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丸谷才一「持ち重りする薔薇の花」を読む [本]

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丸谷才一は気になる作家のひとりである。このブログで書くのは三回目になる。詩人大岡 信や歌人岡野弘彦らと巻いた歌仙集が最初で入り口であったが、彼の随筆をよく読む。ふだんから小説はあまり読まないが、「年の残り」、「裏声で歌へ君が代」なども読んでいる。(関連記事は末尾に記載)

先日、図書館の文庫本コーナーで「持ち重りする薔薇の花」(新潮文庫)を見つけたので借りて読んだ。この変わった題名の小説は、丸谷才一のものだということは知っていたが、どんな話かは知らなかった。「持ち重り」は、「持っているうちに次第に重く感じてくること」と辞書にある。
はやとちりであるが、題名が七・五で調子の良いことからして、丸谷才一の好きな連句の話か、あるいは「持ち重り」から連想して俳句の話かと思った。手にとってパラパラとめくって見ると、とんでもない見当違いであった。

「持ち重り」から、そんな俳句があったなと連想したので、家に帰って歳時記例句を探したところすぐ見つかった。iPadアプリはこんな時便利である。キーワードは、芒(すすき)。手にとったら意外に重かったといった句だったと頭の隅にあったのである。この句はひらがなだけで表記されていて、独特な雰囲気を出して印象に残る。

をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田蛇笏

さて、「持ち重りする薔薇の花」は、中七、下五とすれば上の句に何でもつけられそう。

例えば、蛇笏の上掲句の本歌どりを気取って

剪りとりて持ち重りする薔薇の花。とか、

金婚や持ち重りする薔薇の花
と上五をつければわが今の心情を詠んだことになりはしないか。

尤も、俳句では薔薇の花とは言わないのではないか。薔薇は夏の季語だが、薔薇そのものが花だからばらといえば花を指すのは、「薔薇の芽」と言えば春の季語になることでも分かる。花は俳句ではさくらのこと。

余談はさておき、小説の話である。
「持ち重りする薔薇の花」は、連句や俳句からはおよそほど遠いクラシックの弦楽四重奏団、カルテットの話である。
丸谷才一は1925年生まれで 、惜しくも2012年87歳で亡くなったので、その前年86歳の頃に書き上げた最後の長編小説(2011.10刊行)という。
小説を書くというのは力仕事らしく、たいていは、壮年を過ぎると筆を折り、晩年には短編や随筆だけにする作家が多い。この小説は、2010年2月胆管癌を手術した後に、本格的に書き始めたというからすごい。最後に何を書きたかったのか、という意味でも興味も沸く。

薔薇の花束を四人で持つのはしんどい、持ちにくく面倒だぞ、厄介だぞ…と帯にある。
その薔薇の花束とは、カルテットである。四人というのは言わずと知れた第一、第二ヴァイオリン、チェロとヴィオラ奏者。四人は音楽家であるとともに、個性を持った社会的な人間だが、それ故にひとつにまとまって優れた音楽を作り出すというのは、難しいぞと言っているのだ。

さらに、カルテットを会社、あるいは社会に擬して演奏者を組織、社会における人間と見立てる。企業運営も音楽芸術も人の作り出すもの、その人は組織や社会の影響を受けざるを得ないのだという比喩というから、それこそ厄介である。

近代小説は社会性が欠如しているという作家の主張が小説のテーマだと、巻末の作者インタヴューや解説にある。丸谷は、一貫して私小説は日本特有のもので社会性が薄いと批判しているのだ。
それにしてもなんと迂遠な小説とテーマ設定の関係ではある。風が吹けば桶屋がではないけれど、連想から連想へまさに連句のおもかげ付け、匂い付けみたいな感じを受ける。
読み終わってふむそうかと感心させようという作家の魂胆が見えるが、解説を先に読んでしまえば、何ということもない。

小説のテーマは深遠だが、ストーリーの語り手、聞き手、4人の音楽家やその妻などの話にまつわる多彩な細部の記述にはいつもながら舌をまく。小説はテーマはもちろんのこととして、細部ディーティルも重要だというが、その多様で詳細な記述には驚かされる。丸谷の雑学を含めた豊富な知識をもとに、あたかも湧いて出るように次々と繰り出されるおもむき。

一例をあげれば、第一ヴァイオリンの妻は職業が投資銀行(インベストバンク)のバンカーで企業買収(M&A)の有能な担当者だが、自分がかつて銀行員で見聞きした経験や情報に照らしても、彼女の業務や報酬などが微に入り細にわたって書かれている。もっとも自分の知識もハイレベルではなく、余りあてにはならないけれど。

丸谷才一の随筆を読むと分かるが、その博覧強記は並のものではない。読むほうが疲れてしまいついていけないほどだ。

丸谷のいう社会性というのは、何か。小説の場合、登場する人物の生活、実社会、経済との関わりであろう。人間の内面だけ掘り下げたつもりでも駄目だということか。
近代社会批判もするというが、この本が上梓されたのは、3.11東日本大震災、原発事故の起きた年である。
勿論この小説はテーマが芸術を素材に語られているので、3.11が触れられていなくても全く不自然ではないが、作家は日本の政治、社会状況をどう捉えていたのかには興味がある。

蛇足。新潮文庫のカバーの絵は和田 誠。ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラの弦を途中で持ち上げ支える駒4つ。一番背が高いのがチェロ。あいかわらずおしゃれな絵である。

関連記事
「丸谷才一の随筆」
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2012-12-24

「歳末に丸谷才一「年の残り」を読む」
http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2012-12-30
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