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岸田秀再読その1 「哀しみ」という感情 [本]

 
  岸田 秀(きしだ しゅう1933〜)氏は、心理学者、精神分析学者、エッセイスト。和光大学名誉教授。主著は「ものぐさ精神分析(1977)」など。この主著がブレーク、日本思想界にセンセーションを巻き起こす。「人間は本能の壊れた動物である」とし、独自の「唯幻論」を提言した。

 唯幻論など岸田著書はリタイアしてたっぷり時間が出来たので、河合隼雄、池田晶子、養老孟司などとともに何冊か読んだ。浅学の悲しさすべて中途半端な読書だったと思うので、(この著者だけ特別のことではないが)そんな考えもあるかでみな終わっている。

 

 当時の読書記録によれば、読んだのは「ものぐさ人間論」、「唯幻論論」(いずれも青土社)、「性的唯幻論序說」(文春新書)、「幻想に生きる親子たち」(文藝春秋)、などだが、主著の「ものぐさ精神分析」は記録に無かったので多分読んでいないようだ。また逆に「古希の雑考」、「不惑の雑考」などは書名を記憶していて、読んんだような気がするが記録には無い。我が記憶、記録ともあてにならない。

 

 ただ、岸田 秀氏の読者の多くは同じような印象を受けたと思われるが、人間は本能が壊れた動物でそのかわりに生じた自我によってコントロールしている、とか、自我は内的なものと外的なものがあるがいずれも幻想であるといった独自の言い回しが刺激的かつ新鮮で惹かれながらも、一方でそうはいうけどねぇ、と思ったものだ。

 中でも個の内的外的自我は国家のそれと通底している(国家の全体的構造と、その国に住む国民の個々の人格とは通底する・・・・)という論には驚かされた。ペリー来航や太平洋戦争などの独特な歴史解釈が印象的だったのをよく覚えている。

 

 岸田秀氏のことはこのブログでも何回か取り上げた記憶がある。そのうちの一つに

  水上勉の「原子力発電所」と岸田秀氏の「ペリー来航」

  https://toshiro5.blog.ss-blog.jp/2012-07-29

 がある。岸田秀氏の3.11発言を紹介したくだりだ。

「その岸田秀氏は福島の原発事故について発言している。

 「敗戦と原発事故は「人災」という点で合致しています。「人災」を生んだのは、日本軍にせよ原子力ムラにせよ、自閉的共同体が組織を構成していたからです。自閉的共同体とは自分たちの安全や利益しか見えず、しかもその自覚がない視野狭窄者の集まり。そうした共同体たる日本軍が日露戦争以来、強い軍事大国であるという「幻想」を捨てられず、結果として多数の犠牲者を出しました。同様に原子力ムラという自閉的共同体も原発は安全だという「幻想」に依って立ち、未曾有の被害をもたらしてしまった。日本軍と原子力ムラの精神構造は同一です。敗戦や事故の可能性はかねて指摘されていたのに、自閉的共同体にはそれが見えなくなっていたのです」「サンデー毎日 」(10・23号 「3.11と日本人の精神構造」)」

(原発事故は、自閉的共同体の幻想を捨てるため天がくれたチャンスだ)

 

 このブログ記事の中で自分はこう書いている。

「唯幻論、共同幻想、外的、内的自己分裂とか人間の本能は壊れているなど、耳新しい言葉が面白かった。自我は家族に国家に及ぶという一貫した考え方は、何となく納得感がある。しかし、40年近くひたすらサラリーマンを勤めてきた者にとってはどこか、何か説明出来ないのだが、少し違和感もあったことも覚えている。」

 

 今となれば違和感は、我がサラリーマン人生から生じたものでは無く、たぶん氏の唯幻論に対する我が半知半解から来ていることに疑いは無い。

 

 コロナ禍の中、しばらくぶりで図書館に行ったとき、たまたま岸田 秀氏の「哀しみ」とという感情(新書館 2007)」が目につき、つい懐かしくて手に取った。

(懐かしくてというのもあるが、もともと新しいジャンル、著者やテーマに挑戦しない性癖が自分にはある。)

IMG_8799.jpeg

 この本は著者(当時74歳)が雑誌や新聞に書いて掲載された短文などを集めたもの。そのうちの一つであるこの表題をそのまま書名(本の題名)にしている。なぜこの一章を選んだのか気になったので、本棚の前でこの章だけ立ち読みした。読んで見るとこの一文が一番著者らしいからだ、と気付く。ある意味著者のものの考え方の元になっている原点の一つなのではないかと思った。

  曰く「哀しみと言えば、去年(車に轢かれて)飼い猫が死んだことが哀しい。〜中略〜ところで、猫に限らず動物一般は、喜んだり怒ったりはするが、哀しむことはなさそうである。〜中略〜どうも哀しみは人間特有の感情らしい。」として、人はやるが動物はやらないことは二つあるという。

 ①人は現実から目を離し他のことを想像出来る。(人は轢かれず生きて生を楽しむ猫を想像出来る)

 ②現実に感じている感情や欲望を抑圧出来る。(つまり轢いた人への恨みを抑圧しそこに哀しみの感情が生まれる。)

 想像力が豊かな人ほど哀しみは深い。(哀しみという感情2007)」

 

 著者は、上述の如く人間の本能は動物と違って壊れた、それでは生きられないので自我が生じ自我をコントロールするようになった。自我は現実とは異なる幻想であり、内的な自己(我)、外的な自己(我)の分離、国家の全体的構造と、その国に住む国民の個々の人格とは通底する、などと独自の「唯幻論」を展開する。この持論は「人と動物は異なる」と言うことが根底にあって、それをベースに構築、発展しているように見える。

しかしながら人は動物とは違うところもあることは確かだが、基本的なところでは同じなのでは無いかとも思う。

 人間は未熟のまま生まれ長期間親などの庇護がいるというが、生まれてすぐ歩き出す動物もいるしカンガルーやパンダなど未熟のまま生まれ長期間大人にならない動物もいる。程度問題だろう。

 例えば動物も人間と同じように相互に意思疎通が出来るとする説もある。言葉と文字がないだけのことで鳴き声や我々の知らないその他の手段で。(岸田秀氏も動物にコミュニュケーション能力がないと言っている訳ではないけれど。)

 また動物も怒りや喜び恐れだけでなく、哀しみなどの感情も持つとも推察出来る。子象が死んだとき、そばを離れぬ親象の悲しみ、パートナーを失った鴛鴦、主人を失った犬や猫でも哀しみの感情はあるとも思う。屠場に運ばれる牛の筋肉には特別の物質が発生すると何かで読んだことがある。牛も哀しむのだ。哀しみの感情は人間だけのものと断定出来ないと思う。人以外の動物の全てに想像力が無く、抑圧も無いと言い切る根拠は何か。

 

 人は確かに動物と異なる点もある。しかしその動物も脳の有無、大小、行動を含めて多様であり、種により似たところも違うところもある。人間だけ特異だと言い切るのは乱暴と言うものだ。そう考えると岸田 秀氏の持論を疑惑の目で見るようになる。

 岸田氏自身も認めている様に氏の唯幻論や国と国民の個々の人格は通底するといった議論は賛成派も多い代わりに批判派もいるのは、このこととも関連するのではないかという気がする。

 岸田氏の「唯幻論」はかなり感覚的である。言い換えれば感覚に訴えてくるものがあるのでついうなずいてしまうところがある。しかし生物学的に本能が壊れるということはどういうことか、本当に他の動物に似たようなものはいないのか知りたいものである。

大脳生理学的、遺伝子学的、生物学でもそんなことは解明出来ないよと一笑に付されそうだが。

 自分もだいぶ歳を重ねているせいか、次のような氏の死生観が書いてある一文が目についた。こちらはごく真っ当なものだなと思う。

「いつか死ぬ自分というものをきちんと知って、思い描く。そのうち死ぬんだという自覚しておく。明日死ぬかもしれないといつも考えておくことしか死の恐怖克服する術はないかもしれない。〜中略〜死に関する根源的な不安から人間は解放されないのだと諦めた方がいい。(ストレスは人生の必需品2008)」

 

 前述のように我が岸田 秀理論・「唯幻論」理解は中途半端で、多分誤解も多いだろう。養老孟司の文化や伝統、社会制度はもちろん、言語、意識、心など人のあらゆる営みは脳という器官の構造に対応しているという養老孟司の「唯脳論」と「唯幻論」は どう違うのか。

 また福岡伸一氏のように「私たちは、もっぱら自分の思惟は脳にあり、脳が全てをコントロールし、 脳はあらゆるリアルな感覚とバーチャルな幻想を作り出しているように思っているけれど、それは実証されたものではない。消化管神経回路をリトルブレインと呼ぶ研究者もいる。しかもそれは脳に比べても全然リトルでないほど大掛かりなシステムなのだ。私たちはひょっとすると消化管で感じ、思考しているかもしれないのである。人間は考える葦でなく、考える管なのだ。」という議論(できそこないの男たち  講談社2008)も気になる。

 

 もう少し氏の他の著書を読んでみようと思う。

 

 


 

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