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岸田秀再読 その22「幻想の未来」1985 [本]

 

岸田秀 幻想の未来 河出書房新社 1985

 

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 先日読んだ八木誠一氏との対談「自我の行方」の方が先(1982年)に刊行され、本書はのちに上梓された。「文藝」(1983.9〜84.8)に「唯幻論」のタイトルで掲載されたものをまとめたという。「自我の行方」巻末の往復書簡に登場する。「自我の行方」の前に読んだ方が良かったかもしれない。(とき既に遅しだが。)

 

 フロイトに同じ題名の著書があるそう。その「幻想の未来」における「幻想」とはキリスト教のことで、その未来はいずれ滅びる、キリスト教は迷信というのが論旨とのこと。

一方で、岸田氏の本著「幻想の未来」における「幻想」は自我のことである。強い自我を持つべしは病い、対人恐怖症などを論じ自我の未来(行方)を考察している。

 

 浅学の老人には、かなり難解な本である。例によってメモしつつ理解しようとするが、耄碌寸前である身には覚束無い。長い引用ばかりでまことに気が引けるが、後からも何度も読み直したいので、乞うご寛恕。

 

 §対人恐怖と対神恐怖

「日本人はその自我の安定を他の人たちに支えられて保っているがゆえに、対人恐怖が強いのである。自我の安定が、人に自分がどう思われるかと言うことにかかっていれば、人は恐ろしくないわけがない。(中略)日本人が他の人々を恐れるのと同じ意味で、欧米人は神を恐れる。神を恐れることを対人恐怖と言う言葉にならって、仮に耐神恐怖と呼ぶとすれば、日本人が昔から対人恐怖であるのと同じく欧米人は昔から耐神恐怖である。」p10

「中国は対天恐怖かも。日本人は欧米人の対神恐怖を強い自我と見たのである。自我の強弱の相対性を見ず実体的に捉えてしまった。そして近代的自我の確立を目指したのが明治維新後の和魂洋才、脱亜入欧の日本であり、文化人の代表が漱石。「自己本位」と「則天去私」の間で苦悩した。」

 

「つまり、日本人は、日本人の眼に映ったところの架空の欧米人、すなわち神に対しても、他の人たちに対しても、その他自分以外のいかなる存在に対しても「不合理な」恐怖を持たない、言い換えればどのような支えも必要とせず、それ自体で存立する自我を持つ自主独立の主体的個人になろうとしたわけである。」

 

 →その結果がどうなったか。国レベルでは、明治維新、欧米の殖民地化を免れ、日清、日露戦争を経て昭和の敗戦に至る。

 

 §引き裂かれた人間

 ・自己放棄衝動=没我、快感、安心感、愛、信頼、尊敬などポジティブな感情。幻想の母親(全知全能)に依存。拡大衝動より先に生まれる衝動。

 ・自己拡大衝動=我執 自尊心、自己主張、支配欲など。かつての全知全能を実現したいのだから退行現象でもある。恐怖と屈辱感に駆り立てられた衝動。

 

 人は、二つの基本的衝動の間に引き裂かれる。フロイトの「山あらしのディレンマ」。引き裂かれたままで生きていられない。決定的に解決は無理なので文化で誤魔化す。誤魔化し方は文化により異なる。

 欧米は自己放棄衝動のすべてを神に向け、神の回路を介して再び人間に取り戻す。自己放棄衝動を神に預けてしまうと他の人と友好関係を結べず自我を張り合いいがみ合い殺しあうほかない。一神教はこれを打開する巧妙な策だ。神に預けた自己放棄衝動を神の回路を介して再び人間に取り戻すのである。一神教同志でしかこれは出来ない。

 一方、日本では、日本文化は自己放棄衝動と自己拡大運動との解決しがたい葛藤を、欧米文化のように、それぞれ別の対象に振り分けることによってごまかすということをせず、直接的な人間関係の中で表現するという線は守りながら、特にタテマエとホンネを使い分けると言う形でごまかしてきた文化である。

 

 欧米人には①タテマエホンネの使い分けは不誠実、偽善と見える。②甘えは幼児的に見える。③暗黙の配慮、遠慮の態度は卑屈さに見える。

 

 →自己放棄衝動と自己拡大衝動に引き裂かれた人間は、文化で誤魔化さないと生きられないが、この文化が幻想だから厄介である。

 

 §「甘え」の弁明

「日本文化は、欧米文化においては幼い時に厳しく禁圧され、神の方へと逸らされる自己放棄衝動を直接的な人間関係の中に温存して甘えとして形づくり、人間と人間とのつながりの基本的パターンヘと練り上げ、洗練し、昇華させた文化であって(中略)日本文化のあらゆる面が甘えを中心として構造化されている。」

「要するに、日本文化か、欧米文化かの問題は、人間と人間とのつながりの根拠として、母子関係という幻想を信じるか、神という幻想を信じるかの問題である。どちらも幻想なのだから、まさに文化の究極の根底は、「とにかくこっちを信じる」ということでしかないのである。」

 

 →甘えをなくすためには日本人の人格構造を変える、日本人の根拠を神やその他普遍的原理に求める、相対主義世俗主義をやめるなど文化体系を変えねばならないが、欧米の文化を変えられないのと同じくそれは無理というもの。両文化の中間もあり得ないと言うのが岸田氏の持論。なぜなら文化は幻想だから。それはその通りだけど。やるせない。

 

 §「卑屈さ」の研究

「岩川隆(1933〜ノンフィクション作家)は、要するに近代化によって日本人としての伝統的な倫理観や感性を否定し、この日本という風土自然の中に基盤を持たない欧米式の道徳観や、あるいは逆に、同じくそういう基盤を持たない観念的な愛国心を強制したことがミヤジマ・ミノルのような人物を生んだと考えているように思われるが、岩川の見方は私が本書で述べていることと基本的に一致していると思う。(中略)このような日本兵の「卑屈さ」は彼らだけに特有の事ではなく末期の幕府、初期の明治政府の欧米諸国に対するそれ、敗戦後の占領軍に対するそれ(同じ敗戦国であったドイツにおいては見られなかったような)と同じ根から出ており、この根はまだ無くなっていない。言ってみればこの「卑屈」な日本兵の捕虜たちは、アメリカを神とする日本の戦後民主主義の予兆、走りであった。」p82

 

 →ミヤジマ某は米軍の爆撃機に乗り込んで爆撃地点を支持した日本兵の捕虜。われわれ近代人の一人一人の中にミヤジマ・ミノルが住んでいることを忘れまいと岸田氏は言う。

 内なるヒトラー、内なるミヤジマとは確かに怖い指摘である。

 また、卑屈か忠誠かは観点の問題で、対神恐怖の欧米人の神への態度は卑屈に見え、日本人の対人関係も欧米人から見れば卑屈に見えることもある。首尾一貫した忠誠の対象(企業など擬似共同体も)がなければ個人は卑屈にもなる。場当たり的に一時凌ぎで自我を守ろうとするからである。近代的自我は急拵えで不安定、不確実だったのだからというのが岸田氏の言いたいことだ。

 

 §ふたたび自我の問題

「自我はつくり物の幻想であって、なんら実体的根拠のあるものではなく、自分の外に存在する(もちろん幻想として)何らかの存在(神、理念、世間等)に支えられる必要があること、かつ、自我は自己放棄衝動と自己拡大衝動とに引き裂かれている。」

 

 ・自我=他者、過去、死、幻想 

伝統とか常識とかの既成の何らかの共同幻想、すなわち過去において形成されて伝わってきているものにもとづいており過去が自我を形づくる。自我とは言わば死んだ過去である。自我は固定した秩序。

 ・エス=自分、現在、生、現実 

エスとは、当人の生命が存在全体の中の、自我から排除されたもの、すなわち当人の存在そのものでありながら、当人がこれは自分ではない、自分のものではないと思っているところのものである。従って、例えばある衝動も、当人がこの衝動は確かに自分が持っている衝動であると思っていれば自我の1部をなしているが、当人がそう思っていなければ、すなわちその衝動を抑圧していれば、エスの1部である。 エスは流動する混沌。

 

「ところが、我々人間は、自我こそが現在の自分の生きた現実だと思っており、本当にそうであるエスについては無意識、無自覚である。自分に属さないものとして、自我から排除しているのである。ここに人間という存在の根本的倒錯がある。人間とは、他者を自分、過去を現在、死を生、幻想を現実と思っている存在である。」

 

 →この章はなかなか難しい。特に最後の〜人間とは、他者を自分、過去を現在、死を生、幻想を現実と思っている存在である〜は、未だ実感としてストンと落ちない。エスの概念がよくわかっていないせいだからと思う。エスは幻想でなく現実なのか。いやはや。

 

 §「真の自己」

「私に言わせれば、「真の自己」なるものは、どこにも存在しない。個人の人格構造は、相矛盾する様々な要素から成り立っている。「誠実で協力的な」要素も「残酷で加虐的な」要素も個人の人格構造を現実に構成している要素であって、その一方を「真の自己」他方を「偽りの自己」の表現とみなす事は、一定の恣意的な価値基準に基づいて、個人の精神内容を狭く規定することであり、人格内部の抑圧体制を強めこそすれ、何か押さえつけられて実現を妨げられているものを実現することにはならない。真偽の基準は当人の世界観、人間観によってどうにでもなる。」p129

 

 →どこにも無い「真の自己」に自我の支えを求めても無駄であるだけで無く、危険だと岸田氏は言う。「真の自己」とか言われているものは、神その他の外部の超越的存在を自我の支えにできなくなった近代人が、個人の内部にそれを求めようとして作り上げた架空のものであり、いわば内なる神である、とも言う。真の自分探しなどあり得ないということである。

 

 §自我と欲望

「真の自己のように個人に内在する普遍的なもの(神など)が存在していれば好都合だが、無いとすると個人の心の中の「欲望」に自我の支えを求めるようになった。

 われわれの欲望は本能的欲求の派生物でなく、それらの他者たちの欲望の集積である。

人間の欲望はすべて自我に発する。したがって、すべての欲望は唯一の原型的欲望に集約される。それは自我の形を整え、自我を安定させたい欲望である。様々な欲望はこの原型的欲望のさまざまな現象形態である。

 自我の上に立って自我を説明するのも自我でありこの自我が存立するためには、さらにその上に立って、この自我について説明する自我がなければならない。これはどこまでいってもキリがない。人間が自我の究極の支えとして神を必要としたのも、この無限遡及に終止符を打つためである。

 自我はまさに空中楼閣であり、自我の確実な根拠はどこにもない。」p168

 

 結論 自我の決定的安定は無いのだから、欲望の目指しているところは実現不可能である。欲望が挫折するのは、たまたま不運にもその実現を妨げる外的要因があるためではない。欲望は満足されても、満足されなくてもその目指しているところに到達できない。ただ、本質的に不安定な自我にもかりそめの安定はあり得るが、このかりそめの安定は欲望の満足の予想によってしか得られない。欲望の満足そのものが自我の安定のために必ずしも必要でないどころか、かえって自我を新たな仕方で不安定にする。

 欲望の対象は、喉の渇きにとっての水のような現実的対象ではなく、すべてフェティッシュ(物神、呪物=呪力や霊験がある物)である。自我の安定した形にとって欠けているものが欲望の対象であるが、自我の安定した形とは安定しているように見えた他者の自我の形を借りたものに過ぎずなんら根拠のない幻想であって、ある特定の形で自我を安定させなければならない何の必然性もなく、自我のあるべき形が生まれつきの本能とか気質とか、才能とかによって決定されているわけでもない。p193

 

 →この説明も自分には難しい。

 

 §自我の支えの否認

 近代以降の葛藤

 ・欧米人は自我の支えであったキリスト教の唯一絶対神を否認して、それを理念などに求めたが、依然として内的葛藤が続いている。

 ・日本人は伝統的な世間、先祖を否認し近代的自我という迷妄に陥り、対人恐怖症、真の自己や欲望に自我の安定を求めたが出来なかった。

 

 欲望とは、既に繰り返し述べたように、安定している(と我々に見える)他者の自我を基本として己の自我を安定させたい欲望に他ならならないからである。したがって、そのいずれの呼び方をしようが同じことなのである。同じものが、ときには規範、ときには欲望と見えるのは、それがどれほど社会的に共同化されているかの違い(すなわち共同化されない個人的な規範は欲望と見えるであろうし、共同化された欲望はちゃんと見えるであろう)それに対する我々の態度の違い(すなわち、同じものがそのネガティブな面で捉えれば規範、ポジティブな面で捉えれば欲望となるであろう。)などによるに過ぎない。p229

 

 →岸田氏のこの本の最後の結語は、「われわれはまだこの幻想にしがみつき続けるであろう。しかし、もしこの幻想にしがみつき続けざるを得ないとすれば、少なくとも、そのことがどういう結果をもたらしているかを知った上でしがみつき続けるべきであろう。」p232である。

 

 →どういう結果をもたらしているか、とは日本人は内的自己と外的自己に分裂した状態が続いている(対米従属)。欧米人は一神教キリスト教を完全否認せず、幻想たる理念に囚われ戦争に明け暮れている状態だと言いたいのだろうと推察する。

 

 読後感

 幻想=自我の未来について、自我を棄てれば生きていけないのだから、これからもしがみついていかざるを得ない、とすればそのことがどういう結果をもたらしているかを知っておけと岸田秀氏は言う。

 どういう結果とは、上記のように国レベルでは日本の対米従属、世界の絶えることのない戦争などと思うが、個人レベルでは、どうか。自分のこととして考えてみる値打ちはある。しんどいが。

 

 この本は岸田氏の唯幻論理解のためには、重要な「自我」を論じており正しく理解せねばならないが、残念ながら自分には少々難解である。

 

  夏風邪や 我執と没我往き来して


 

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