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那須烏山の記(四)進む過疎化 [随想]


この地を訪ねる度に、戦火を逃れ三人の幼な子を連れて東京向島から疎開したわが両親の心中を想う。当時はそれほど東京から遠く離れたさみしい山中であった。

我が故郷烏山は、現在宇都宮市の経済圏に入るのだろう。(厳密にいえば那須烏山市は宇都宮市の人口10%通勤圏ではないようだが。)
その宇都宮はいまや首都圏内、新幹線に乗れば東京への通勤圏である。15年も前、同僚は小山から有楽町の職場まで通勤していた。東京は日本の、宇都宮は栃木県の一極集中である。
わが幼児の時の疎開時代からみれば、隔世の感とはこのことであろう。

いま宇都宮市は芳賀町のホンダ、上三川町の日産自動車など大企業の工場が立地して活気があるが、那須烏山市は必ずしもその恩恵を受けていないように見える。2005(平成17)年の烏山町と南那須町との合併はそれを示している。
1970年代以降1995年まで33千人台だった市の人口は、合併でその減少を止めることが出来ていない。(2005年31千人-2010年29千人)

車で少し走っただけでもそのことは強く感じる。どこへ行っても道路や橋だけは立派だが、町に活気を感じることはあまりない。我が疎開地の農村を走ると、さらにそれを強く感じる。
ここそこに耕作放棄地とセイタカアワダチソウが目立つ。級友がとくに山林の荒れがひどいと嘆く。「山の手入れをしないと、とくに藤の花が綺麗に咲くのですぐ分かる」と言う。藤の蔓が杉の高いところまで這い上がるのだ。

わが母校の小学校、中学校はもはやなくなっていた。それぞれ広域の学校(境小、烏山中)に統合されてしまい、子供達は巡回スクールバスに乗って通学しているという。

市は那珂川中流の観光地として生き延びようとしているように見えるが、確たる自信もなさそう。素人目から見てもヒンターランドの第一次産業の活性化なくして、観光地は成り立たないように思う。
それを皆分かっていながら、どうにも打つ手がないのは全国の地方創生の悩みと共通している。
かんじんの農業は、TPPを待たずに明らかに衰退進行中であることを肌で感じて、歯がゆく悔しい。

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日本創成会議・人口減少問題検討分科会の推計による「消滅可能性」がある都市は、全国で896自治体(2040年までに出産可能年齢の95%にあたる20~39歳の女性人口が半減する自治体)という。那須烏山市はそのひとつである。
栃木県は、ほかに日光市、茂木町、岩舟町、塩谷町、那須町、那珂川町と七つある。東照宮のある日光市が消滅するとは思えないが、いずれも合併などで自治体が消えるかもしれないということだろう。
東京の豊島区なども入っているから、人口減問題アプローチであってそのまま過疎問題というものでもないようだが、たぶんコインの裏表だから消滅可能性都市と言われると、こころ穏やかではない。
自治体の行く末、帰趨はさておき、問題は山河のありようをどう描くのかという重い課題がつきつけられていることは確かだ。

年をとると一層、故郷、故園の山河のたたずまいが懐かしく思い出されるようになる。
必要以上に豊かでなくても良いので、なんとか静かで穏やかな風景を残して欲しいものと切に願う。
隣県の福島などのことを思えば、まだまだ条件は恵まれているとも言えるのだが。

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