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新幹線の恋の物語 [随想]

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日本の鉄道は、明治5年(1872年)10月に新橋 - 横浜駅間で正式開業、当時の評判は大きかったという。これから始まる鉄道新時代への期待がそうさせたに違いない。
世界初の商用鉄道は、1825年 イギリスのストックトン・ダーリントン間を結ぶ鉄道だから日本は半世紀近く遅れた。1827年のアメリカ、1832年頃のフランス、1835年のドイツの鉄道開業に比べてもやはり相当遅れたスタートであったと言わざるを得ない。

しかも我が国の鉄道は草創期に主としてコスト面から狭軌道を採用したため、欧米の鉄道のような高速運転にはほど遠いものであった。最高速度は1910年代から1950年代までの長きにわたって時速100キロ以下であったという。

日本の高速鉄道新幹線の登場は1964年(昭和39年)である。周知のように10月1日、東京オリンピックの開催に合わせて東海道新幹線が開業した。
開業当初の営業最高速度は時速200キロ(東京 - 新大阪間「ひかり」4時間、「こだま」5時間)。路盤の安定を待って翌年に210キロ運転(同「ひかり」3時間10分、「こだま」4時間)を開始した。
10月1日の東京発の一番列車は定員987名のところ乗客は730名程であり、満席ではなかったという。最近のスカイツリーのような前評判とはおよそ違ったのである。人はこの時これから始まる変革を予測出来なかったに相違ない。

当初から新幹線が順調でなかったのは、自分の経験からもよく知っている。
1963年(昭和38年)に学校を卒業、その4月に就職した。最初の1年間は研修を兼ね本社勤務だが、新人同期生20余人はほとんど地方に出される。東京に戻るのは10年くらい後だ。聞いてくれる訳ではないが、一応赴任の希望地を出すことは出来る。札幌、福岡、静岡が人気だ。中でも東京から近い静岡は高競争率。訳ありで、駄目もとだったが、静岡を望み、その通りになった。運が強い。
昭和39年転勤したばかりの静岡市では、独身寮が無くわびしい下宿ぐらし。就職したばかりで金は無い。会うこととももままならぬ。彼女は東京の北千住である。芳紀まさに20歳。東京では石原裕次郎・牧村旬子の銀座の恋の物語(昭和36年)がしきりに街に流れていた。
♫ 東京で一つ 銀座で一つ
    若い二人が 始めて逢った
    真実(ほんと)の恋の 物語
在来線でたまに静岡に来てくれて会ったり、自分が東京へ出て行き会ったりしたが、静岡もこうなると結構遠い。しかも汽車に乗っている時間は長いが、会っている時間は極端に少ない。一計を案じて走り始めたばかりの新幹線こだまに乗り、中間の小田原駅で会うことにした。これなら多少会う時間が長く確保できる。 だから、二人にとっては新幹線こだま様々である。
しかし、新生高速鉄道はしょっちゅう故障で停まった。パンタグラフの不具合が多かったように記憶している。とは言え高速の恩恵で会う時間が長くなったのだから、我々にとっては新幹線の誕生ほどあり難いことはない。たいてい最終電車になったが、たまに二人で東京に帰る土曜日などは、停車もすこぶる結構である。
当時新幹線はまだまだ駄目だという声が多かったが、我々は一度も悪口を言ったことがない。小田原城趾でデートをし、一気呵成に1965年9月、目出度く明治記念館にてつつましく華燭の典を挙げた。以来、今年9月で47年になる。遥か遠い昔の物語である。

さて、その後の新幹線が我が国の経済社会に及ぼした影響の大きさについては、誰でもが認めるところだろう。東京 - 大阪間は、1958年(昭和33年)から在来線の特急で日帰り可能になっていたものの滞在時間がわずか2時間余りしか取れなかった。しかし新幹線の開通で日帰りでも滞在時間を充分取れるようになり、あらゆる面で著しい変化をもたらしたのである。
東海道新幹線においては当初の12両編成が、1970年(昭和45年)の大阪万博の開幕を機に16両編成まで拡大され、ビジネスやレジャーの新しい需要を喚起し高速大量輸送機関としての確固たる地位を確立した。

さらにひかりは西へ、そして北へ、長野、北陸へ九州へと新幹線網が拡大した。スピードはもちろんのこと、何と言っても事故の少ないことが世界に誇りうる技術力である。なかでも地震をいち早く感知して止まる安全技術は称賛に値する。

紅顔の新人も1995年(平成7年)、サラリーマン 33 年生となり大阪勤務。東京に妻子を残しての単身赴任だ。原則毎週2回火曜日と金曜日に東京で定例の会議がある。火曜日は必要な場合を除き特例で欠席を認めてもらえたが、金曜日の方は外せない。飛行機はほとんど使わないので、いきおい新幹線のやっかいになる。「木帰日来」である。週一回としても2年間だから100回以上乗車したことになる。乗っていた時間と走った距離はいかほどか。気が遠くなる延べ時間、距離になるだろう。
この時もまた新幹線様々である。

この勤務中、JR西日本と仕事でお付き合いがあり1996年だったと思うが、300系に試乗させて貰った経験がある。車内放送がいま300キロを超えましたと言うのをぼんやり記憶している。今考えるとJR東日本とJR西日本のスピード競争の一環だったのであろう。

1996年JR東海300X系が出した、時速443キロが非浮上式鉄道の国内最高記録で、世界第三位である。( 一位はフランスTGVの高速試験車V150編成が記録した574.8キロ。ちなみに走行試験も含めた鉄道における最高速度の世界一は、日本の浮上式鉄道MLX01が山梨リニア実験線で記録した時速581キロとのこと。)
JR東海の時速443キロは今でも破られていない記録であるが、先日2012年3月16 日300系がついに引退したことが報じられた。技術の進歩は凄まじいものがあると、最近のN700系などのロングノーズの車輌の写真を見るたびに思う。

世界の高速鉄道では、フランスのTGV・LGV大西洋線が1989年 開業。営業速度は時速300キロという。仕事でフランスに行った時、これに乗ったことがあるが、そんなに速い感じがしなかった。
また2004年 に 韓国で開業した韓国高速鉄道 (KTX) も300キロ。これは観光で妻子ともども釜山からソウルまで乗ったが、同じく時速300キロという感じはしなかった。やはり新幹線身びいきからくる感覚か。

日本の新幹線の営業速度は今でも270キロである。443キロからみれば余裕である。JR東海は2011年後半にも東海道新幹線の一部区間で、営業時の最高速度を270キロから330キロに引き上げることを検討しているというが、なに急ぐこともない。
恋をしていた時、あんなにもっと速くと願ったくせに加齢の成せるわざか、今では一方で何をそんなに急ぐのか、もうこの辺でいいのではないかとも思う。人間勝手なものである。この年になるとリニアの実現化はそう望まぬ。急ぐ人は航空機にすれば良い。

新幹線も間もなく開業半世紀になろうとしているから、多くの人が新幹線のいろいろな思い出を持っていると推察する。自分のささやかな恋の経験など比較にならない、ドラマチックな新幹線にまつわる恋物語を持っている人もきっといるに違いない。新幹線は、社会経済変革に寄与しただけでなく、運んだ何億という乗客の一人一人に人生の思い出を与えてくれて、それを豊かにもしてくれたと思う。恋はたぶんそのひとつに過ぎぬ。















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