岸田秀再読 その11 「唯幻論大全」2013 (1/2) [本]
唯幻論大全 岸田秀 岸田精神分析40年の集大成 飛鳥新社2013
今からほぼ10年前、著者79歳のときに刊行された589pの大冊。
40年の集大成とあるように唯幻論を「自我論」、「歴史論」、「セックス論」の3部に整理。巻末に初出が掲載されており、原題も変えたものがあるよう。ただ集めただけでなく記述内容も補強的に加筆、加除されたところもあるが、基本的論議は変わってはいない。
例によって、自分が気になっているところや、新たに気づいたところなどをメモしつつ通読したが、本は分厚くて手に重く閉口した。
第一部 自我論
「人間の本能は、生まれてから後に壊れる。このことを示す証拠はたくさんある。例えば、生まれた直後の人間の新生児の指及び掌を刺激するとひとりでに把握反射が起こる。強く握るので、鉄棒にぶら下がることができるほどである。また、新生児を支えて直立させ、床に足がつくようにすると、原始歩行と呼ばれるが、反射的に歩き出す。ところがしばらくするとこの把握反射や原始歩行の能力は失われ、1年くらいたたないと回復しない。それに反して、例えば猿においては、新生児の時に持っている把握や歩行の能力が中断されることなくそのまま持続する。すなわち、人間においては本能として持っていたこれらの能力が一旦壊れ、後から学習によって同じ能力を新たに身に付けなければならない。p49」
・未熟児として生まれのが、「本能が壊れた理由だ」とする説明のなかの記述。
把握反射や原始歩行は、自然発生は系統発生を繰り返す際の一つの現象に過ぎないのでは?本能が壊れたためではなく。
「誰でも幼い時から親子関係の中で築いてきた自分の物語に支えられて、自我の安定を維持しているものであるが、この物語に欺瞞がなければ何ら問題は起こらない。この物語に欺瞞があり、それを隠蔽し、抑圧する時、神経性的症状が発生する。したがって、神経症を治すためには、自分の物語に含まれる欺瞞を隠蔽し、抑圧することをやめて、真実を明らかにしさえすればいいのである。ただそれだけなのである。しかしそのためにはそれまでの自我の安定を捨てなければならず、それが招く不安と恐怖を引き受けなければならない。神経症が治るか治らないかの問題は、それまでの偽りの自我の安定を捨てる決断をするしかないかの問題である。その後は、新しい真実の自分にある物語を構築してゆけばよいのである。それも容易ではないが…。」p106
・この論調は穏やかだが、岸田氏は人間(集団や国家も)は大なり小なり神経症である、大なり小なり狂っていると著者はあちこちで激しい口調で書いている。またそれは自己欺瞞があるからで、それを治すにはそれを直視することだが、それは自己を否定しかねないので極めて難しいとも。
この穏やかな表現と、別のところでの激しい表現の落差は、何かと戸惑う。
第二部 歴史論
「時間は、悔恨に発し、空間は、屈辱に発する。時間と空間を両軸とする我々の世界像は、我々の悔恨と屈辱に支えられている。p108
かくして、時間と空間が成立したとき、人類の歴史が始まったのである。p119
・岸田氏は言って無いけれど、個々人では時間と空間が成立したとき、人生が始まったのだろう。
藤森照信 どっかヘンだぞと体と気持ちがついていかない。(中略) 頭では説得されつつも全身では困ってしまうのである。
藤森照信(ふじもり てるのぶ、1946年- )は、建築史家、建築家(工学博士)。東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。
米原万里 国家や文明を精神分析の手法で見ることに抵抗。(中略)かなりトンデモ本ぽい。
米原 万里(よねはら まり、1950年 - 2006年)は、日本のロシア語同時通訳、エッセイスト、ノンフィクション作家、小説家である。「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」「オリガモリソブナの反語法」などを読んだ記憶がある。父の米原昶(いたる)氏は共産党機関誌編集長。
・集団、国家を個人の心理、精神と同じように扱うことへの岸田氏への批判例と岸田氏の反論が面白い。
おおかたの読者の思いも似たようなものだろうが、自分は本件あまり違和感はないことは前にも書いたとおりである。むしろ本能が壊れた方に納得感が弱い。
「しかし、史的唯幻論論は、これまでいずれの史観も納得できず、なんとなく居心地が悪かった、その居心地の悪さを解消する、わたしにとって全く好都合な史観であって、自分に好都合な虫の良い身勝手な見方を選ぶと言う点では、わたくしもかつての大日本帝国やアメリカ帝国やソ連帝国と同罪ではないかという疑問が出てくるが、少なくとも史的唯幻論は史的唯幻自体も幻想であると考えており、おのれの見方を絶対視せず、1つの正しい世界のあり方や見方などが存在しないとしている点において、他の史観よりもいくらかマシであるいうことにして、この疑問はこれ以上考えないことにする。p146」
・史的唯幻論もまた幻想だというパラドックス。唯一の正しい史観など存在しないと自覚しているだけマシ。これ以上思考停止。なんと素直な…。
「神と理性との違い 神は個人の外にあり理性は個人の内にある。共通点は全知全能。普遍性、絶対性。」
・神と理性、これがどれだけ災忌を齎したか!と言いたいのだろう。キョウレツで、キビシイ。
「フランス革命 抑圧された民衆ではないある種の人々が全知全能の理性に基づいて新しい世界を創造しようとした誇大妄想的企てであった。」
・抑圧された民衆蜂起の近代革命とは真っ赤な嘘。ヨーロッパ世界史の常識は欺瞞。
「道義戦争 道義の勝敗 国家存立の精神的価値の根拠 存在する価値のある国民の共同幻想で国家は成り立っている。軍事力、領土、経済力があっても国は消滅する。」
・道義的観点から戦争の勝敗を見直すというのは、グッドアイデアだが、その「道義」も幻想?。
岸田秀再読 その12「唯幻論大全」 2013 (2/2)へ続く
コメント 0