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新潟の釣り [随想]

わが二度目の地方転勤は、冬の寒い日で温暖の地静岡から新潟だった。温室から出て急速冷凍。雪が一日中舞い、杉の子は育つが男の子は育たないと驚かされた。
まぁ、昔から人が住んでいたのだからと変な慰めを言われた。実際に、雪は空から降りてくるものと思っていたが、下からも吹き上げることを初めて知る。しかし新潟市は小千谷のような深い雪を想像していたのに、雪がそれほど積もらないのは意外だった。だが曇天の日は多い。太平洋側で生活している者にとっては、冬の晴天の有り難さが分かっていないことを、出張で東京に出るたびに痛感させられた。

その新潟には3年間暮らした。
1968年(昭和43)1月から1971年(昭和46)1月 までで、1967年1月に静岡市で生まれた長男が1歳から4歳までの間ということになる。
東京本社に帰る頃には特急「とき」が4時間40分ほどで走ったが、当時の東京ー新潟間はおよそ6時間というイメージだったように記憶している。
いまや新幹線で2時間ちょっとだから、遠い昔の話になった感が強い。
後によく新潟はどうでしたと聞かれ、「四季がはっきりしていて良いところでしたよ」と答えるが、そのとおりでありそれ以上のことでもない。冬が寒いのは覚悟していても、フェーン現象か夏のとびきり暑いのには閉口した。

自分でも不思議だが、28歳から31歳までのいわば一番若く活力の出る良い時期のはずが、新潟ではなぜか元気がなかったように思う。
この3年間についぞ佐渡へ行く気にならなかったことが、すべてを語る。付け加えれば、スキーの本場にいてたった一度しかスキーをやっていないことも。それも会社の懇親旅行の幹事で上越に行ったとき、仕方なく滑った。案の定、転んでスキーを折った。スキーを履いたのは後にも先にもこのときだけである。
つまりはその土地を知り楽しむべき良いチャンスなのに、なぜかしらけていた。
この時の反省は、後に大分3年、福岡1年、大阪2年の支店勤務のときに、あれではいけないと思って生活したから、結果的にはおおいに役に立ったのが、せめてもの慰め。

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かくして新潟での思い出は少ないが、忘れられないひとつに釣りがある。
職場の先輩にすすめられて、日和山(ひよりやま)海岸でちぬ釣りをした。餌は岩いそめ。ビギナーズラックで2、3匹の釣果をあげた。魚拓が残っていたので1970 年(昭和45 )10月のことと時期が分かる。
釣れたちぬは、魚拓によれば24cm、400gと小さかったが、これがきっかけで海釣りが面白くなりやみつきになった。社宅が海の近く松波町にあったから、朝な夕な海岸に行ってはアイナメやキス釣りもした。キスは舟つりよりも、主に岸からの投げ釣りだった。

また、一度だけ先輩のご家族と早出川にハヤを釣りに行ったことがある。餌はぶどう虫。少しだけ釣れたような記憶がある。はじめての渓流釣りを楽しんだ。
先輩は仕事の出来る人で仕事のなんたるかも教えてもらったが、釣りの印象の方がつよい。残念ながら自分がリタイヤしたころに、亡くなられた。葬儀に参列してこれらの釣りなどを思い出し、悲しみがのど元に込み上げてきたことを昨日のように思い出す。

この釣りが、その後の転勤地大分佐伯湾の小鯛、福岡は平戸沖のいさき、大阪での淡路島のめばるなど、多忙のなかでも休日に釣りを楽しむきっかけになった。

日和山は、新潟市の中心街からさほど離れていない寄居浜のはずれにある。
♪海は荒海 向こうは佐渡よ(北原白秋作詞・中山晋平作曲「砂山」1922)ーそのままの景色。
職場のあった柾谷小路、寄居町からもさほど離れていない。職場のすぐ近くには日銀の新潟支店があった。

横田めぐみさん (当時13歳 )が新潟市寄居中学の放課後に北朝鮮工作員に拉致されたのは、1977年(昭和52)11月 だから我々が東京へ転勤になって6年後のことになる。
長男はめぐみさんより3歳ほど下だが同年代だ。
ご両親が日銀新潟支店に勤めておられたと後に知る。ご両親の悲しみはいかばかりと察するに、到底真の辛さを推し測ることはできないであろう。
我々が暮していた頃にも、彼の国の特殊部隊員はもうあの地に暗躍していたのだろうか。
このいまわしい問題は、行方が見えず続いているが、ニュースを耳にするたびに、新潟の海岸を思い出して、名状し難い思いに駆られる。
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