SSブログ

「港が見える丘」妄評?(2/2 終) [音楽]

image-20160120104744.png

試みに、二人が港が見える丘に行く前の、出会いのシーンを作詞してみた。なに替え歌の要領だから、出来は別として難しいことではない。
4番をと思ったが、3番で淡い夢と終わってしまっていて続けようが無いので、そもそものなれそめの情景として0番にした。

「港が見える丘 」(番外)

あなたと出会ったこの街は
異国のような街
金色の風見鶏一羽
梢を見つめてた
船の汽笛空にひびき
キラリキラリと朝陽(あさひ)が
あなたと私に降りそそぐ
冬の朝でした

東 辰三は、「港が見える丘」をつくるとき、故郷の神戸をイメージして作詞・作曲したそうだが、後に横浜に題名を冠した公園まで作られたくらいだから、誰もがヨコハマの歌だと思っている。
かつて神戸芦屋の山手町に住んで大阪御堂筋まで通ったことがあるが、山の麓にあるマンションだったので神戸港の一部がベランダから見え、夜景が素晴らしかった。しかし、前を流れる芦屋川の岸には、しょっちゅう猪の家族が出没し、少しの詩情もなかった。
神戸にも港が見える丘はあるのだろうが、行った記憶は無い。もちろん神戸でもこの歌はぴたりと合う。

さて、二人は洋館が多く異国情緒溢れるヨコハマか、神戸の山手で知り合ったとした。時期は冬の朝。桜の咲く前で1番へつながり、おさまりは良い。
しかし、出来た歌詞では3行目の「金色の風見鶏一羽」が何とも歌いにくいのが難。
神戸市には、異人館風見鶏の館があり風見鶏が市のシンボルマーク的な存在となっているくらいで、ふさわしい詩句だと思うのだが。

また朝陽(あさひ)のオノマトペ、「キラリキラリと」が月並みで面白くない。「サンサンサンと」では、奇のてらい過ぎだ。ホンモノの方はオノマトペが、変わっていて絶妙な味を出しているのに。

0番として作ってはみたものの、「港が見える丘」には、こんな出会いのシーン、ヴァージョンはたしかにいらない。
1番・会って、2番・別れて、3番・思い出しているだけの歌だから、あっさり感、スピード感も大事である。
余計な詩を足すものも引くものも、大事な余韻、余情を消してしまい野暮というもの、不要だ。

戯れで作詞して見ると、どことなくぎこちなく、しかもアンニュイさえ漂うこの歌の特異さが、よりはっきり分かったような気はする。
平野愛子の「濡れたビロード」のような声がそれらに合い、戦後の虚脱感、解き放された自由の高揚感などが、ないまぜになっている雰囲気の中で多くのひとに受け入れられ、歌われたのだろうと解釈して腑におちた。

リズミカルに歌われ、明るい希望に満ちた期待感あふれる「リンゴの唄」とは対照的だ。

ところで、この歌がどこかヘンだと思うのは、これまで気がついてここまで書いたことだけではないような気がしてきた。

あの人を想って来る港は、一度だけではないようである。港の近所に住んで何度も来るようにもとれる。
うつらトロリと見た夢は「儚い恋」ではありません、あの人と一緒に暮らすという「淡い夢」、ほんとは現実的な話なんですと言っているのではないか。
つまり、実は私たちの仲を裂いたのは先だっての戦争なんです。婚約していたあの人が学徒動員で…。

あるいは、この歌の主人公は実は男ではないかという疑惑。
歌っているのが女性だし、「あなたと私に降りかかる」という言い方からしても、女心を歌ったものと決めつけているが、もしかして男が泣いているのでは、と(やや無理すればだが)疑えないこともない。
うつらトロリと夢を見るのは男も同じこと、いやむしろ男のほうこそふさわしいから、いちがいに妄想とも言いきれまい。

詩だから曖昧で、あれこれ考える余地、余白があってあたりまえである。ことに歌謡曲や演歌は、人は詩句と曲に自分の身上や情念を重ねて、それに酔いしれるのだ。しかもそこで思うことはひとりひとりみな違う。

それにしてもまことにヘンな歌が、終戦直後のドタバタの中で生まれ、人々に圧倒的に受け入れられたものだな、と思うほかない。

やや考えすぎか。歌謡曲は、その時のその人の気分で楽しく歌えばそれで十分。「妄評」はこのあたりでやめることにする。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。