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内田樹著「日本辺境論」を読む [本]

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内田樹(たつる)氏は1950年生まれ、神戸女学院教授、専門はフランス思想史という。殆ど著作を読んだことはないが、学者、学校の先生で武道をやると何かで知り、珍しい人だな興味は持っていた。

大先生と比較するのも烏滸がましいが、自分も受験などであっさり挫折したものの高一の時に空手部に入り、演武の稽古をちょこっとしたことがある。流派は神道自然流と記憶しているが、正確かどうか自信が無い。
自分の身体を鍛えれば、いじめなどから自分をまもれるのではないか、という短絡的動機だったと思う。強くなってというより抑止力がついてという軟弱な考えである。
武器なしで闘える身体を作ることができる、というのが最大の魅力だった。
やめてからも身体と心について考える時に、この経験がいつも頭に浮かんだことは確かでそれなりによい経験だったと思う。

さて、閑話休題。内田樹著「日本辺境論」(新潮社 2009)である。

著者はこの本に新味、新コンテンツは無いと最初に断っている。率直な物言いで好感が持てる。丸山眞男、沢庵禅師、養老孟司、岸田秀らのうけうりだと。先賢の書かれた日本論の「抜き書き帳」みたいなものだが、うけうりでも何度もやって確認すべきことというものはあるという。同意、賛成。
丸山、沢庵はそれぞれ難解と決めつけ読まないが、養老、岸田は一時期良く読んだこともこの辺境論を読む気になったし、良く読んだ司馬遼太郎も辺境好きだったこともある。

読んでみるとたしかに、多くの人が考えてきた「日本の特殊性がその辺境性にかなり拠ること」を的確に解説していると思う。
目新しいものは無いが、本当にそうだと合点するから、著者の執筆意図は充分伝わったと言ってよい。
中でも、日本語が表意文字と表音文字を併用する特異な言語 であることが日本の文化の特殊性を形作ってきたことの話。これからもきっとそうであり、何か新しい文化を創造するするかも知れない可能性への思いが膨らみ楽しかった。
グローバリゼーションとインターネットを考えると、ハイブリッド日本語がマンガ脳を生んだように、また新しいカルチャーが生まれて世界に届くようなことが現れないか期待してしまう。
ほかにも、いろいろ考えさせられ得るところが多く、人にも薦めたくなる好著だ。

が、アマチュアの老人には少し言い回しと用語を易しくして貰えると、もっとありがたいと思う。
理系の福岡伸一、柳澤桂子、多田富雄らはとっつきにくい話を易しく説明してくれる。
学校の先生の著書は、読者、生徒はこのくらいの語彙は知ってわが本を読めという感じがする。
読者は学生より一般人の方が多い。凡百の読者には、自分のようなボキャ貧の固陋な古老(孤老)も中にはいる。
特に外来語は文脈から想像してもわからんのがあって困る。漢訳が難しいのであれば、趣旨が大きく変わらない「言い換え」で良いのだが。

何度か辞書を引いた。不学の恥をしのびその一部を記す。
「コロキアル 」Colloquial 、口語の、日常会話の
「佯狂」ようきょう 、狂ったふりをする
「メタ・メッセージー」メッセージの読み方に指示を与えるメッセージ 例もしもし
「フラクタルのように」fractal 、不規則な断片のように
「圭角 」カド、角、トゲ 、キズ
「アモルファス」amorphous 、非定型の
「アマルガム 」amalgam 、水銀と他の金属との合金
「アポリア」aporia 、論理的な難点
「執拗低音」辞書では出てこない。Web検索して丸山眞男の表現だと知った。執拗低音とは「バッソ・オスティナート」という音楽用語の訳語だそうで、執拗に繰り返される低音の音型という意味という。丸山眞男を読まないとこの本も本当には理解出来ないと知る。
辞書を引くのは恥ずべきことではないが、こちらは恥ずかしい。音楽に詳しい人は苦手だが読まないといけないかなぁ。

蛇足をひとつ。
「関ヶ原の戦いでは 小早川秀秋は東軍が午後わずかに優勢に転じると徳川にねがえる。脇坂甚内ら周辺の西国大名は小早川の動きを見て、空気の変化を感じ取り、一斉に東軍に奔り、そのせいで石田三成は大敗したー現実主義者は既成事実しか見ない。これから起きることは現実に含まれない。」
この記述は、間違ってはいない。しかし、脇坂甚内安治もそうだが、当時の大名は戦の事前に「敵」、「味方」相互に対話、意思の確認をし合っていたことは、たとえそれが不完全な情報交換だったとはいえ、重要である。
そのことに一言触れて、「空気を読んだのだ」と記述しないと、誤解する人もいる。

この二つ程度なら著者の嫌う「おかどちがいの批判」にはならないだろうと思うのだが。
甘いか。

絵は本文とは関係ない猫の習作。紙はアルシュのAR5、描きなぐり。

追補 備忘ノート
1)この著書でも書かれているような東夷 、西戎、 南蛮 、北狄 とか、元、宋、明、清など中華の国名は一文字、ほかは渤海 、百済 、新羅 、任那 、日本 などは二字の国で臣下の国ということは知っていたが、子どもの頃から「日本」というのは東の果ての国と読んだことはなかった。
迂闊といえばそのとおりながら、日の本は中心と誤解しやすい。遣隋使の「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」の話もかんちがいの原因になっている。

かんちがいといえばもうひとつ。倭寇、倭人というように中国から見て日本は倭(一字の国)だと思っていた。そうではなく匈奴と同じように倭奴であろう。
福岡の志賀島で発見された金印も謎が多いものだが、「漢委奴国王印」は倭奴の国とも読めそうだが、倭にある奴の国という説がありよく分からぬ。

2)日本史については、高校の頃好きで真面目に勉強した科目のひとつだったと思う。例によって現代史までは至らず、幕末までほどで終わってしまった。多くの人が思うように何らかの空気、あるいは何か意図のようなものを感じて落ち着かぬ。
大学では1年生ときの教養科目だけ。先生は後に教科書検定違憲訴訟をおこす家永三郎教授であったが、情けないことに どんな講義だったかあのキンキン声だけしか覚えていない。先日古い成績表が出てきて見ると、成績は前・後期ともBであった。Dだと単位を貰えなかった。
3)内田氏の「非現実」を技巧した「現実主義」、「無知」を装った「狡知」というものがあり得る。それをこれほど無意識的に操作できる国民が日本人の他にいるでしょうか。
という文章がずっと頭から離れない。3.11の原発事故、安保法制、疾病利得、現実、現象の都合のいい言い換え…etc. などが次々頭をよぎって行く。「無意識的に(操作できる)」と言うのがポイント。
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