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蕪村老は天才大雅を追い越したか(2) [随想]

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前回の(1)冒頭の近藤啓太郎、安岡章太郎の対談で取り上げられた「十便十宜図」とは、ノーベル賞作家川端康成が家を買うのをあきらめ、これを蒐集したことで世に知られた小さな画帖(縦横約18cm)のことである。
現在は、川端康成記念館蔵になる国宝で、正式名は「十便十宜帖(紙本 淡彩 2帖)」である。残念ながら、 自分は実物を見る機会はなかった。

この絵は、 別荘伊園の自然のすばらしさをうたう中国の文人、劇作家李漁(李笠翁)の「伊園十便十二宜詩」(七言絶句)をもとにして、池大雅が「十便」を、蕪村が「十宜」を絵にしたもの。いわば二人の共同制作、競作。1771年、それぞれ大雅48歳、蕪村55歳のときの作品である。

余談になるが、蕪村には他に円山応挙(1733-1795)との共作「蟹蛙図」があるそうだ。蕪村が三匹の蛙を、応挙が蟹を一匹描いている。俳諧師だから、連句と似た共同制作が好きだったのだろうか。俳諧も複数の連衆(れんじゅ 俳諧師)が、順番に長句、短句を詠み短詩を編む。いわゆる歌仙を巻く。独特の共同制作、座の文芸であるが、このうち二人で詠むのを両吟歌仙という。両吟歌仙も「十便十宜帖」も「蟹蛙図」も、二人によるコラボレーション芸術である。

一方で蕪村は、俳句(発句)、自画讃の俳画、和詩「春風馬堤曲」の試みなど「一人遊び」も好きで、それに沈潜するようなところもある。誠に面白いユニークな文人といえよう。 しかもそれぞれ傑作を残しており、多くの人が関心を持ち、その作品を好きだという人が多いのも頷ける。

さて、李漁の漢詩は、草庵をむすんで閑居したところ、訪ねてきた客から、閑静であろうが不便なことが多いであろう、と言われて、山荘での隠遁生活の「便と宜」とをそれぞれ十の詩をつくって答えたというもの。

「十便」とは、草庵の十の便利すなわち
耕便 (こうべん) なんの 、居ながらにして耕せて便
汲便 (きゅうべん) 滝水もあって、水に不自由しない
浣濯便 (かんたくべん) その水清く、何でも洗える
潅園便 (かんえんべん) 菜園に 水もやれる
釣便 (ちょうべん) 釣りさえも楽しめる
吟便 (ぎんべん) 詩想にふけることも、吟ずることも
課農便 (かのうべん) 晴耕雨読さ
樵便 (しょうべん) 木の枝 は薪になるし
防夜便 (ぼうやべん) 治安よく枕を高くして眠れる
眺便 (ちょうべん) 看山の楽しみもある

右側の説明は我が駄、拙訳。あたらずとも遠からずだと良いのだが、自信は無い。
池大雅は、十便図において、自然と共に生きる人間の豊かさを、魅力的に描きこんでいる。
特にこの中では、「釣便(ちょうべん)」の絵が名高い。客が釣れるのを待っているが、釣っている主人は 釣り糸が絡まっているのも気にしていない風情。
また、眺便図は、この種の絵としては人物が大きく描かれているのが、珍しくもあり印象的だ。たしかに、10枚の絵全体の雰囲気がゆったりしてのどかな感じが、見る人を惹きつけずにおかない。

「十宜」とは、草庵における隠遁生活の十の「宜しい」こと、すなわち
宜春(ぎしゅん)
宜夏(ぎか)
宜秋(ぎしゅう)
宜冬(ぎとう)
宜暁(ぎぎょう)
宜晩(ぎばん)
宜晴(ぎせい)
宜風(ぎふう)
宜陰(ぎいん)
宜雨(ぎう)
これは下手な解説など無用であろう。

与謝蕪村は、十宜図において自然が四季や時間、天候によって移り変わるさまを、独特の線のみならず、点描を多く使って描いている。自分には、自然描写が美しく、まさに10枚すべて「絵」になっており、しかも俳人としての蕪村の好みが随所で存分に発揮されて、大雅の十便図の絵に勝るとも劣らないように見える。
このうち宜夏、宜暁、宜晩には人物も描かれているが、あとは風景画が多く点景としての家が描かれているものも少ない。大雅の十便図とかなり雰囲気も異なる。

十便十宜図は、大雅vs蕪村といった「競作」として見るのではなく、むしろ2帖の絵が共鳴して醸し出す全体の雰囲気を味わい愉しむべきであろう。それが二人の狙ったコラボレーション効果であるに違いない。
その意味では、二人の異なった画風をどちらが上手いか、追いつき追い越したかなど詮索するのはナンセンスに思える。

さて、漢詩「伊園十便十二宜詩」の作家である李 漁(り ぎょ、1610年〜1680年)は、如皋市(じょこう市・江蘇省)出身の明朝後期から清朝初期の劇作家、小説家、出版者である。
性愛小説を得意としたらしいから、どうかなと思わないでもないが、なんと「中国のシェイクスピア」とも言われるとか。
わが国では、好色一代男、日本永代蔵などで知られた小説家で俳人の井原西鶴(1642年-1693年)に影響を与えたとされる。
李漁は大雅、蕪村の生きた時代の100年以上前の人である。
李漁に限らず、老荘の時代から中国における隠遁生活への憧れが、極めて強いことは良く指摘されるところだが、日本においても中国文化の移入とともに伝播、伝来した。この江戸時代の「十便十宜図」も、それをよく示しているひとつであろう。

以下(3終)へ続く。

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