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岸田秀再読その4ものぐさ精神分析 (1/2) [本]

 

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 当たり前のことだが、岸田氏の唯幻論そのものを理解するには、氏の原点ともいうべき「ものぐさ精神分析」をじっくり読むことが一番良い。

 再読といっても唯幻論を取り巻く周辺の随筆や対談から始めたので、遠回りしている感じが否めない。そこで図書館で「ものぐさ精神分析」(岸田 秀 中公文庫1982)を借りて来て読んだ。読書記録に無かったが、やはり一度読んだような気もする。ただし、周辺の短文を読んで得た知識がそう思わせるのか、本当に読んだのかはいま定め難い。

 

 読んでみると、自分の疑問に思ったことのたいていのことが書いてあったのに驚く。

まずは個人の心理を集団の心理と同じように論じることについては、「ものぐさ精神分析」の冒頭の章である「歴史について」の中の「日本近代を精神分析する」にいち早く出てくる。

「フロイド理論は何よりも、まず社会心理学である。一般には、フロイドは、神経症者個人の心理の研究から出発して精神分析理論をつくりあげ、その生涯の後半に至ってその理論を宗教現象や文化現象などの集団心理に応用したと考えられているが、私の意見によればこれは逆であって、彼はまず集団心理現象を下敷きにして、そのアナロジー(引用者注 ー類推)に基づいて神経症者個人の心理を理解しようとしたと言うことができる。(中略)わたしの理解しているところの精神分析は、本来、社会心理学であるから、集団現象の説明にそれを用いるのは拡大適用ではなく、当然のことであって、別にその妥当な根拠を示す必要はない。」

 

 岸田秀理論の元になっているフロイドの超自我、自我、エスと言う考え方は、立憲君主制の政体における皇帝、政府、民衆との類比から着想されたものだ。という吉本隆明の言はこのことだった。個人の精神と集団の精神は通底するという理論は、基本的にフロイド理論をベースにしており、岸田氏がフロイドに大きく影響されていることも示している。

 

 前にも書いたが、自分はこのことについてあまり違和感が無い。

 

 次には唯幻論の出発点となる「人間の本能が壊れた」ということについての記述。著者が忙しい人はここだけは読んで欲しいと言っている章「歴史について」の「国家論ー史的唯物論の試み」に書かれている。

 人類は生物進化の奇形児だ。L・ボルクの胎児説に立ち、人類は猿(まだ人類ではない人類の祖先)が胎児化したもの=猿の胎児がそのままの形でおとなになったのが人類(幼形成熟ネオトニー)であるとする。

 (未熟で生まれたため)自活まで長時間を要し、親の負担は大きく子の本能生活が変質する。子の本能は全知全能に置かれた状態の中で現実とずれが生じる。本能に従うことは現実への不適応を意味する。つまり現実への適応保証するものとしての本能はこわれてしまった。本来なら現実我を保存する個体保存の本能が、全能の幻想我を保存する方向へずれる。種族保存の本能も同じことである。

 胎児化の結果であるが、個体保存の本能の場合に、その本能の発現と、それの目的の遂行の手段たるべき感覚、運動器官の発達との間に時間的ズレがあるのと同じように、、種族保存の本能の場合にも、性欲の発現と、生殖器官の成熟との間に数年の時間的ずれがある。そのため人類の性欲は、まず不能の性として出発する。結果として幻想に遊ぶ性となる。

 なお、上記のボルクの胎児化説については別の章「性の倒錯とタブー」にも以下のとおり触れられていて参考になる。

「L・ボルクの説であるが、人間の進化を説明する仮説として「胎児化」説というものがある。この説は簡単に説明すると、要するに、人間は猿の胎児であるという説である。大人の猿と大人の人間は非常に違っているが、ある段階では、胎児の猿と胎児の人間は大体同じような形態をしている。猿は、その段階からぐんぐん発達し、おとなの猿の形態に近づいてゆくのだが、人間の場合は、その発達が奇妙に遅滞し、いつまでも胎児の形態を保持したまま生まれてくる。つまり猿が極端な未熟児の状態で生まれたのが人間である。」(p105 )

 (参考)幼形成熟ネオトニーについてネットで検索すると次の説明があった。

 「人間は、チンパンジーとほとんどの遺伝子を共有しているが、チンパンジーは生まれて数年で大人になり、子供を産むが、人間はそれ以上十数年しないと、性的に成熟しない。すなわち大人になれない。しかも、人間の外観は、チンパンジーの赤子のままであり、その十数年の差が、知能や、遊び、手先の技能向上に役立っている。早く大人になってしまうと、自己の子孫を残す活動に、ほとんどの日常は奪われてしまうため、知能や技能が進歩する暇がないという。このように、幼少時の名残を残しながら、大人になることをネオテニーとよばれているのだという。」

 

 前記「国家論ー史的唯幻論の試み」における「本能が壊れ、私的幻想が生まれて共同幻想に至る記述をもう少しメモして見る。

 個体維持本能、種族維持本能ともずれてしまったので、何らかの手を打たないと人類は滅亡する。

 現実原則に従う自我と快感原則に従うエスとの対立(フロイド) 。 エスは本能ではなく快感原則は本能原則でなく幻想原則だ (死の衝動は人類の特有な傾向と理解し)快感原則は涅槃原則 である(フロイドは無機物の状態への復元)。

 本能はエスに変質する。エスは個体保存ナルチシズムと前性器的倒錯のリピドー。そこで人は抑圧することはじめてを知る。そこに文化が発生した。

 (引用者注)リピドーとは性的衝動を発動させる力(フロイド)、本能のエネルギー(ユンク)。

 文化は矛盾する二面を有する①個体保存と種の保存を保証し=作為された社会的現実すなわち擬似現実であり②私的幻想を吸収し共同化=共同幻想となるものでなければならない。

 この文化こそ例えば家族(集団)であり、擬似現実、共同幻想だから不安定な点が特長だ。

 各人に分有された共同幻想は超自我及び自我となり、共同化されずに残った私的幻想はエスを構成する。このエスが共同幻想にもとづく集団の統一性を危うくする重大な要因となる。

 このくだりはすんなり頭に入ってこない。ずれたので放っておくと人類が自滅するので代わりのものとして文化を発明したというが、文化の発生要因は別にあるのではないか。 文化は民族によって異なるが、異ならない文明についてはどう考えれば良いのか。 幻想、その共同化などがやはりわかりにくいのはこちらの理解力が乏しいせいか。既成概念で凝り固まっているためか。

 

 平たく自分の言葉で言い直して見よう。

 猿(類人猿と人類の祖先)から類人猿(チンパンジーなど)と人類に進化した。猿人猿は本能を持ったままおとなになったから本能に従えば生きられた。人類になった方は猿の胎児のまま生まれ大人になったため、本能が本来の機能を果たせない。つまり本能が壊れた。 そのため、代用品として幻想、文化を生み出して人類として生き残った。幻想、文化は胎児が全知全能の状態で現実とのずれを見いだして、自我を抑圧することを知り、そこから生まれたのである。私的幻想を共同化したものが文化だ。

 この説では、系統発生的にいうと猿から類人猿になり類人猿が人類に進化したのではなく、類人猿と猿は共通の祖先から生まれた兄弟ということになる。自然発生は系統発生を繰り返すと言う説がある。人間の胎児が、類人猿の段階を経ているかどうかは、生物学的にわかるだろうが、経ていると考えるのが自然なような気がする。

 猿からいきなり進化したとしてなぜ類人猿は胎児化せず、人間だけが胎児化して(未熟児として生まれ)本能が壊れたのか。

 

 進化の仕組みや進化論の今などをもう少し学ばないと、最初のこのあたりは理解できそうもない。また、幻想その共同化のところもフロイド論などを含めて、精神分析学をもっと勉強する必要がありそうだ。我が唯幻論理解の現状は、面白いがストンと落ちない、という岸田 秀再読前の状態のままである。(ものぐさ精神分析下へ つづく)


 

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