アウシュヴィッツ解放70年ーヴァイツゼッカーの演説とヒトラーの水彩画のことなど [随想]



今年は、第二次世界大戦終結、太平洋戦争敗戦から70年。歴史の語るところに耳を傾け、事実に眼をそむけず対峙せねばならない。
かかわったすべての国が、それぞれの70年の戦後を歩んでいるが、これからの未来を考えるうえでかつて国が、人がやったことを直視することこそが原点であろう。
なにやら気になるわが国の最近の動きは、また別の機会に譲り、今回は同じ敗戦国のドイツのこと。

ドイツもアウシュヴィッツ解放70年の年である。
くしくも先日、ドイツキリスト教民主同盟の元大統領リヒャルト・カール・フライヘア・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard Karl Freiherr von Weizsäcker、1920 - 2015 )の死去(1月31日94歳)が報じられた。
ヴァイツゼッカーは、今から30年前の1985年5月8日の連邦議会における演説、「過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」の言で知られるドイツで最も尊敬された政治家である。ドイツの良心とも呼ばれた。
この演説の日はドイツ降伏40周年にあたり、ヴァイツゼッカーはこの記念日を「ナチスの暴力支配による非人間的システムからの解放の日」と呼んだ。
また、この演説のなかで、「過去についての構え」である罪と「未来についての構え」である責任とを区別し、個人によって罪が異なるとしても共同で責任を果たしていくことを提唱した。同時に「若い人たちにお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでほしい。われわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい」とも述べ、多くの人のから称賛を浴びた。
今の世界のどこの状況においても、じっくり噛みしめるべき歴史的名演説である。


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さて、ホロコーストを主導したアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler, 1889 - 1945 )は、ドイツナチスの総統だからドイツ人と誤解している人が多いが、オーストリア人。あまり書きたくない人物の一人だ。

1945年春にルーズベルト、チャーチルらの率いる米英軍とスターリンの赤軍は東西からドイツ領へ侵攻を開始し、1945年4月30日にヒトラーは赤軍が迫り来るベルリン内の総統地下壕内で妻エヴァとともに自殺に追い込まれる。時にヒトラー56歳。

そのヒトラーが、若き日画家志望だったことは良く知られている。
1906年17歳の時、遺族年金の一部を母から援助されて、ウイーン美術アカデミーを受験したが芸術的な感性はなかったのか不合格となる。1908年にはついにアカデミー受験を断念する。

1906年には、ヒトラーより一歳年下で後に画家として名を成したエゴン・シーレ(Egon Schiele、1890- 1918)が工芸学校を卒業後、16歳でアカデミーに入学している。ヒトラー、グスタフ・クリムト(Gustav Klimt, 1862 - 1918)と同じオーストリア人である。

関連記事 クリムトとシーレの水彩画

http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2013-04-30

ヒトラーは、1914年第一次世界大戦に志願兵になるまでの間、遺産を取り崩しながらの生活ではあったが、自作の絵葉書や風景画を売って小額の生活費を稼いでいたとも伝えられているくらいだから、画家になりたかった思いは相当強かったと思われる。

後に退廃芸術展やバウハウスの強制閉鎖など、ドイツにおける芸術の自由を剥奪する行為を繰り広げたことと、若き日に正規の美術学校に入学できず画家になれなかった挫折感とを結びつけたりされるが、あまり意味は無かろう。当時の美術界に及ぼした影響は小さいとは言わないが、ヒトラーがやった他のことからすればいかほどのことではない。

ともあれ、ヒトラーは、1905年(16歳)から1920年ごろにかけて、およそ2000点の作品を描いている。水彩画が多い。

これらの絵を見て、彼がやった忌まわしい行為と関連させることは到底無理である。ただただ、ウィーン美術アカデミーに首尾良く合格して、絵を描き続けそのまま画家になって欲しかったと思うだけである。

ネット画集のアーチスト・アルファベット「H」の項にヒットラーの絵があった。「アーチスト」とは!。あまりじっくりと見たい絵では無いが何枚かを。

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「Self-Portrait on a Stone Bridge石橋の上の自画像」 (1910)本人らしき橋に座る人物の頭上の×(バツ)印はなんだろうか。

「The Courtyard of The Old Residency in Munichミュンヘンの古い邸宅の中庭」(1913)

「Destroyed Tank破壊された戦車」(1916 ) 志願して伝令兵となったのが1914年。だから兵役中の絵であろう。1918年頃まで同じような戦場やタンクなどの絵を、淡彩で何枚か描いている。何のつもりか。

「Rolling Hills

「Perchtolsdorg Castle and Church」

「Still Life with Flours 花の静物」

「The Munich Opera House ミュンヘンオペラハウス」

「White Orchids白い欄」

「わが闘争初版本」(1925年発行)

昨年「ヒトラーの水彩画13万ユーロ(約1900万円)で落札」、と東京新聞が報道していた。絵は「ミュンヘンの戸籍役場」と題する水彩画という。(14.11.25付け)。
ヒトラーの水彩画は、2006年、2009年にも発売され、最も安いもので140万円程度、最も高いもので1700万円ほどで販売された実績があるというから呆れる。購入者はいったいどこに展示するのだろうか。
むろん、これらは絵としての値段ではなく、プレスリーのはいたズボンの価値のようなものも値段に入っているだろうから、さしたる金額ではないが、ヒトラーが本物の画家になっていたらというタラレバ妄想を抱いてしまう。
詮無い繰り言と分かっているけれど、これらヒトラーの絵を見ていると何やら虚しい気分にも襲われる。気分をうまく表現できないが。沈鬱か。

絵を描くという人の行為、その人が過ごしている平和な日常と個々人がつくっている国が遂行する戦争の狂気との間は、決して遠くかけ離れたものではないことをヒトラーの絵は教えているのではないかという気がする。

繰り返しになるが、今年はアウシュヴィッツ解放70年。われわれは、歴史の語るところに真摯に対峙せねばならないー、ヴァイツゼッカーに学ばねばならないーとあらためて思う。

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