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秋声の「爛(ただれ)」と寂聴の「爛(らん)」 [本]

 


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瀬戸内寂聴の小説「爛」は装丁表紙でもRanとローマ字でルビをふって「らん」と読ませているが、徳田秋声の小説「爛」は1913年 初出時の表題が「たゞれ」だった(後に「爛」と改題)というから「ただれ」の読み方であることは明白である。


 よって寂聴の方のテーマが高齢女性の性愛を鮮やかで明るいもの(爛漫)として描いたのに対して、秋声の方は小説のテーマを「(糜爛びらんのように)爛れた男女の関係」と表題に込めたと解して良いのだろう。


 つい最近図書館の本棚で寂聴の「爛」という表題が目に止まり、その表題にやや違和感を覚えたのでつい手に取り、読んでブログで感想を書いたばかりである。


    爛 瀬戸内寂聴 新潮社 2013: しみじみe生活


 さて、その後時折り覗く青空文庫で秋声の「爛」を見つけた。これは全くの偶然である。二つの小説は表題が同じなので、目についただけのことで意図して探した訳ではない。


 小説家は自分の小説で言いたいことを、表題で一言で表したいのだろうと思うと、小説の表題には気が惹かれ興味も沸くというもの。


 寂聴の「欄(らん)」は分かり易い。女性であっても幾つになろうが性愛を愉しんでも良いのよ、と言っているのだろう。あくまで推察だが、自分も若いときは奔放だったし、流石に51歳で得度したのちは現実に行動はしなかったけれど、歳に関係ないものと良くわかります、という感じである。言いたいことは、女性もどんなに歳を取ろうと(幾つになっても)性愛を抑制することは無いのよ、ということであろう。


 一方秋声の「爛(ただれ)」は高齢者の夫婦の話ではなく、時代背景は売春防止法(1958)もない、妾なるものがまだ普通に存在していた頃の話で、寂聴が「爛(らん)」を書いたほぼ100年も前の話である。


 身請けされた遊女お増が、次々と女に心が移って行く身勝手な男浅井に縋(すが)って生きていくしかない女の生き方を描いた長編小説とされるが、それを爛(ただれ)と表題にして本当のところ作者は何を書きたかったのだろうか。女性の経済的、精神的自立のようなものなら分かり易いのだが、そうでも無さそうで今ひとつしっくりこない。


 日本の小説は源氏にはじまって西鶴に飛び、西鶴から秋声に飛ぶと川端康成が言ったとされる。秋声は自然主義小説 私小説の最高峰で漱石、鴎外をも凌ぐという意味の言である。


 それが正当な評価かどうか知らないが、それほど徳田秋声(1872〜1943 )はまさに日本の近代文学を代表する作家なのである。


 他に「あらくれ 1915」、「仮装人物 1935」 、「死に親しむ 1933 」「 黴 1911」、「縮図 1941」などがあるが読んだことがない。


 そんな作家が、たしかに通常の夫婦関係とは言えない妾(のちに後妻)とその旦那の心理を描き、なぜ「爛れ」と表題にしたのだろうか。近代文学、自然主義小説、私小説などに疎いせいか自分にはストンと腑に落ちない。


 青空文庫は作中で爛という語をどう使っているか検索出来るので試みた。220ページ余の中に次のとおり4カ所しかない。よほど注意して丁寧に読まないと全部は気づかない。


 自分は②を見落とした。


 ①「青柳は縁の爛れたような目に、色眼鏡をかけて、筒袖の浴衣に絞りの兵児帯などを締め、長い脛を立てて、仰向けに」22p


 ②「(お雪と青柳の)二人とも、今少し年が若かったら、情死もしかねないほど心が爛れていた。」 19p


 ③「(お増は)温泉場の旅館に、十幾年来覚えなかった安らかな夢を結んだりした時には、爛れきった霊が蘇ったような気がしたのであったが、濁った東京の空気に還された瞬間、生活の疲労が、また重く頭に蔽っ被さって来た。 」119p


 ④「花で夜更しをして、今朝また飲んだ朝酒の酔いのさめかかって来た浅井は、爛れたような肉の戦くような薄寒さに、目がさめた。綺麗にお化粧をして、羽織などを着替えたお今が、そこに枕頭の火鉢の前にぽつねんと坐っていた。 」218p


 ①②の青柳とお雪は主人公ではない。青柳の情婦がお雪で主人公お増の友達という設定だ。二人は脇役であってこの「爛れ」は本題とは直接の関わりは無さそうである。


 ③のお増は主人公であるが、ここでの「爛れ」は、お増の気持ちが普段爛れ切っていて疲れていることをさらりと言っているように読みとれる。


 ④の浅井は妻がいるのにお増を身請けし、その後離縁した前妻が狂死してしまう主人公である。ここに出てくるお今は、お増の遠縁の娘で三人で同居しているときに浅井と関係してしまう。お増は何とか嫁に出してしまいたいと腐心するのだ。ここの「爛れ」は酔い覚めの浅井の心理描写だが、三人の爛れた関係をも暗示しているのかも知れない。


 このように秋声は「爛れ」を4回しか使わず、もちろんその本質が何かなどと触れず、上手に読者に爛れた男女関係を想像させているというところだろうか。


 もとより小説は、従って私小説も身の回りのことを書いて作者が何を言いたいか、読者に考えさせるというものだろう。当然ながら読み手に解釈を任せるということは、読み手によってそれぞれ異なるものになるはずだ。


 だからこの秋声の「爛(ただれ)」もどう読むのが正しいか、正解はない。「爛れ」が腑に落ちなかったなら、そのままで良いのだろうと思うしかないようだ。少なくとも「爛」の二つの意味のうち寂聴の鮮やか、爛(らん)ではなく爛(ただれる)の方には間違い無さそうなのだから。


 なお、秋声の文体は難しい言葉は少ないが、一文が長いものが多い。時々読み返すことになる。そのせいか独特の雰囲気があるが、それが何かはよく分からない。小説全体もそうなのかも知れぬ。もっとも一作だけで秋声を理解しようということ自体、無理なのに違いない。


 小説というものは、随筆などと違い厄介なものだとしみじみ思う。


 なお、ネットでこの小説がその後映画化されたことを知った。どんな映画か知る手立てもないが。 若尾文子、田宮二郎主演。


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