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岸田秀再読 その21「自我の行方 岸田秀・八木誠一対談」 [本]

 

「自我の行方 岸田秀・八木誠一 対談」(春秋社 1982  増補版1985)

 

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 対談者の八木誠一(1932〜)氏は、新訳聖書学者、神学者、宗教哲学者。東工大名誉教授。ちなみに岸田秀氏は、1933年生まれ、現在90歳。八木氏の一歳歳下になる。

 

 精神分析と宗教をめぐる対談である「自我の行方」は1982年刊行。3年後刊行の増補版と同時期に刊行された「幻想の未来1985.1」と合わせて読んだ。自分には両書とも難しく6月15日に図書館で借りてから、返済期限延長、借り換え、を繰り返し、「幻想の未来」の方は、今なお読了に至っていない(「幻想の未来」は7月6日に借りて、読み始めたばかり)。情け無い。

 

第一章

岸田 「宗教というのも見失った全体的生を回復しようとするひとつつの運動であるとすれば、精神分析もそういう意味では、同じく全体的な生を回復しようとする運動なのであって、そういう意味で宗教と精神分析とはつながっている。」p25

 

岸田 「すべては相対的であると言う発言は相対的か、例外のない法則は無いという法則に例外はあるかと言うこと。」

 

八木 「どうせ岸田さんの言うことも幻想なんだから、岸田さんが何を言っても本気で問題にする必要がないと言い出す奴が出て来得る。もったない。」

 

岸田 「本来的な生と非本来的な生という区別を立てた場合に、誰しも我こそが、本来的な生を握っていると思いたがる傾向が強い。2つの集団が、どちらもこっちが本来的生を握っていると言って、無意味に争い続けてきたのが歴史である。本来的生と言うのも、人間が掴み得るんだと認める立場そのものが危険をはらんでいると言うことではないか。」p55

 

八木 「帝国主義なんて言うものはどうせ幻想なんだから、ほっとけ。本気にカッカと対応して、日本の軍備を進めるなんてのは馬鹿な話だ。どうせ人間みたいにおごり高ぶっている存在はいつまで長続きするわけないんで、そのうち滅びちまうに決まっていると岸田さんは言う。」

 

岸田 「人類が今後ますます核兵器の軍拡競争を続け、そのうち核戦争を起こして滅亡するほどの馬鹿であるなら、そんなバカな人類なんて滅びたっていいじゃないか。」p57

 

→これに対する八木氏の反論は不明。自分が、理解できなかったのかもしれないが。岸田氏の「滅びたっていいじゃないか」は、警句だろう。でなければニヒリズムになるが、どうやら本音ではなさそう。

 

第二章

 同年輩、同年代の分類①戦前派(戦争に協力した反省ー吉本隆明ら)②戦中派(価値観の転回を見たー八木、岸田)③戦後派(最初から民主主義教育を受けたー自分ら)。自我形成に差異がある。

 

岸田 「世界が矛盾なく首尾一貫して説明できて、自分がその真理を把握して正義の立場に立っていると言うふうに思うことができれば、人間は非常に安定して楽なわけですね。人間はそういう自我の安定を守るためなら、人殺しはおろか、自分の生命を投げ出すことさえやりかねません。殉教とか言って。」p89

 

→殉教とか言っては、宗教徒への皮肉。

 

岸田 「唯幻論というのが、「すべてのクレタ島人は人は嘘つきであると、あるクレタ島人が言った」というのと同じで、成り立たない。すべては幻想であるという判断も幻想である。ということになって成り立たない、と八木さんに言われた。論理的にだいぶ矛盾と言えばそうなんですけど、もし、首尾一貫した矛盾のない体系を作ったら、それは必ずインチキなんだというのが僕の考えでしてね。我々は常に部分的な正しさで満足すべきです。全体的な正しさを求めようもありませんし、それが得られたと思った時は必ずや瞑想に陥っている。」p90

 

 究極の悟りはない。自我は必要悪と自覚して。

 唯一絶対神=絶対無 宗教はテーゼではない 常にアンチテーゼp98

 

「自我は基づく原理が単純なほど安定する<生命の営み>は常に広がろうとする。人間は常に広がろうとする動きと狭く固まろうとする動きの絶対矛盾的な二つの傾向に常に引き裂かれている。狭く固まろうとする傾向を助長するような単純明快な唯一絶対神とか原理は出来るだけ排除するのが望ましい。」

 

→これの反論も第一章におなじく明示されていないようだ。

 

第三章

岸田 「本能崩壊と文化の成立は相関的といっても、あくまで本能崩壊が先ではじめに本能崩壊ありきだ。」

 

岸田 「人間より動物の方が立派。環境との間に隙間がなく賢明に生きている。動物園で飼うと本能が壊れることもあるが。」

 

八木 「自我とは言葉を使って世界を構成し、考えて、選んで、決断している主体のことだと考えているんですけれども。つまり言葉の主体、あるいはむしろ言葉のかたまり。公共の言葉を使いながら、自分と言う観念を持っている。自我に目覚めている。通念で考え、慣習で行動しながら、自分がある。」p114

 

八木 「まず言語を媒体として通念や慣習を学習する、という事から始まる言語生活・文化生活が本能を壊したと言う面はあるんじゃないでしょうか。本能の崩壊が先なら自我の成立までどうして生きたか。」

 

岸田 「本能が壊れたときに人類は滅亡の危機に直面したと思いますよ。そして人類の大半は滅んだんじゃないか、その中にたまたま自我を作るというやり方を発明した少数者がいて、極めて空前的に人類は生き延びたんではないかと思っています。」p122

 

→本能崩壊が先か(岸田 壊れたあと自我が生じた)、後(八木 言葉が先であと本能が壊れた)か。二人の意見は分かれた。

 言葉が発明されたあと本能が壊れて自我が出来た?のか。その違いの意味は何か。あまり明確な議論になっていないように思えるが。

 

第四章

岸田 「自我というのは、自分の全体的生命の客観的には1部であり、主観的には全体である。全体だと考えない限り、自我の安定がない。」

 

八木 「自我をどのくらい相対化できるかと言う問題になる。頭でわかっただけではダメで実感、自覚の事柄としてわからなければダメ。自我が究極であり、それを守る社会の構造が究極だと考えると、必ず支配とそれへの同意ということが出てくると思う。そしてその社会と自我を守る手段が殺しですね。」

 

→岸田氏の言は分かるが、八木氏の後段は残念ながら分からない。

 

まとめ

岸田 「わたしは、生の営み全体−自我=エス、と言う図式を持っていますから、自我+エスが全体なわけです。自我は絶えずエスを取り込んで、広がっていく運動の中で、意識の中で自我は1部に過ぎないと言う状態は可能。八木さんはそういう意識の状態が宗教だと。」

 

八木 「いや、そういう構造の意識が全て宗教的だとは言い難いのですが、宗教的自覚は、少なくともそういう構造を持っていると。それを<いのちの営み>といったわけです。そういう構造自身が<いのちの営み>に属する。国家やイデオロギーを超えて一緒に生きる場を開くという事は、宗教の1つの本質的な面だと思うんです。だから、宗教は、エスの全面的開放ではあり得ません。できるだけ広い共存を可能にするという1つの枠組みーこれは人為とは言い難いーがあって、この枠の中でいのちの豊かさの実感をもたらすようなものだと考えてます。」

 

岸田 「まぁしかし自我というのはみんな固執するからね。」

 

八木 「自我というものは、自分が究極だと思っているだけ強くなる。強いというより猛々しい。イヤンなっちゃう位強い。」

 

岸田 「自我は幻想だとか、相対的だとか、エゴイズムの愚かさなんて口幅ったいことを言っていますが、自分が正当な権利と思っているものを侵害されたり、侮辱されて自尊心を傷つけられたりすると冷静ではいられません。自我を守るための何らかの手段をとることになってしまう。ただ、せめてもの僕の慰めは、一方では、そんなのは幻想だ。アホらしいと思いやるのでしばしば失敗もする。失敗すると心のどこかでほっとしているところがある。本当に「自我は諸悪の根源なり」ということなんですが、それがやめられないという人間の悲劇があるんですね。人類が滅びるとすれば、神への固執、国家への固執のために滅びるでしょうね。」

 

→本書の表紙には「自我は強い、嫌になるほどだ」という二人の一致点というか、同じ思いを表明した対談のこの部分が印刷されている。編集者の思いが感じ取れるが、残念ながら二人の相違点は入っていない。読者は一致点より相違点の方が気になっていると思うのだがいかがなものだろうか。

 

あとがきに代えて 宗教と精神分析 八木誠一

「岸田さんは、宗教とは自我の相対化と、生内容の自覚とに関わっているのであり、基本的には確認可能な事柄を語っているのだということにー大方の現代知識人と同様ー気がついていないようであった。

 宗教は、言葉を語る自我ということそのことが排除していたものの恢復を含んでいる。それは自我を単に滅ぼすものではなく、立て直すのである。キリスト教も仏教もそうであった。宗教は、社会的個的自我つまり理性的自我を立て直すような生内容の恢復であった。逆にいうと、ここに宗教の制約があると言えるかもしれない。従来の宗教は、理性的自我を重視するあまり、ギリシア人が知っていたような。そしてルネッサンスが発見したような、豊かな生内容を十全に取り込んではいない。」

 

→この辺りの説明はメモしていても、自分にはよく分からない。八木氏の言いたいことの一つなのだろうが。宗教は、「理性的自我を立て直すような生内容の恢復」とは?

 

追章 往復書簡・「真の自己」について

 

八木→岸田

八木氏の「幻想の未来」(岸田秀 河出書房新社 1985 )の読後感想。

「自我に関する物語」はみな「つくりものの嘘」だとすると、自我に関する諸々の理論もつくりものの嘘だということになる。だとすれば意見を言う気にはなれないが。」

 

岸田秀「幻想の未来」の基本的主張(八木氏の整理による)

「自我は支えなしに存立できるものではない。しかし自我を究極的に支えるものはどこにも存在しない。もう少し具体的にいうと、日本人は一般に自我の支えを「世間」に求め、ヨーロッパ人は「神」に求めた。しかし今や「自我の自律」が理念として立てられ、大方の賛同を得ているので、日本人は「世間」に自我の支えを求めることを否定するようになっており、ヨーロッパでは神信仰が揺らいできたためもあって、ヨーロッパ人は「神」に自我の支えを求められなくなっている。こうして自我はともに、自我の支えを自分で否定する矛盾に陥り、心的葛藤が生じている。」

 

自我は支えなしには存立出来ない、には賛成。「真の自己」はどこにも無い、には反対。

 

 宗教は、人格のいのちの営みが個を超えた働きに荷われていると言う直覚を持つ。自我の安定を求めること=我執が間違い。仏教=無我、キリスト教=自我の滅亡。

 

 生きているものはこの世界の中で他者と共存する系を作り上げて来た。

 宗教とは、まさにそこに生の営みの本質、そのように生きるところに「真の自己」があり、そこで個を超えたものの働きが直覚される。

 西欧人は自我の拠り所を神として来たが死んだので不可能になったと言うが、本来のキリスト教とその頽廃落を区別して前者を弁護することになるが。注)頽落態(たいらくたい)=堕落したもの、状態。

 

 キリスト教、浄土仏教とも信仰・信心とは自我のはからいの放棄であるとする。

 

 自我の幻想性とは、かなりの程度まで一意生の言語の幻想性と同義だ。自分で自分を定立する、我執的自我とは一意生の言語の虚構だ。人間は共存へと向けてできているもので共存の営みにおいては自由と愛とが両立するものだ。

 注)一意生=誰かまたは何かが他のものと比較して異なる状態または状態のこと。ユニーク。

 注)定立=ある肯定的判断・命題を立てること。

 

→八木氏の主張のポイントの一つであろうが、これも凡百たる自分にはよくわからない。

 

岸田→八木

「まず唯幻論も幻想であると言う唯幻論の主張についてですが、これが論理的に自己矛盾している事は、以前の八木さんとの対談においても指摘されたことがあり、その他いろいろな人に言われました。それに対する答えは、本書の対談の中でもまた別の所でも述べたことがあるので、繰り返しになりますが、簡単に言えば普遍妥当的な唯一の観点はなく、普遍妥当的唯一の真理はないと言うことであります。

 フロイド的解釈とユング的解釈の違いは、同じ譜面を見て、バッハの曲を演奏する者と、ショパンの曲を演奏する者の違いだと思います。」

 

「真の自己について」二人の一致点

=人間が自分を自我として限定し、その自我を守り立て強化しようとする。あるいは何かに依存して安全を図る。要するにまず自我を提出しておいてその自我の安定を求めること。我執がそもそもの間違いだ。一定の形に固執する自我のつっぱりは精算されなくてはならない。単に傍迷惑であるばかりでなく、不可避的に当人自身を精神的袋小路に追い込む。したがって、自我のもっとも無理のないあり方は、八木さんがピアノとチェロの合奏の例を引いて説かれたように、「チェロはピアノという与えられた状況を自分の演奏の条件に転換し」、「ピアノもチェロの音を自分の演奏の条件に転換し」て、「お互いに図となり地となり合って」、つまり、まず自分が自分の自我の形を一方的に決め、それを相手に押し付けるのでもなく、また、相手に引きずられて相手の自我の形に一方的に合わせるのでもない「共存」というあり方であろうと私も思います。p246

 

「真の自己について」二人の相違点

=「他者との共存を願う気持ち」も人格構造の1要素であれば、他者を支配し、搾取したい気持ちも、他者の言いなりに服従したい気持ちも同じく1要素であって、そのどれかひとつが真の自己でというわけではないということです。そういう共存と言う形を言語によって規定し、その形に自我をはめ込もうとすれば、他の要素を押さえつけることになります。そこにはどうしてもある程度の無理があります。」p 247

 

 八木は理念を語り、岸田は理念は幻想であると思っている違いである。

 

(キリスト教、マルクス主義の)本来の姿と頽落態を区別する普遍妥当的基準はない。良否の判断基準は現実のキリスト教徒、マルクス主義者がどういうことをしたか、にしか無い。

「八木さんの考え方は人間の本来のあり方を語っているに過ぎない。あるべき真の自己があれば文句はないが、真の自己という思想を信じた人達がその思想に基づいて現実に何をしどうなったか。

 

 八木さんは、宗教と言うものは単なる観念性ではなく「いのちの営み」の自覚である、人格の「いのちの営み」が個を超えた働きに荷われていると言う直覚を持っていると言われますし、私はそういう自覚ないし直覚の存在は認めるし、そういう自覚を持って生きる事は「我執」に囚われて人を傷つけ、おのれを苦しめる生き方よりはるかに賢明ですばらしい生き方であると思いますが、やはりそれも「観念性」であって、自我のひとつの形に過ぎないと言うわけで、これはどこまで行っても平行線ですね。ここまでくると、これはもう「いのちの営み」と言うものを信じるか信じないかの問題です。」p250

 

「いのちの営み」の自覚であるという保証はどこにあるのか。自我とは他者である。

 

岸田は「本能が壊れたから自我が代替物として生まれた」とし、八木は「人間が言葉を使い出したから本能が壊れた」とする。岸田は、「講釈師見て来たような嘘を言い」であり、どちらでも良い、自説に固執しない。よほど追い詰められたからとするのが岸田説。

 

→八木氏の「あとがき」もなかなか難解。それに比べると追章の「往復書簡」の方が、双方の主張が対談より直截的に語られており、いくらか分かりやすい(ような気がする)。

 

読後感

 岸田氏の精神分析論も難解だが、八木氏の宗教論も、当方普段あまり考えていないせいか、良く理解出来ないことが多い。例えば、「いのちの営み」などは重要なワードと思われるが直感的にというか、感覚的にというか、わからないせいか、「自我」や「真の自己」など議論全体の理解を妨げる感じがあってもどかしい。

 岸田論の理解が目的のための読書だから、それに資すれば良しとするのだが、宗教学や論理学、哲学用語が出てくると、もうお手上げなのは残念である。

 

 不学と加齢による理解力低下をまた思い知らされた。次は「幻想の未来」に挑戦するつもりなれど、この本の「幻想」は「自我」のことだそう。「自我の行方」は、はてどこへ行くやら。


 

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