彩 インク) 左下人。悩める文化学院の二十歳頃か。没後に両親によって命名された題名という。5点の作品シリーズのうちの一枚。
「無題 」(1970 水彩 インク) 右下は花?
「無題 」(1970 水彩 インク) 左 掃除機?右に女性。珍しく具象的な絵。
「湖上 」晩年の作品という。フェリーの事故を暗示しているようで怖い。
「巨人と遊ぶ子供たち」( 1961 )巨人というより火星人?絵の具が乾いてから描いたか。
「無題 」(1971 水彩インク) 33. 0 x 48. 0 cm黄色の輪?色の面で描かれ線のない絵。
「海辺の散歩 」晩年の作品。これも海の事故を考えると怖い。
「無題(部分 )」(1963 s38 水彩 インク)77.0 ×109.0 cm と珍しく大きな絵。
インクはどんなペンを使ったのだろうか。よく見れば、微妙な太さ細さ加減が難しそう。
「無題 」(1954 インク) 彩色前か?これを見たらふと、画家はインクを描いてから彩色したのか、それとも彩色してからインクをにじませたのか、あるいは両方か気になり出した。
ドリッピングやスパッタリングも多用しているが、線は色とのハーモニーもあるだろうからどちらもありだったのだろう。



「祭壇 」(1971 水彩インク)70年代の絵は、線が少なくなっているようである。しかも線が滲んでいる。
「無題 」(1972水彩インク)打ち上げロケットのよう。結構強い色を使っている。全体に暗い。
「無題 」(1973 水彩インク )右にあるのは太陽?真ん中の赤い円も気になる。
「夕空と舟」(1972水彩インク )亡くなる2年前の作品。船を見ると、どうしてもフェリーを連想してしまう。
「無題」(1969 水彩インク )立像?。茶系のモノトーン。
「白い太陽」(1973 水彩インク )上部にあるのが太陽か。人や船らしきものも。
「太陽の讃歌」(1967 水彩 インク) 原色が鮮やか。白が強烈で繊細というより激しい絵。
「ニコライ堂」(1960 油彩 段ボール)若い時(19歳)の油彩画。

我が国における抽象画の歴史も不勉強で知らない。またもとより抽象画の見方も分かっていないが、難波田親子の絵はアマチュアには分かり易いような気がする。しかも水彩という観点から見ると、より親しみが湧いて少し分かったような錯覚におちいる。

余談ながら、難波田城(なんばたじょう)は、埼玉県富士見市南畑(なんばた)にあった城郭。今城址公園であるが、鎌倉時代の武将難波田高範の居城。難波田親子はその末裔か。富山市に難波田親子の美術館があるというが、不勉強でそのいわれも知らない。

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