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老いらくの恋みたび・茂吉の恋(上) [随想]

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老いらくの恋は、男女それぞれ何歳くらいの恋をいうのだろうか。ひとりよがり、当然私見だが二人とも50歳以上ではないか。さしたる根拠はないが、ともに平均51歳といわれる閉経期を過ぎた年齢であると思う。個体差があり、ことには例外というものもあるけれど、閉経期を過ぎれば、男はなお弱いながら生殖能力がある(相手が若い場合)が、女性はほぼ受胎能力がなく、人により千に三つ受胎しても高齢出産の高い壁に阻まれる。
さらに言えば理想的というのも変だが、閉経期に子の養育期間15年を足した65歳以上(いわゆる高齢者)の恋が真性の老いらくの恋であろう。いずれにせよ、ふたりとも子孫を残すための受胎適齢期を過ぎていることが大事な要素という気がする。老いらくの恋は、プラトニックラブが望ましいという気持ちがどこかにある故にか。
むろん、その他の条件、例えば二人が既婚か未婚かなどは関係ないことは言うまでもない。
そうであれば、歌人川田順 の老いらくの恋は男68歳でクリアーしているが、相手は39歳、真正品ではないことになる。
秀吉と淀君も老いらくの恋と言わない。まして老人の戯れ、谷崎の鍵・瘋癲老人日記(夫56歳、妻45歳の話である)、川端康成の67歳の男が主人公の「眠れる森の美女」も論外。
しかし現実には男女とも50、65歳以上で燃えるような恋は少ないのではないか。老人ホームやデイケアでの恋の鞘当てなどを想定してもあまり面白くもない。
そうは言っても、純正品が少ないのも世の常。一方が若くても老いらくの恋と言っても良しとしてみよう。
大岡越前守の母御が火鉢の灰をかき回して教えたことで、よく知られているように、恋は年齢に無関係というのは女性でも同じだろうが、残念ながら媼(おうな)が若い燕に狂った例を自分は知らない。
男のことは少しはわかるが、女のことは身体的なことはむろんのこと、気持ちを理解することは困難というよりまず不可能である。

一方、男の例は沢山ある。
斎藤茂吉のケースを見てみよう。

斎藤 茂吉(さいとう もきち)は、1882年(明治15年)生まれ、逝去は1953年(昭和28年)。歌人、精神科医である。伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。71歳で没するまでに17、907首もの短歌を詠んだ。

茂吉の歌は幾つか好きなものもある。歌は美しい調べもあるが、加えて何やら人の胸に迫るものが多い。その性直情径行の歌人だからというのが一般的な受け止め方であろう。

本題の前にちょっと寄り道する。いつもの悪いくせだが、今回は、本題と全く無関係でもないから許してもらえよう。
自分は以前から気になっていた茂吉の一首があった。

わが色欲(しきよく)いまだ微(かす)かに残るころ渋谷の駅にさしかかりけり

昭和26年(1951年)の作、茂吉が亡くなる2年前、69歳の時の歌である。「つきかげ」に収録。
「老年の微かな色欲」は分かるが、なぜ渋谷の駅なのかという単純な疑問だ。

最近ある本で自分と同じように気になっていたと思われる人の歌を発見して謎が解けた。
蒲焼に日本酒垂らしつつおもふ茂吉にのこりゐし色欲を
(栗本京子)「けむり水晶」
そうだ、茂吉は鰻だ。(うん?、コレはウナギ文?)
茂吉の蒲焼好きはよく知られ、それも好物などというレベルを越え、彼にとって、鰻は覚醒剤であり興奮剤であり下痢止めでもあったとさえいう人もいる。とにかくその執着心は尋常なものではなかったという。茂吉と鰻について研究した人もいるくらいだ。茂吉の食べた回数は、なんと1千回以上ともいう。

一例を あげれば、昭和16年12月8日、茂吉59歳、開戦 ( 翌 ) 日の日記。この日も老歌人の血が躍動して鰻を2回も食しているらしい。
「昨日、日曜ヨリ帝国ハ米英二国ニタイシテ戦闘ヲ開始シタ。老生 ノ紅血躍動!( 略 ) 神田一橋図書館、鰻、 ・午後四時十五分明治神宮参拝ス、東条首相、海軍大臣ニ会フ ・道玄坂 鰻、 ・皇軍大捷、ハワイ攻撃!! 戦ハ日曜ナリ ・宣戦大詔煥発」

当時も東京の歓楽街であった渋谷の道玄坂に鰻屋があったのだ(!)
当然のことながら、茂吉の鰻の歌は多い。たとえば、

戦中の鰻のかんづめ残れるがさびて居りけり見つつ悲しき
あたたかき鰻を食ひてかへりくる道玄坂に月おし照れり 「小園」
これまでに吾に食はれし鰻らは仏となりてかがよふらむか

 本題に戻ろう。茂吉の恋である。
こんな直情径行で鰻が全ての活力源と信じてやまぬ情熱家の茂吉が、娘ほど年の離れた永井ふさ子と熱烈な恋に落ちたのは、茂吉53歳のとき。東京の大病院の院長であった。妻輝子が男性関係の醜聞を起こし、長く別居状態にあった時期と重なる。
ふさ子は弟子で独身、師よりふた回り以上年齢差、29歳下の24歳の時である。

68歳の老歌人川田順の「老いらくの恋」も相手の俊子は38歳、30歳の年の差は、茂吉の場合とほぼ同じ。同じく歌の弟子であったが、こちらは人妻というところが違う。

永井ふさ子は、茂吉が主宰の「アララギ」に入会、短歌の指導を茂吉から受けていたが、昭和9年9月に初めて茂吉の前に姿を見せ、茂吉はその美しさに心を奪われる。ふさ子も師に思慕の念を抱くようになる。  
茂吉の恋心は青年のように燃え上がり、焼却せよと言いつつ100通以上の熱烈なラブレターを出す。
茂吉は不和であった妻輝子となぜ離婚せず、ふさ子と結婚しなかったかなどと、追及するのは野暮というものであろう。また恋の成り行きを追うのも同じこと。この時の二人の歌は何より多くを語っているのだからそれを掲げるだけで充分であろう。

白玉のにほふ処女をあまのはらいくへのおくにおくぞかなしき 茂吉
夜もすがら松風の音きこゆれどこほしきいもが声ならなくに   
玉のごとき君はをとめぞしかすがにわれは白髪の老人あはれ   
冷やびやと暁に水を呑みにしが心徹りて君に寄りなむ     ふさ子

四国なるをとめ恋しもぬば玉の夢にもわれにえみかたまけて 茂吉
こいしさのはげしき夜半は天雲をい飛びわたりて口吸わましを
白玉のにほふをとめをあまのはらいくへのおくにおくぞかなしき
きれぎれにあかときがたの夢に見し君がくちひげのあわれ白し
狼になりてねたましき咽笛を噛み切らむとき心和まむ
年老いてかなしき恋にしづみたる 西方のひとの歌遺(のこ)りけり

極めつけは、昭和11年(1936年)の二人の合作歌。上句が茂吉、下句がふさ子。

光放つ神に守られもろともに あはれひとつの息を息づく

この一首を評して茂吉は言ったという。「人麿以上だ」
笑ったりしてはいけない。
やつあたり的評。合作歌というより連句であるとみると、茂吉の長句にふさ子が短句を付けたものとも言えるが、発句、脇、第三でもなく、巻き納めの挙句でもない平句であり花、月の座の華やかな句でも無い。「神」と「息」はGOD bless youでつき過ぎ。燃え上がっている当人二人にとっては傑作かもしれないが人麿以上とは言い過ぎではないか。ただ茂吉の「もろともに」とふさ子の「あはれ」がなぜか気になるのは深読み過ぎるか。
人麻呂の代表的な恋歌。
小竹(ささ)の葉はみ山もさやに乱るともわれは妹(いも)おもふ別れ来ぬれば 万葉集
「万葉秀歌」の著書もある茂吉がこの歌を知らない訳はない。えっ、これ以上ですか?

以下「老いらくの恋みたび・茂吉の恋」(下)へつづく。


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