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高山辰雄のパステル画3ー自寫像 2006年 [絵]

「父 高山辰雄 」高山由紀子著 ( 角川書店 2011)は、脚本家、映画監督の長女が父の画伯との想い出を綴ったものである。没後3年たってから書かれているので、晩年の画伯の様子がことに興味深い。

また、娘が父の絵を語っているところは、本人が絵を描かないので、感じ方、見方などがアマチュアには分かりやすく、多くの箇所で腑に落ちる。

本の表紙は、最後の日展出品作となった「自寫像2006年 」(本制作)である。自画像と称さず、ありきたりの自画像でも無い。老人らしき男が一人杖をついて立っている不思議な絵だ。
娘はこの絵を近づく自分の死に立ち向かう父の孤高の姿と単純に見ない。画伯は「生みつけて殺す」とどこかで書いていたという。誰がそうするのか、何故そうするのか、画伯が生涯問い続けたこの生と死への疑問に答えることが出来ない父の怒りの姿と見る。
生みつけて殺すとはきつい言葉である。高山が若き日に惹かれたというゴーギャンに「我々はどこから来てどこへ行くのか」という絵があることやオマル・ハイヤートの「ルバイヤート」厭世四行詩を連想させる。
「もともと無理やりつれ出された世界なんだ、生きてなやみのほか得るところ何があったか?
 今は、何のために来り住みそして去るのやら わかりもしないで、しぶしぶ世を去るのだ!」というあれだ。
高山はだから生き物は、みんな必死で生きようとしており、それを表現したいのだという。高山の日本画が謎めいている理由の一端を教えてくれているようにも思える。

ことほどさようにアマチュアには、高山の日本画は難しすぎるが、それはさておき、ユニークなパステルは充分愉しむことは出来る。


「鳩 」(1977 )パステルであって日本画ではないからか、「本制作と記してない。またスケッチ、構想、下図とも書いてないので、パステル画としてのタブローか?とすれば稀少な絵といえよう。
「白明の時 」(小下図 1979)幻想的な絵。本制作品を見たいものだ。
「鳩 」(小下図 1977) 上の鳩と制作年は同じだが、上の「鳩」(1977)は日本画ではないし、似ていないのでその下図ではなかろう。
「海を想う」(構想 1980 3枚とも)一枚はボールペンにパステル。他の2枚はパステルのみ。
大分勤務では、年に2回全ての漁協を訪ねた。個人的には大分の海は、大分港、別府、杵築、臼杵、佐伯、蒲江湾に数え切れない思い出がある。
「海を想う 」(1980 本制作)それにしても2羽のカナリア(?)は海となじまない気がするのだが、画伯の意図は奈辺にあるのだろうか。
「花 」(小下図 1979)
「由紀子 」(1947頃)
「パンを食べる」( 1947頃)この2枚は、長女由紀子がモデル。線があってハードパステルの描き方のように見える。
「月のある丘 」(構想 1989)画伯77歳の時の作品。おぼろげながら母娘像とやっとわかる。右上に月が。



日本画に「少女」(1948 本制作)がある。パンを食べている少女だから、由紀子をモデルにした上の絵から構想したのか。
他にも高山には「食べる」(1973 本制作)という不思議な絵がある。こちらは子供が中腰で食事をしている。食べることは生きると同義語であって、高山にとって、別の生き物の命を食べねば生きられぬ人間の根源、原罪は大切なテーマの一つだったように思える。
「穹 きゅう」( 1964 本制作)月が日本画の月らしくなく、独特な雰囲気を作っている。杉山寧の青いスフィンクスの「穹きゅう」(1964本制作)と好一対。
「自寫像 2006 年」(下図 と本制作 )下図は由紀子によればボーペンとのこと。
「限りなき大分 」(リトグラフ)大分の海、山がふんだんに見られる。モノクローム。
「九住高原」(スケッチ 墨 1981頃)今は久住高原と書くのではなかったか?それにしてもこの迫力は尋常ではない。

さて、絵と関係なく、上掲の本の娘の文章から、大分を随分思い出させて貰ったが、一つだけを。

晩年の高山の病床を見舞った元大分県知事 平松守彦氏が、母校大分中学の校歌を大声で歌ったが、既に画伯は反応を示さず、平松が涙を拭ったというくだりに胸を打たれた。
6期24年つとめた元県知事は、1924年生まれで今は引退しているが、自分が大分で働いていた時も一村一品運動で名を馳せていた、画伯より12年後輩だが、二人の親交はあつかったという。
大分中学 の校歌 はこうである。

大空高く月澄みて 雲吹き荒ぶ秋風に 晴るる高嶺の麓より 白く流るる由布川の 水に尽きせぬ恨みあり
春秋秋雨五百年・・・

昔の中学の同窓生はみな先輩、後輩のつながりが強いように思える。
平成の鬼平といわれた三重野元日銀総裁も大分中学卒。弟さんがわが職場の先輩にいられ、もう家は無かったが臼杵のご実家のあった地を一緒に訪ねたことがある。わしらは賢兄愚弟でねというのが口癖だった。二人とももう亡くなられて久しい。

例によって話がパステル画や高山画伯から大きく飛ぶが、大分は、小県ながら三重野康(26代 満州ー臼杵市)を含め4人も日銀総裁を輩出している。他は山本達雄 (第5代 臼杵市)、井上準之助(11代 日田市)、 一万田尚登(18代 野津原町)。稀有なことである。そのせいか、日銀の支店の格は日銀内で高く、大分県内でも支店長さんは特別に尊敬されていたように思う。

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