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老いらくの恋みたび・茂吉の恋(下) [随想]

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昭和12年春、ふさ子は恋の清算をすべく郷里松山で婚約するが、その縁談は茂吉との三角関係でこわれてしまう。そして歌人と弟子ふさ子の関係は復活する。
しかしながら、結局は破綻を迎える。茂吉が冷めた。冷めた理由は分からぬが、もちろん複合的なものであろう。律儀、生真面目な婿養子茂吉は、後に北杜夫や孫の斎藤由香らから猛女と呼ばれた奔放な妻輝子が怖かっただろう。また長女百合子、次女晶子、長男斎藤茂太、次男北杜夫の4人の父親でもある。歌集 「白桃」にある歌。

四たりの子そだてつつをれば四たりとも皆ちがふゆゑに楽しむわれは

二人の関係が白日の下にさらされたのは、茂吉の死後十年、ふさ子が昭和38年の『小説中央公論』に八十通もの茂吉の書簡を突然発表したことによる。

またここで余計なことになるが昭和38年は、自分が学校を卒業して就職した年。こんな大ニュースなのにいっかな記憶に無い。サラリーマン一年生、やっと社会人になり、そう、まもなく人並みに恋もした。何かと忙しかったといえ、余裕がなかったのであろう、が情けない。

 茂吉の細心の配慮にも拘らず、ふさ子が焼却せず持っていた書簡が公表され、それが多くの人に衝撃を与える。茂吉の二男で旧制松本高等学校出身の作家、北杜夫(もりお)の評。「古来多くの恋文はあるが、これほど赤裸々でうぶな文章は多くはあるまい」(評伝「茂吉彷徨」)。
恋文は激しく、驚愕する内容である。「御手紙いま頂きました。実は一日千秋の思いですから、三日間の忍耐は三千秋ではありませんか。その苦しさは何ともいわれません。」「涙が出てしかたがありませんでした。もう観世音に感謝の涙を流して、御あいしないことにいたします。…」
「ふさ子さん、何といふなつかしい御手紙でせう。ああ恋しくてもう駄目です。しかし老境は静寂を要求します。忍辱は多力也です。忍辱と恋とめちやくちやです。…」。「あのかほを布団の中に半分かくして目をつぶってかすかな息をたててなどとおもふと、恋しくて恋しくて、飛んででも行きたいやうです。ああ恋しいひと、にくらしい人…」 

文脈から言えば、もっと引用すべきだが、長くなるし、書かれた本は沢山あるのでそちらを見てもらうこととする。引用しながら、こちらが恥ずかしくなる内容でもあるのでこの程度にとどめたい。
「老境は静寂を要求する」とは、エゴ丸出しであるが、もとより恋はエゴそのものだから厭な感じは全くない。本音でもあるからだろう。

永井ふさ子は生涯独身を通し、平成4年に83歳で亡くなった。茂吉と別れ、書簡を公表した後の長い時間、何を思っていたのだろうか、彼女の暮らしはどんなものだったのだろう。
昭和49年(1974年)秋、ふさ子は茂吉の故郷、山形を訪れ、詠う。

最上川の瀬音昏れゆく彼の岸に背を丸め歩む君のまぼろし   ふさ子

この歌と響き合う茂吉の最上川の歌は多い。
最上川の流のうへに浮かびゆけ行方なきわれのこころの貧困 (昭和22年「白き山」)
最上川の上空にしてのこれるはいまだうつくしき虹の断片 

また、自分のことで心配をかけ,父を早死させたとの念で詠んだという歌が残っているのも、あはれを誘う。

ありし日の如くに杏花咲けり み魂かえらむこの春の雨 ふさ

老いらくの恋について考えるのだから、茂吉が自らの老いを詠った歌にも関心がある。

こぞの年あたりよりわが性欲は淡くなりつつ無くなるらしも (「たかはら」昭和 4 年「所縁」)
茂吉が 47 歳の時の歌でふさ子との恋の始まる5、6年前だ。嘘つけと言いたくなる。
しかし、ふさ子との恋が終わったあとの、晩年の老いを嘆く歌は実感がこもっていて身につまされる。

朝のうち一時間あまりはすがすがしそれより後は否も応もなし (「つきかげ」昭和 24 年 67歳)
朦朧としたる意識を辛うじてたもちながらにわれ暁に臥(「つきかげ」昭和 25 年68歳)
いつしかも日がしづみゆきうつせみのわれもおのづからきはまるらしも(「つきかげ」昭和 27 年70歳)

さて、茂吉の恋は本当のところ「老いらくの恋」といえるか。53歳は今であれば、壮年だが、当時でいえば50歳前後はもう老年期か。しかしながら、鰻を食べて元気、精力旺盛だった茂吉に老いらくの恋は似つかわしくない。まぁ、せいぜい「中年の恋」というのがふさわしいように思う。
古来、中年の恋は「七つ下がりの雨」にたとえられるとかで、長雨になるのでまことに始末の悪いものとされる。
七つ下がりの雨とは夕がた四時くらいから降り出す雨で、なかなかやまないという。若い者の恋と違って、たちが悪いのだ。
茂吉の恋もしつこいが、俗諺に「やまない雨は無い」ともいうように、やがてやんだ。

ここで、大歌人に対抗して、戯れに腰折れを一首。

たとふれば七つ下がりの雨やみて老いらくの恋茂吉悶々 しみじみ爺

後世の批評家が解説するだろう。やまないはずの夕方の長雨が雨が止んで、茂吉の老いらくの恋も終わったが、その後も歌人はあれこれ悩む、しかし彼の歌はその後一層輝きを増していくのだ。その様が調べ高く歌われている。茂吉悶々の頭韻も素晴らしい、と言う……言わないか。

さて、茂吉の恋の終焉とともに老境も進むが、歌もますますその芸術性を高めて行くこととなったことは疑いない。
結論が出せるわけでもないが、どうも茂吉の恋は「老いらくの恋」というのには、何故か憚られる。わが理想の老いらくの恋から離れているというだけでなく、1人の未婚の若い女性を不幸にして、歌の肥やしにしたのではないかという疑念も頭の片隅から消えない。その点では、島崎藤村41歳のときの姪こま子との恋を想起させると言ったら酷か。

茂吉の歌は、多くの人の心に届く。幾つか代表作をあらためて読みたい。
昭和9年の茂吉の老いらくの恋(そう呼べるとすればの話だが)の前の歌、恋のさなかの歌、恋の後の歌を比較したら何か発見があるかもしれぬが、残念ながら自分にそんな歌の批評眼はない。尤もこんな比較研究は既に誰かがしていて、不学の自分が知らないだけかも。
まず、恋のさなかに詠まれた(と思われる)ものから。

まをとめにちかづくごとくくれなゐの梅におも寄せ見らくしよしも
清らなるをとめと居れば悲しかりけり青年のごとくわれは息づく
歓喜天の前に行きつつ唇をのぞきなどしてしづかに帰る (昭和12年「寒雲」)

恋の前。
あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり 「あらたま」
あららぎのくれなゐの実を食むときはちちはは恋し信濃路にして 「つゆじも」
新宿のムーラン・ルージュのかたすみにゆふまぐれ居て我は泣きけり (昭和9年「白桃」)

恋のあとの歌。
のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根の母は死にたまふなり 「赤光」
このくにの空を飛ぶとき悲しめよ南へむかふ雨夜かりがね (昭和20年「小園」)
最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも (昭和21年「白き山」)
おぼろなるわれの意識を悲しみぬあかつきがたの地震(なゐ)ふるふころ (昭和26年「つきかげ」)
何やら恋のあとの歌が一番良い気がするのは自分だけか。

ここまで書いていて、茂吉と関係がないのだが、ふと詩人高橋順子と小説家車谷長吉の恋を思い出した。自分は詩人の詩ごころと詩論、連句などについての見識などに惹かれ、彼女の大のファンなのだ。何かにつけて想起することが多い。
この二人は40過ぎて、それも「一緒になりしみじみした生活を送りたいのです」と言って結婚した。
昔の人は、(昔に限るまいが)見合い結婚をしてから恋をしたという。結婚してからも恋をする夫婦も多いとすれば、「老いらくの恋」をゆるやかに、広義に定義して既婚者の恋も含めるとすることもできるのではないか。さすれば、今、高橋順子68歳、車谷長吉67歳。真性の老いらくの恋だ。
ついでながら、それなら私も25歳、つれあい20歳で結婚し、以来47年が過ぎて老いらくの恋真っ只中にある。うん?

いつもつれあいから「あなたの言うことはいつも論理性に欠ける、合理性がないのよ」と批難されている。これとてもまことに、そうだな、高齢化のすすむ中、日本中老いらくの恋だらけになってしまうぞと、さすがに、ちょっと無理があるなと思う。無理が通れば道理引っ込む。老いらくの恋とは一体何かまたまた分からなくなった。
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