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カール・ラーションの水彩画 [絵]

カール・ラーション(Carl Larsson)は、1853年ストックホルム生まれ のスウェーデンの画家である。自分の家庭、妻や子供を題材として当時の中流階級の日常生活風景の作品を数多く描いた。
線描で緻密ながら幸福な家族の情景を主に水彩画で表現し、人々の心を捉えた人気作家である。その線描様式は、フランス印象派の画家に多大な影響を与えたとされる。1919年 66歳で没した。

ラーションは、1877年(24歳)にはパリに旅行し、モンマルトルやバルビゾンで貧しい暮らしを送りながらも制作を続ける。
1878年にスウェーデンに帰国するが、2年後再びパリに戻る。1882年芸術家の集るパリ近郊のグレー村で、水彩画に自然の光を取り入れ、彼の絵は一変したという。その絵が周囲に高く評価される。
女流画家のカーリン・ベーリェーと1883年に結婚した。長女スザンヌをはじめに7人の子宝に恵まれると、画家は自分の家族を題材に線描様式の絵に取り組む。
1890年から水彩画のシリーズ「私の家」を制作し、1899年に画集として出版されるとこれが高い評価を受けた。ここでもラーションは、それまでの写実的な絵から大転換を遂げる。
ラーションもまたジャポニスムの影響を強く受けた。私の家シリーズで確立した線描様式は明らかに浮世絵、錦絵などから生まれたものとされる。グレー時代の油彩風の水彩画とは全く別物である。

ラーションが1889年に描いた『Rokoko-Renässans-Nutida konst』の1枚、「新しい芸術(今日の芸術)」は、それを如実に示す。この絵の中の女性像の左斜め上に、丁髷をし筆を持った日本人が描かれている。彼は浮世絵の絵師をイメージしたものであろうと言われている。日本人絵師が「新しい芸術」を生み出すことを暗示していると解されている。
これほどにラーションは日本の美術を高く評価し、「日本は芸術家としての私の故郷である(1895「私の家族」)とまで言っていたと言う。

いま、日本の水彩を描く人たちから線描様式はあまり好まれないようだ。
ちまちまとデッサンの上に塗絵のように着彩し、線にとらわれて水彩の持つ色の良さを出しきれない。建築士の完成予想図パースのような味気なさだと評判が悪い。
これで日本の水彩画は、確実に50年は世界の潮流から遅れた、とまでいう人がいる。

ではどんな水彩画を目指しているかといえば、線を最小限に抑え、面と色彩を重視した水彩画である。いきおい、油彩画風になる。水彩画のカルチャ教室や水彩画教室の先生方のご推奨は、こちらが多いのではないか。
しかし、ラーションの絵を見ていると線画水彩画も味があるなと思う。特にラーションの水彩画はアニメーションのフィルムを一瞬止めたような動きのあるものが多く素晴らしい。なにより、落ち着いた穏やかな雰囲気は人の心に静けさをもたらしてくれる。
持つムードは異なるし、油彩画だから比較するのも変だが、アルフォンス・ミシャ(1860-1939)の線画は、ラーションの線描様式と似ていると言えなくもない。ミシャの線と装飾的な構成には、日本でもファンが多い。ちなみに探して見たが、ミシャにはグワッシュが一枚あっただけで、水彩画は殆どなかった。

油彩も同じだが、水彩にもまた色々あって人それぞれ、遅れた、進んだなどというのは見当違いだろうと思う。

そういえば、日本のお家芸のアニメの背景やイラストレーションでは線描様式そのものが多く使われている。皮肉ではある。

美術館の階段上部に展示する壁画として、ラーションが制作を始めた「Midwinter 's Sacrifice 冬至の生贄」(1914-5)は、画家と依頼者である国立美術館のトラブルで有名な絵だが線描様式のフレスコ画である。
この絵やその下絵の小さな水彩画を見ていると、外光主義を取り入れた写実主義(仏語では、レアリスム)の水彩画から線描様式の家族を描いた水彩画まで、ラーションは振幅幅が大きいなと思う。同時にその変化をもたらしたもの、触媒、動機が何なのか知りたいものだと思う。妻、子供、家庭なのだろうか。きっと複合的なもので、もちろんそれだけではないのであろう。

以下、その振幅の幅広さを確認するために並べて見た。画家の転機、大化けとは一体何が触媒となるのかなどと考えつつ。

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「Landscape Study from Barbizon 風景画の習作 バルビゾン村」(1878 油彩)画集では一番若い時の作品。
「In the Kitchen Garden 菜園にて」(1883 水彩) 1883年は結婚した年。
「The Old Man and The New Trees 老人と若木 」(1883 水彩)
「October 10月」( 1883 )油彩だろうか。線、色とも鮮やか。
「El estanue de watercolor 」(1883 )estanueがどうしてもわからない。
「View of Montcourt モンクール景観」(1884)モンクールはパリ南東スイス寄りの地。
「Rokoko-Renässans-Nutida konst 新しい芸術(今日の芸術)」(1889)パリ万博で入賞した(三連)祭壇画。
「Apple blossomりんごの花 」(1894 水彩)この作品あたりが転機か。あくまで想像だが。結婚してから10年ほど経つ。
「Brita and me ブリータと私」(1895 )ブリータは三女、2歳のとき。水彩と思われる。

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「The Cottage from 'a Home 'series 田舎屋 '家'シリーズから 」(1895 )水彩であろう。この緻密さはどうだ。1901年から一家で暮らしたスンドボーンのコッテージ「リラ・ヒュッテネース」
「Self Portrait 」(date unknown 1895年制作とする画集もある)イーゼルの前の自画像。
「Siri Anders Larsson アンダース ラーション」(1897 Gouache , Watercolor pen and ink on paper)
「A Late-Riser's Miserable Breakfast お寝坊さんの朝食」(1900)明記されてないが水彩であろう。
「Red and Black 赤と黒 」(1904 水彩)ラーションにしては変った画。
「My Eldest Daughter 私の長女 」(1904 Watercolour and Bodycolour) 長女スザンヌの肖像。赤ちゃんのときのものもあるので、美しく成長したことが分かり、見る人は思わず微笑む。
「Christmas Eve クリスマスイブ 」(1904-5 水彩 )ラーションの代表作のひとつ。
「Fishing 漁 」(1905 水彩)
「Esbjorn Doing His Homework 宿題をするエスビョルン」(1912 水彩)モデルは三男。

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「Lile Matts Larsson マッツ ラーション 」(1912 水彩)
「Self Portrait in the Studio スタジオの自画像」(1912 水彩)59歳
「Woman Lying on the Benchベンチに横たわる女性 」(1914 水彩)
「Midwinter 's Sacrifice 冬至の生贄 」(1914-5 Fresco )6.4m×13.6mの大作。
「Preparatory Sketch for 'Midwinter 's Sacrifice ' '冬至の生贄'のための予備的なスケッチ」(date unknown watercolor on paper )44.5×78.0cmと小さい。他に何枚かある。
「Girl with Apple Blossoms 林檎の花と少女」(1914 水彩)
「自画像 」(1916 )63歳。背景に冬至の生贄のドーマルディ王が描かれている。
紛争となった自作への自信と誇りのほどを示しているとされる。
「By the Cellar 地下藏のそばで 」(1917 水彩)亡くなる2年前の作品。晩年も童話の挿絵のような穏やかな絵を描いていたと分かる。

「カール ラーション わたしの家 」ウィルヘルム・菊江編 講談社)によれば、「わたしたちの家庭の思い出の記ともなるような水彩画を描いてみたら?」と妻のカーリンから提案されて描いた画が、ストックホルムで好評となり、その画集がヨーロッパ各地の人々に感銘を与えたとされる。
ラーションの変身に、画家でもあったカーリンが重要な役割を果たしたことは、疑いがない。水彩はじっとしていないモデルの子供を早描きで捉えるのには、最適な技法でもある。そして、確かに家庭の思い出の記を、「水彩で」描こうとすれば線描様式が適っていると後から考えればその通りだが、画家ラーションの心の中ではどんな変化が起きたのか、もう少し知りたいものである。

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