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長沢 節の水彩画 [絵]



長沢 節(ながさわ せつ、本名昇はのぼる。1917年会津若松生まれで1999年、82歳で歿)は、イラストレーター、水彩画家、デザイナー、エッセイスト、ファッション評論家、映画評論家。日本のファッション・イラストレーターの草分けである。

「わたしの水彩 」(水彩画家のエッセイと技法 新技法シリーズ 長沢 節/著 美術出版社)によると
「なんといっても、いちばん長くやってきたのは絵なのだから絵描きの節さんといってほしいのだが……。こちらが有名なデザイナーの長沢節さんです、などと紹介されるのが多いのである」と本人が嘆いているように本業の水彩画よりスタイル画家としての方が有名である。
自分も、ごたぶんにもれず、この本を読むまでそう思っていた。
今までこのブログで水彩画の感想めいたことを書いたのは、あれ、この人も水彩を描かれるのか、といった人のものが多い。司馬遼太郎http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2010-11-15や大江ゆかりさん(大江健三郎夫人http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2012-05-29)などである。本業と知ると迂闊なことは言えない。もっともこちらが批評本業でもないのだから余計な心配ではある。

氏は1954年、節スタイル画教室をサロン・ド・シャポー内の一室で始める。有名なセツ・モードセミナーの創設者である。

脇道に逸れるが、サロン・ド・シャポー学院は1951年、西塚庫男氏が千駄ヶ谷に創立した制帽教室。今でもご子息敏博氏が代表取締役で運営されている。HPは
http://www.chapeau.co.jp/

なぜ詳しいかといえば、学院創立者西塚庫男氏夫妻が我々夫婦の月下氷人なのである。長男敏博氏でなく、次男坊の家庭教師が学生時代の自分、というご縁である。
庫男氏は亡くなられたが、奥様はご健在。ご夫妻にはひとかたならぬお世話になった。(24.1.24「頼まれ仲人・月下氷人」http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2012-01-24
むろん、この長沢節氏の水彩画の話とは無関係の話であるが。

長沢 節は戦後の日本ファッション界に当時としては刺激的なスタイル画で一世を風靡する。プレタポルテ運動のため本邦ではじめてのファッションショーを開いたことでも知られる。
また、水彩連盟にスタイル画(現・キッシュアート)部門を創設した。

官立の東京芸大でなく文化学院を卒業したからというわけではないだろうが、この人の芸術論、水彩画論も独特である。上掲「わたしの水彩」は読みごたえがある。

なぜ油絵でなく水彩なのか という理由が面白い。油絵を描く面倒臭さがたまらないというのだ。わかる、わかる。
「ライブな水彩写生などに見せるそのシャープなタッチやモダンな色使いなどの方にだけ、一方的に引き寄せられていったのである。」とも。

透明な水彩絵具で白い紙の上に絵を描くのなら、ホワイトは不要のはずだとされるのに反して、「水の中間色とホワイトの中間色では色が歴然と違うのである。」という。グワッシュ、不透明水彩の白いを含めそれを多用する。
今でもカルチャー教室などで白絵の具はなるべく使わず、紙の白を活かせなどと教えているが、そんなことに頓着せずよければ何でも良いというのだ。

イラストレーションデザインと絵画の違いをこう言う。「立体感や質感の表現、描写がうまいなどということは、絵画では何の役にもたたないのだ。」
デッサンは線、タブローは色とも。

絵画は 立体からの開放や 虚構 が大事。絵も文学と同様嘘が無ければならぬ。「嘘のように、絵のように美しい 」ということがないといけない。

色はつねに(単色でなく二色以上の)関係(色のコンポジッション、コーディネーション、レイアウト)だけが美しい、とか色つけデッサン的水彩画が圧倒的に多いのが嘆かわしいとか言う。


色感というものはもともと体質的なものだから、一概に勉強や努力だけでよくなるというものでもない、とも。これはこたえる。
(絵の)勝負は書き出しのほんの5、6分で決まる。これは、長沢節は、最初から直接色で描くのだからそうであろうが、水彩画全般に共通することかもしれぬ。

「水彩という顔料はとても敏感な材料だからそんな偽善をすぐあばいてくれるところがいい。自由にのびのびと使われることをいつも望んでいるような材料なのだ。(くたばれ!クソ・リアリズム)」さも自然崇拝、自然は偉大だーなどといって風景画を描くのは偽善、むしろ自然冒涜だ。むしろ描かずに黙って自然と対話する方がよほどましだと仰言る。

さて、一番参考になったのが構図の話だ。本当のところが理解できたかは全く自信はないが、少し分かるような気がするのだ。
「絵画という枠の中で美を物語るのは、デッサンではなく、色の構成だということについて説明しなければならないが、構図くらい人に説明しにくいものはない」
構図の本質 は色のありよう。「一言でいってしまえば、構図とは平たい画面の中に、いったい色がどんな風に並べられたか?つまり構図とは色のありようのことである」

学生にはこう言う。「画面の空間は色によるマッスの構成が決め手。デッサン力ではない。色彩芸術としての絵画に対して、無色の立体芸術としてのデッサンや彫刻。
鉛筆で下描きはしないこと。もし、しっかりデッサンをしてその上から色をつけるようなことをしたら、それは色つきデッサンになるだけで、そんなのは絶対に絵とはいわないんだ。モチーフをどのように自分の四角なカンバスの中に持ち込むかというとき、モデルの形よりも、四角の中のモデルによって仕切られた残りのマッスの方が大切だということを忘れないように。四角い空間をモデルも含めて、どんなマッスの構成にするか?それは鉛筆の線なんかでは絶対に不可能だから最初から色で塗って行くこと、細かい関係は後からいくらでもその上に塗っていけばいいのだから」

自分はカルチャーでスケッチ淡彩という水彩画のお稽古をしてきたが、オケイコであってもちろん本格的な勉強ではない。しかし、鉛筆の線をどうしたら良いのか、色で消すのか、生かすのか、着色すると汚れるのをどうするかなど素朴な疑問がいつも頭にあって解決しない。
長沢節の水彩画技法はひとつのやり方であろう。最近水彩画のブログで、線は「色の案内役」だから重視せず着彩したら消えてもらっても良い、というのを見つけた。これは長沢説に近いのだろう。

水彩も人によって千差万別、どれが正しいということは無いに違いない。鉛筆やペンを活かす着彩というのも、またあるのかもしれない。

長沢節は、生涯独身を通した。理由のひとつに修業時代に料理が上達したことがあるかもしれぬ、というのが面白い。わかる、わかる。

自由で上品な美しさというセツ美学を持った水彩画家だったとされる。
水彩画も素晴らしいが、彼の売れに売れたスタイル画も嫌いではない。
もう一冊「淡い色が好き」を図書館で借りて読んでみようか。


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