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葛飾 応為の水彩画風浮世絵 [絵]

葛飾 応為(應爲 かつしか おうい。生没年未詳、1801年頃の生まれか?)は、19世紀江戸時代後期の浮世絵師。葛飾北斎の三女である。名は栄(えい)。北斎(1760-1840)のGhost Painterでもあったのではないかという説がある。

「本朝 浮世絵名家詳伝」(明治32 関根黙庵著)によれば、応為の慨略歴は次のようになる。

・應爲は北斎の三女にして 通称を阿栄と呼びたるものなり。
栄女初め橋本町の油渡世、庄兵衛の男吉之助へ嫁せし が 障る事ありて離別となりぬ。
・後、再縁をすすむる者ありといへども かたくこばみてしたがわず。
専ら父が業を助け 美人を描くにいたりては 父にも優りたりとの高評ありき。
・晩年にいたり仏門に帰依して、爾経に怠らず。 常に茯苓(注)を服して、女仙とならんことを望めりとぞ。
栄女は没年詳ならずといへども 安政二、三年の頃、加州侯寡婦の老衰をあわれみ 扶持せられしが、ついに加州金沢において 病にかかり没せしようにききね。
(注)ぶくりょう =担子菌類サルノコシカケ科のきのこの菌核のこと

北斎は89歳で亡くなる直前まで、力強い絵を描いたと伝えられていることに、疑問を持つ人は多い。死が迫っているのに、あれだけ迫力ある絵がかけるのだろうか?というほどの傑作を描いた。そこで代筆説が生じる。
理由は北斎が晩年中風に悩まされていたことなどがあるが、第一はこの応為の存在である。
しかし、上掲関根黙庵の評伝には、それらしき記述は無い。

彼女が北斎のghost brushであったとする説で書かれた小説が「北斎と応為 」 (「The Ghost Brush 」2010 キャサリン・ゴヴィエ Katherine Govier/著 邦訳は モーゲンスタン陽子 彩流社 2014.6)である。
応為の絵は確かに優れたもので高度な技術を持っていたので、ゴーストペインターと疑われるのは、ごく自然だが、当時の徒弟制度に支えられた浮世絵工房システムが背景にあることは疑いがない。木版画であれ肉筆であれ、北斎が手を入れなくとも絵は完成し、落款と印章を押捺すれば北斎の絵になる。

応為作といわれる絵を見てみよう。

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「吉原の図」、別名「廓中格子先図」(制作年不詳 太田記念美術館 )廓の中の明かり、外の提灯の灯り。逆光は、よく水彩画でも好んで描かれる。光と影の処理は西洋画そのもの。
応為の代表作の一つであろう。

「夜桜美人画」「春夜美人図」(しゅんや びじんず)絹本 着色。メナード美術館所蔵。
これも暗がりと光の扱い方が日本画では珍しい。特に満天の星はどうやって描いたのか興味深い。点は白のほか何色か着色されているようだ。水彩のマスキング液を使ったスパッタリングのよう。

「三曲合奏図」(さんきょくがっそう ず)絹本 着色。米国、ボストン美術館所蔵。英語題名 「Pictorial evidence for sankyoku gassou」。琴、三味線、胡弓の弦楽トリオ。音楽が聞こえてくるような軽やかな動きのある絵である。構図もさることながら、三人の手と着物柄の配置もリズミカルだ。自分は応為の絵ではこれが一番好きである。

「北斎阿栄居宅図」弟子の露木為一が描いたもの。北斎がアゴと呼んだ応為が座って煙管を持っている。右の布団をかぶって作画中の北斎より目立つ。

「唐獅子図」(1844年) 葛飾北斎 83歳ごろ、応為は43歳頃か。伝親娘のコラボレーション。
鮮やかで力強い浮世絵。真ん中の獅子が葛飾北斎の作、周りの花を描いたのが娘の応為とされる。絵には画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)筆とあるだけだが、どうして応為が関わっているとするのか自分にはわからない。

「 関羽割臂図」(かんう かっぴ ず 英語題名 「Operating on Guan Yu's Arm」絹本 着色色。米国、クリーブランド美術館所蔵。旧麻生美術工芸館寄託)。応為の署名がある。江戸時代の女性の絵とは思えぬ激しい絵である。手術中の関羽は碁を打っている。

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「端午の節句」
描かれているのは、二階の部屋のように見えるが、視点が非常に低いのが特徴である。

「節季の商家」(英題名 「A Merchant making up the account 」)
手前のそろばんをはじいている人物の手前にある当座と書かれた帳面には、「文政七(1824年)」と書かれている。制作時期は文政7年から9年頃(1824-1826)と推定されている根拠である。応為24、5歳くらい、父北斎は64、5歳くらいか。
「端午の節句」と「節季の商家」の2枚とも落款、印章がないが北斎作とされた。が、手の指の描き方が、應爲(お栄)の落款がある ボストン美術館所蔵の「三曲合奏図」の指の描き方に酷似しているところからお栄が関係していた可能性は、高いとされる。
この2枚はオランダ国立民族学博物館所蔵(シーボルト・コレクション)。 紙はJ.C.Honing社製のオランダ紙。北斎作品とされるが、北斎とお栄の共同制作とも推定されている。いわゆる広義の北斎作品。

「月下玉川砧図」(げっか きぬたうち びじんず 紙本 着色 東京国立博物館所蔵)。北斎をして、美人画は俺より応為の方が上、と言わしめただけのことはある。

応為のこれらの絵には幾つかの特記すべき点があると、専門家に指摘されている。
オランダ商館長たちが 北斎に依頼し描かれて、故国に持ち帰ったものが多く、ベロ藍(ベルリン青、人工色素)、洋紙(オランダ製)が使用されている作品があることや遠近法のみならず陰影法が使用されていることなどである。浮世絵には珍しく陰影、光源まで意識されて描かれていることや視点の低い作品がかなり多いことなどである。
おそらく注文主と制作集団との間に、絵についてのやりとりもあったであろうと想像され、アマチュアにとっても興味は尽きない。

上掲の「北斎と応為」では応為とシーボルトとの劇的な出合いが書かれているが、絵が流出し、結果的に北斎が世界に知られ西洋絵画に多大な影響を与えた。その端緒となった応為作といわれるこれらの絵を見ると、鎖国、幕末の騒乱、開国などの歴史の中の芸術品UKIYOEの運命についてしみじみとした感慨がわいてくる。

アマチュアの自分には応為の絵の多くが、水彩画の雰囲気や技法に近いように見える。キャサリン ・ゴヴィエも「北斎と応為」のあとがきで、「オランダ ライデンの国立民族学博物館に行き私もその(フォンシーボルトらが集めた)水彩画と巻物を見たー、水彩画の中には、オランダ鉛筆での構図の下書きが云々」などとごく自然に「水彩」と記述している。ヨーロッパの人には、肉筆の浮世絵はウォーターカラーそのもに見えるのであろうか。

浮世絵ながら、応為独特の画風は後の小林清親などに引き継がれて行ったのではないかとも思う。小林は「最後の浮世絵師」とか「明治の広重」と呼ばれたが、「光線画」といわれる西洋画の影響を受けた水彩画風の絵を描いたことで知られる。まるで応為の絵に触発されているようだと言ったら、専門家に笑われるだろうか。

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