那須烏山の記(二) 蛇姫様と夜半亭一世 [随想]
烏山は近くを那珂川が蛇行して流れ風光明媚、古い土地柄で江戸時代は烏山藩3万石の烏山城があった。国の重要無形民俗文化財となっている夏の山あげ祭(むかし「天王さん」といっていた)が有名。龍門の滝、和紙や那珂川の鮎、関東では珍しい鮭の遡上でも知られ観光資源は豊かである。
明治2年(1869)に版籍奉還が行われ、明治4年(1871)7月に廃藩置県で烏山藩は廃藩となる。その後、烏山県となり、同年11月に宇都宮県、栃木県になる。今の栃木県になったのは明治6年(1876)、県庁は最初栃木町に置かれ、のちに宇都宮町に移った。
小説家、劇作家川口松太郎(1899-1985)の小説「蛇姫様」は、小さい時から話に聞いていた。昭和14年 、東京日日新聞に連載された野州烏山藩3万石のお家騒動の話であると知っていたが、本を読んだことはない。
長谷川一夫、市川雷蔵、東千代之介らの主演で数回映画化され一世を風靡するが、いまや知っているのはお年寄りだけだろう。林与一の千太郎、美空ひばりのお島の「新蛇姫様」というものまであるのだが。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=sPpMISejNTM
先日朝ドラに林与一がおじいちゃん役で出ているのを見て仰天した。刻の流れにである。
川口松太郎は明治一代女などで1935年(昭和10年)第一回直木賞受賞者。その妻は女優の三益愛子、その子供では浩、晶らが俳優として活躍した、といってもいまの人は知らないだろう。若き日芳賀郡の祖母井(うばがい)郵便局で通信士として1年ばかり働いたことがあるというから、その時に烏山藩の歴史を調べ、想を得たのか。
烏山に川口松太郎の句碑があるというが、何処にあるのかも知らない。句は
梅雨くらく蛇姫様の 来る夜かな
あまり良い句とも思えないが、何かおどろおどろした物語の雰囲気を感じさせる。
俳号は「蘚紅亭」。師は万太郎とか、確たる情報ではない。
湯のたぎる音きいてゐる雪夜かな
抜道のふさがつてゐる月夜かな
など残っているのは三十五句とすくないが、おだやかな佳句。しかし、師の
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
にはかなわないだろう。
俳句といえば、江戸時代の俳人早野巴人(1676-1742)は烏山の生まれ。日本橋に夜半亭を構え「宋阿」と号した。蕪村の師としても知られる。
夜半亭一世が早野巴人、二世与謝蕪村(1716ー84)、三世高井几董(1741ー89)というから一家をなした俳諧師。
名の高き遊女聞えず御代の春
時雨るや軒にもさがる鼠の尾
焚くほどは夜の間に溜る落葉哉
こしらへて有とは知らず西の奥 (辞世)
など、素人目にも分かる良句が多い。
なお、那珂川の名勝落石にある鮎簗場に草野心平の書になる巴人句碑があるというが、これも見たことはない。刻された句も味がある。
落あゆや水に酔ひたる息づかひ
また、あまり正確でない知識ばかりで気がひけるが、烏山八景句碑というのがあるという。これも何処にあるか知らない。
しかし、八景句には、大沢、興野など知っている地名もあり、親しみも沸く。
朝日山 鶯や氷らぬ声を朝日山 其角
中川 中川やほうり込んでも朧月 嵐雪
比丘尼山 独活蕨爪木こる日や比丘尼山 専吟
赤垂渕 赤だれに猿の手もがな底雲雀 琴風
五郎山 花の夢こころ恥かし五郎山 渭北
大沢 大沢や入日をかえす雉子の声 栢十
興野 その原や朧の月も興野山 湖十
桜井里 水聞の耳の動きや家桜 巴人
このうち宝井其角(1661-1707)、服部嵐雪(1654-1707)は、巴人の師で芭蕉の門弟、蕉門十哲の高弟である。
俳諧師が集まり烏山の名勝を愛でたのであろうか。
江戸時代は俳諧文化が、我々が考える以上に、地方でもはなやかに花開いていたようである。
山あげ祭の山車や余興で演じられる歌舞伎(所作狂言)も然りで、武士のみならず町人、百姓に至るまで演目などが、広く浸透していたことがうかがえて興味深い。
むかし、横枕の農家に入り婿した伯父が、酒席でとつぜん歌舞伎の声色を真似ていたのを見て、びっくりしたのをかすかに記憶している。
起きたのはお家騒動くらいで、戦争のない藩政時代が長く続いたからこそであろう。
次回は東力士の洞窟酒のこと。
2015-12-11 16:02
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