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僕にとっての「佐谷画廊の30年」 [本]

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佐谷和彦(さたに・かずひこ)氏は、1928年京都府舞鶴市生まれ。京大経済学部卒業。53年銀行に入行。73年退社して株式会社南画廊に入社。78年佐谷画廊を京橋に創設。82年銀座4丁目に移転。2000年3月、荻窪の自宅に移転、画廊経営を続けた。著書に「ピカソ以後」(73年)、「知命記」(78年)、「私の画廊――現代美術とともに」(82年)、「画廊のしごと」(88年 美術出版社)、「アート・マネージメント」(96年、平凡社)「原点への距離」(2002年、沖積舎)「佐谷画廊の30年」(2006年、みすず書房)。

佐谷氏は滝口修造オマージュ展をライフワークとして、他にデューラー、クレー、ジャコメッティ、リキテンスタイン、ウォーホール、デュシャン、マン・レイなどなど現代美術展を数多く企画主宰して、知る人ぞ知る画廊店主であった。
残念ながら、この本を書いた2年後の2008年逝去。ご子息周吾氏が、現代美術の画廊「シューゴアーツ」を清澄で運営、志を継ぐ。
シュウゴアーツ http://shugoarts.com/information/

佐谷氏は、実は職場の先輩になるが、自分より10年前の入社で20年勤められ、73年に退社されたので、10年間も在籍が重なるのに一度も話をしたことがない。これが今となっては痛恨事である。
佐谷さん、(先輩だから特に許して頂いてこう呼ばしてもらう)が就職されたのは昭和28年で、確か旧制大学と新制大学切り替えの時、2年分の学生が受験したと聞いたことがある。
入行者も多くそれだけ個性があり優秀な人材が多かった。企業では安定数の入社が企業の長期的な安定性をもたらす。不況時に採用数を減らすのは100年の計を誤る。
戦後の年功序列重視の会社では特にそうだ。佐谷さんの同期の28年組は、競争を勝ち抜いただけあって優秀な社員が多く、企業の発展に多大な貢献をした。しかし、後に続くものは、不況で新入社員も少なく、ワリを食ったと言えなくもない。が、そんなことはここでは、どうでも良いことだ。

45歳で妻と3人の子があったのに、絵が好きだったとはいえ、画商、それも売れないだろう現代美術の世界に大転進をしたのには、自分のこととに比べ、何と言って良いのか言葉もない。それ以上に賛成した奥様には、頭が下がる。さらに息子さんが、遺志を継ぎ画商になるとは。羨ましいの一語に尽きる。

佐谷さんと同期の10年先輩の方々には、ずいぶんと仕えた、が佐谷さんという名前を聞いたことがあったけれども、ご本人とはご縁がなかった。
銀行には転勤がある。佐谷さんは札幌勤務があるようだが、自分は大分、福岡、静岡など西が多く北は新潟どまりだ。

2000年ごろ、担当の一部に管財の仕事があり、銀行に飾る絵を買う予算を預かったことがあり、絵が好きだったこともあり銀座や京橋の画廊を訪ね、絵を見せてもらったことがほんのいっときあった。
なぜ、あの時佐谷さんに会おうとしなかったのか、本業が忙しかったといえ、今でも心に残る。むろん、現代絵画では銀行の壁に合わないであろうが。お会いして、話だけでも聞けば良かったと悔やまれてならない。

また、退職後の同期会で、かねてから詩や短歌をやる同期のH君が、亡くなる前だったが、「君は佐谷さんと話をしたことがあるか」と訪ね、無いと言うと、「きっと話せば、君なら話が合い面白いと思うよ」と言ったことがある。彼は、先輩と良き交流があったに違いない。

あれや、これや言っても詮ないが本当に、バカであったと今回この本を読んで改めて思った。実はこの本は図書館で見つけて、一度借りてきて読んだことがある。丁度第二の就職先でつまらぬトラブルに巻き込まれた時で、情けないことに心が何処かへ言っていたのであろう。流し読みだった。
今回手にして、あぁ、デューラーの「メランコリアⅠ」はこれで読んだのだと思い出した。八面体の謎の話を思い出したのである。クレーの話や三好達治の話も面白く読ませて貰った。

先輩は良い仕事をされた。我が職場にも、立派な人があまたおられたのだ。あらためてOB会の物故者名簿を見たらジンと来た。
チャンスを、むざむざ逸した自分の愚かさをしみじみと嘆いているところだ。





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