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加藤周一「日本文化における時間と空間」を読む [本]

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最初から難解とわかる本というのは、めったに手に取らないが、難しそうな本を読むときは、本の「帯」が助けてくれることがある。
この本の帯はこう言う。
「日本文化の特質とは何か。著者は時間と空間の二つの軸からこの大きな問に挑む。日本文化を貫く時間と空間に対する独特な感覚ー著者はそれを「今=ここ」と捉えーこの志向が今日のわれわれの日常や政治行動をも規定していると喝破する。日本文化の本質 その可能性と限界を問う渾身の書き下ろし。」
これで、書いてあることの大枠は掴めるというもの。

また、前書き(はじめに)を読んだあと、中身に入る前に著者のあとがきから読むのも、役に立つことがある。今回はそうした。
著者はあとがきでいきなり、「この本は日本の思想史について私の考えてきたことの要約である」と書く。勿論随筆などではないと承知しているが、評論というより思想史についてと言うのだから不学の徒に荷が重いと知る。
著者のあとがきは続く。
第一部で日本文化において典型的時間は今に集約されることを強調し、第二部は日本文化の典型的な空間は水田耕作のムラである。そこでは集団第一、個人第二。(略)
第三部では、「今」と「ここ」の関係を「かくして「今」主義と「ここ」主義は併存しているのではなく、全体を分割して部分へ向かうよりも、部分を積み重ねて全体に到るという同じ現象の両面をあらわしているのである」という。
そして「今」と「ここ」に不満の場合のそこからの脱出について論考する。物理的には亡命、精神的な超越としては禅だという。

本文は三部構成で、第一部「時間」のところは、読んで分かりやすいが二部「空間」、三部「今=ここの文化」は予想したように、自分にはやや難解であった。

第一部の「時間」でとりあげられる「連歌」については、いっとき連句に興味があって式目などを知ったたので良く分かる。
連歌とは過ぎたことは水に流し、明日は明日の風に任せて、 「今、ここ」に生きる文学形式である。ひたすら前へ進み後戻りはタブーである。

この連歌から生まれた俳句は更に明快。今を切り取る短詩型。「物のみへたる光、いまだ心にきへざる中にいひとむべし(芭蕉)」に尽きる。
「ー誰もが「今=ここ」の印象に注意し、その時までのいきさつを離れ、その後の成り行きも気にかけず、現在において 自己完結的な印象の意味を、見定めようとしたのである。俳句は日本語の抒情詩の形式が歴史的に発展した最後の帰結である」と著者は書く。

随筆についてはふだんから思っていたことなので、おおいに納得感がある。
「随筆の各断片は、連歌の付句のようなものである。時間の軸に沿っていえば、読み終わった断片や、来るべき断片とは関係なく、今、目前の断片が、それ自身として面白ければ面白い。
抒情詩の形式における現在集中への志向は、散文においても、もっとも典型的には随筆において、全く同じように確認されるのである」

また著者は「すなわち詩歌においても、音楽においても、著しい「今」の強調が、ー別の言葉で言えば全体よりも「部分」への強い関心が、絵画の場合にもあらわれているのである」という。

これらの「今」への集中志向は良く分かる。随筆や俳句ばかりか私小説への偏重、コラム、エッセイやブログ、ツイッターも然りであろう。

日本の文学形式が、「今=ここ」に生きるというのは、多分正しいであろう。だが、それは日本独特かといわれると、海外文学を知らぬ自分には良く分からぬ。
音楽や演劇、絵画についても、絵巻物 、 能役者の静止 、歌舞伎役者のみえなど親切に教えてくれるが俳句、連句や随筆ほど膝を打つという感じがないのは、自分の音楽や絵画の理解が浅いからであろうか。

さて、第三部こそ重要なのであろうが、一読して理解が十分とは言えないのが残念である。何故「今=ここ」に不満の時、そこからの超越、脱出が、物理的には「亡命」なのか、むしろ「自死」や「隠居」の方が適切のような気もする。「今」から脱出できても、「ここから」は超越出来ないからか。しかし亡命はあまりに一般的でない。
精神的には禅が典型というが、それ以前に大衆にはアニミズムや神道、仏教なかんずく浄土宗などの宗教であろうと思うのだが。
「今=ここ」への志向が、今日のわれわれの日常や政治行動をも規定している(帯)とするなら、もう少し具体的に言って貰いたいものだ。
過ぎた過去にとらわれず、考えても詮無い未来にあまり期待せず、今を生きるのは日本人だけではない。脱出もパチンコ、アルコール、ドラッグなどは思想史とかけ離れるて、通俗史になってしまうので論外であろうが。

日本人の15年戦争さえ水に流してしまう性癖、ご都合主義の歴史認識、安定経済至上の選挙行動は、少し度が過ぎるが、その原因は、強い「今=ここ」志向だけではあるまい。例えば強い自尊心、自愛、家族愛と表裏一体の利己主義などもあるのでは。それはどこから来るのか。

加藤周一は、2008年に没したが、2011.3.11とその後の日本人のありようを見たら何というだろうか。また、九条の会の呼びかけ人として、最近の政治状況、手ひどい憲法解釈や右傾化とも見える後戻りをなんと見るのか。「今=ここ」の思想をどう変えたら良いのか。指針や可能性については、読者の考えることだと言っているようにしか読めなかった。読む方の力不足であろう。

この本は、2007年岩波書店から出版された。ときに加藤周一は88歳、米寿。人間の頭脳は人によっては高齢化をものともしないという好例。膨大な脚注の中にも面白い話がたくさんあって、大いなる知識、深い思慮が窺われる。
だが、読む方はまだ70代なのに、脳髄が弱る一方であることを思い知らされるのが、情けなく悲しい。これでは、この本の良き読み手とは、とても言えない。

絵はドアを右手で開ける我が家の猫、完全に閉まっている開けられず、にゃあといって開けてくれという。家族は皆ドアマンになる。F8 ウォーターフォード。例により、本とは無関係。



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