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富永太郎の水彩画と立原道造のパステル画(2/2 終) [絵]



かたやもう一人の詩人、画人。立原 道造(たちはら みちぞう)は、1914年(T3)東京日本橋生まれ。富永太郎の13歳年下。同じく昭和初期に活動した詩人。
府立三中、一高、帝大建築卒。建築家としても足跡を残している。1939年(S14)富永と同じ病氣の結核により24歳で急逝した。中原中也賞、辰野金吾賞受賞を受賞している。

代表作 「優しき歌Ⅰ Ⅱ 」「萱草に寄す」は青空文庫で読める。この人の詩は、富永より抒情性が強いように思う。多くの詩に曲がつけられたというのも頷ける。
詩以外に短歌・俳句・物語・パステル画・スケッチ・建築設計図などを残した。道造の優しい詩風には今日でも共感する人は多く、文庫本の詩集も刊行されている。

残されている立原道造の絵は、殆どパステル画である。何故パステルにしたのか、理由は知らない。建築家だからパースを描いたのではと思うが、水彩は見つけることが出来なかった。油彩画は、亡くなる前年のものがある。

パステル画は、小さいときから親しみ、府立三中(都立両国高校)絵画部にはいってから本格的に描きはじめ、学芸会などに毎年作品を出品していたという。現存するパステル画約一〇〇点の殆どは、この三中時代の十三歳から十七歳(1927-31年)頃に制作されたと推定されている。それらの作品は、生家のあった日本橋・静養先の流山(旧新川村)・避暑をした御岳の風景画、身近な物を描いた静物画、心象スケッチともいえる抽象画、人物画と、画題は多岐にわたってる。
よほどパステルが、好きだったのであろう。20歳の時、「文集ノート」(昭和4年)に次のように書いている。

パステルは
やはらかし。
うれしかり、
ほのかなる
手ざわりは。
うれしかり、
パステルの
色あひは。

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「二匹の魚 」仮題 (パステル 1927-31頃)
「飛行船 」仮題 (パステル 1927-31頃)
「ヒアシンスハウス」 (1938)
 立原は彼の仕事場としてヒアシンスハウス(風信子荘)を浦和に立てようと計画して設計し、二月から四月までその計画を具体的に進めていたが、病いなどでほとんど実現する直前でやめ、実現しなかった。その設計図。
「少女とお菓子」仮題 (パステル 1927-31頃)
「色紙 」(1938)紀元二千五百九十八年 晩秋とあるから、昭和13年(1938)とわかる。紀元二千六百年は、1940年でわが誕生年であり太平洋戦争開戦は2年後の12月である。
「街上比興 」(パステル 1927)
「H子の像」 (1929昭和4 パステル)モデルは友人の妹の金田久子 と言われている。
「信濃追分にて」仮題 (油彩1938)
「恋人の水戸部アサイの写真 」立原は大学を卒業し、建築事務所に入社する。そこで三戸部アサイと知り合う。彼女は病氣の詩人を支え、亡くなるまで献身的に看護した。詩人の詩作にも大きな影響を与えたであろうことは想像に難く無い。詩人との短かすぎる恋の後どう生きたのであろうか。

立原道造の代表作の一部。
「優しき歌 Ⅰ」燕の歌
春来にけらし春よ春  まだ白雪の積れども         ――草枕
灰色に ひとりぼつちに 僕の夢にかかつてゐるとほい村よあの頃 ぎぼうしゆとすげが暮れやすい花を咲き山羊が啼いて 一日一日 過ぎてゐた

「萱草(わすれぐさ)に寄す」
SONATINE No.1
はじめてのものにささやかな地異は そのかたみに灰を降らした この村に ひとしきり灰はかなしい追憶のやうに 音立てて樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

詩人の絵は、言葉で表現するのでなく色や線で表すことになるのだが、画家のそれとどう違うのか、
詩と絵については、もう少し勉強する必要がありそうだ。しかし詩が何か、絵もまた解らずに詩画を考えるのはムリというものか。

蛇足ながら、いつも思うのは明治、大正、昭和の肺結核の猛威。若い命を容赦なくうばった。もう少し早くストレプとマイシンがふんだんにあったら詩もさることながら、どんな絵を描いただろうか。

二人の24年の生涯と比べて自分は3倍生きている。詩も絵も解らずに。

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