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岸田秀再読その6 「続 ものぐさ精神分析」(1/2) [本]

 「続 ものぐさ精神分析」岸田秀 中公文庫1982

 

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 続と銘打っているが、ほぼ本編(1977)と時を移さず書かれた(1980年)ものだから、唯幻論を補強するための補遺のようなものと考えて良いだろう。

 著者は二番煎じ、出がらしものぐさ精神分析と自嘲している。文庫本の帯の惹句は岸田心理学の実践的応用編とある。

 

 まず日高敏隆の解説文が目に飛び込んできた。日高氏はフランス留学で岸田秀氏と接点がある。気になっている人間の「本能は壊れた」とする論に関わるところである。

 

「岸田秀との対立点が一つある。そしてこの対立点は彼にとってもぼくにとっても、きわめて根本的に重要な問題なのだ。それは、「人間は本能が破壊された存在である」という、岸田氏の出発点である。僕の代理本能論(「文化」とは所詮は本能の代理物に過ぎない)は、いってみれば、岸田秀の理論を動物学の立場から展開したものだともいえよう。 けれど、今日の動物学の見地からすると、人間の本能が本当に破壊されているかどうかは、じつは大問題なのである。(中略)人間にも本能は厳然として存在し、人間はかなりの場合、それによって動いているのだといってよい。そのとき、その動き自体に幻想はないはずである。それ自体が本能なのであるから、それを代理すべき文化も幻想も必要ではないだろう。けれど、岸田秀が一貫して述べている通り、人間が幻想に振り回されていることも、疑いの余地ないところである。」

 

 やはり動物学から見ても、人間の本能が壊れたという証拠は無いようだ。もっとも岸田秀氏も人間の本能が壊れて無くなっているとは言っていない。本来の機能が果たせ無いだけで、残ってはいるのだとする。さすれば壊れた本能は個体維持本能と種族維持本能で他に残っている本能は何か。本能が壊れたのでは無いとすると、幻想や文化でそれを補う必要もないことになる。ならば幻想や文化はどこからなぜ来たのか。唯幻論は本能崩壊が無ければ成り立たないのか。このあたりがどうも釈然としない。

 さて、この出がらしものぐさ精神分析は、いわば応用編というか、唯幻論で物事(心、性、歴史、金融経済、芸術文化 宗教 政治)を理解するとこうなるという事例集でもある。

 面白いと思った例をアトランダムに記す。

 

歴史と文化

 死はなぜこわいか 

 「自己とは人びとの共同幻想のなかにのみ描かれているかたちである。この意味において自己は不安定であり、絶えず消滅の危険にさらされている。しかし、我々にとって、われわれ自身とはこの夢まぼろしのごとくはかない自己がすべてである。ゆえに、われわれは死を恐れる。(中略)  物欲にせよ、攻撃欲にせよ。際限のない欲望に囚われ、駆り立てられている状態から脱出する道は1つしかない。それは我々が、我々の自己が幻想であることを知ることである。そして死を直視してその恐怖に耐えることである。それは不可能かもしれない。しかし他に道があるであろうか。」

 

 ・唯幻論による死を恐れる理由は理解出来る。また自己が幻想であることを知るということが、際限の無い欲望に駆り立てられている状態から脱出するために必要だ、というころまでは理解出来る。ところが、そして死を直視して恐怖に耐えることもーとなると、 ん?、となる。凡百にはもう少し分かりやすい説明が良い。

 

 マニアについて

 「人間の欲望が個体保存や種族保存の目的から切り離され、幻想かに支えられた無償のものになっている。マニアの特徴はその無償性にある。有用性は共同幻想に過ぎない。

人類の文化そのものが、何らかのマニアたちがつくりあげた雄大な無償の体系である。」

 

 ・幻想論に立ったこの着眼点と論理展開には脱帽である。ユニークだ。

 

 なぜヒトは動物園をつくったか

 「本能が壊れた人間は壊れない動物が羨ましいのだ。人間が動物を飼うのは自己の不全感、無力感を補うため。動物を人間の作った人工的世界に引き込み、安堵したいがため動物園を作った。(近代)国家も自己の不全感を補うために作った。」

 ・ペットを飼う理由も同じ説明になろう。我が家の猫を思い微苦笑するのを禁じ得ない。

 守る

 「ローマ帝国、サラセン帝国、第三帝国、大日本帝国、大英帝国も滅びた。ソ連帝国のように内外に多大の無理を重ねている国家が長続きするはずはない。気長く歴史の流れを見てゆこう。奢る平家は久しからず。鳴くまで待とうホトトギス。」

 ・1991年12月がゴルバチョフ辞任=ソ連邦崩壊で、この「守る」は1980年8月朝日新聞掲載だから著者の言うとおりになった。現在2023年6月時点でのロシアのウクライナ侵攻の現状を見るに、この時点で同じく歴史の流れを気長に見ようと言えるかどうか。はなはだ心許ない。

 

性と性差別

 役割りとしての性

 「同性愛は決して病気では無く、全体自己を文化が正常と認めない方法で回復しようとしているに過ぎず、同性愛者を治療して異性愛者にするのは異性愛者を治療して同性愛者にするのと同じく難しいのだから、彼にその回復の努力、退行の権利を禁ずるのは、残酷というものだろう。」

 ・氏の論調から言えば、上記の同性愛者はLGBTQ、性マイノリティ全体を指していると考えられる。46年前のこの時代(「役割りとしての性」は1977年6月「現代思想」初出)このような見解を持っていた人はマイノリティであったろうと推測する。

 今2023年6月、LGBT理解増進法採決で欠席した自民保守派の議員の顔をTVで見て、わが国の後進性に嘆息する人は多いだろう。

 

人間について 

 価値について

「価値についてあらゆる価値は幻想である」と説く岸田氏に対して、学生は「それで先生は虚しくは無いか」と問われ、「価値ある人生など無い。価値観は幻想であり固執するのは、自分だけでなく他を破滅させることもあるほどにはた迷惑。むなしさはそれが幻想だと認めない限り消えない。自分(岸田)もむなしいが、頭のどこかに価値がありはしないか、とこんな文章を書いているのだ」とひとりごちる。」

 ・たしかに普遍的価値とか、同じ価値観を共有するとか、日常的に聞き、眼にするが、アメリカをはじめとする西側諸国も中国ももロシア、イスラエルもパレスチナもそれぞれ同じ言葉を使う。しかし幻想だと言っていたら滅ぼされるからとことんいく。これまでの歴史を見れば明白だ。

  ひるがえって個人レベルで自分はどうだったか 何を価値あるものとして生きて来たか、考えざるを得ない。一度じっくり考えてみる価値がある。

 

 感情について 

笑い (人間のみが)幻想の中に住んでおり、(人間のみが)緊張する存在であり (人間のみが)緊張から解放されて笑うのだー笑いとは共同幻想(擬似現実)の崩壊または亀裂によって起こる、それが要求していたところの緊張からの解放である。

 

怒り(怒りー瞬間的、/憎しみー持続的、恨み)  傷つけられた自尊心(幻想我)の崩壊による己の無力さが曝け出されたとき 回復せんとして怒るのだ

悲しみ 世界(猫、恋など)の永続性なる幻想の崩壊 (己の無力さを容認している点が怒りと異なる) 

「怒り」と「悲しみ」は「悔しさ」などの中間的な感情を通じてつながっている。

 

・今回岸田秀再読のきっかけになった『「哀しみ」という感情』という本の一文は、字が悲しみから哀しみへと変わっているだけでこれが原典(?)だろう。

 

 (岸田秀再読その7「続ものぐさ精神分析」2/2へ つづく)


 

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