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岸田 秀再読その7「続 ものぐさ精神分析」(2/2) [本]

岸田 秀再読その6「続 ものぐさ精神分析」(2/2)からのつづき

 

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 このものぐさ精神分析応用編を読むと、大抵のことが唯幻論で説明出来ることに驚くし、常識的理解と違う意外性、など膝を打つことが多くて一言で言えば面白い。また氏の言い換え、喩えのユニーク(ユーモアと辛辣)さがそれに加わる。これが岸田秀を読んでしまう原因だと納得させられる。これなら「出がらし」であろうが、「二番煎じ」であろうが人は読むだろうと思う。

 

 人の考えることは私的幻想でそれが集団の共同幻想となる。人と集団は幻想にとらわれ右往左往する様があぶり出される感がする。

 本能が壊れたから幻想が生まれたという理由の正否はおいても、人間の考えることがおおかた幻想であるとすれば、大抵のことは説明出来てしまう。

 確かに、わが国においては、古来人は幻想の中で生きているということが、実感としてわかる。

 岸田秀氏が分かりやすい例として挙げた「平家物語 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす」の無常感や鴨長明の「方丈記  ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」よりも、織田信長の舞「人間(じんかん)五十年 下天の内に比ぶれば夢幻の如くなり 滅せぬもののあるべきか」、秀吉の辞世「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」の方がより説得力がある例だろう。

 幻想であれば人によっても異なるし、はたから見て些細なことにさえ幻想なるものに命を懸けることもある。それは個人であれ、集団であれ変わりが無い、というのも納得感がある。

 また、幻想なのだからそうムキにならない方が身のためだ、というのも賢明な結論(?)のような気がする。ムキになると人は愚行を犯すのだから。ムキにならないということは、岸田 秀氏によれば、どうしても見たく無い自我を見つめることだそうなので、至難のことのようだが。

 岸田 秀氏はフロイドを学び、影響を受けていると思われるが、氏も書いているようにフロイドの精神分析学はニーチェに近いと指摘する学者もいるとか。岸田 秀氏を習俗的ニヒリズムと言った吉本隆明ならずとも、岸田 秀氏には虚無のにおいが漂うと自分もそう思う。

 現代の出来事 東日本大震災、原発事故、コロナ禍、地球温暖化、ウクライナ戦争、核兵器廃絶、VR 、AI(チャットGBTも) 、LGBTQ 、いじめ、巻き添え自死などを唯幻論で読み解いだらどうなるだろうか。自分でもやってみたい気もするが、唯幻論を正しく理解していないので難儀である。岸田 秀氏に「唯幻論始末記」で書いて欲しかった。出来事でなくとも例えば般若心経とか、種の保存のために単性生殖より確実効率的なので女から男が生まれたとかについても唯幻論にもとづいて解明したら面白そうである。

 岸田秀氏の作家論(三島由紀夫、太宰治、芥川龍之介)が後半に出て来るが、三人とも自死(自我幻想の共同化に失敗した)作家である。これを読むと、作家の生い立ちが作品のテーマそして自死にも反映していることがよくわかる。同じく自死した川端康成はどうなのか。自死こそしなかったが、漱石についてはどう読み解くか。

 書評「ライ麦畑でつかまえて」(チャンドラー)は、唯幻論で読んだというより、精神分析学者による書評であろう。主人公ホールデンを自己不確実性型神経症に似た若者と見る。人間すべて神経症的な存在とすれば、時代を映し出す神経症者なるものがあるのかも知れない。以前自分もこれを読んだが、青春の書だなぁと終わったような気がする。

 

 岸田秀氏の死生観(死はなぜ怖いか)は唯幻論から出来ているが、哲学者池田晶子の死生観を想起させた。池田晶子についてはこのブログで書いたことがある。彼女の死生観は次のとおりである。

 

 池田晶子

https://toshiro5.blog.ss-blog.jp/2011-12-27-4

 

「私もまた自分の死を考えたことがない。うまく考えられたためしがない。なぜなら、死は無だからである。無は無いからである。無いものはどうしたって考えられない。それで私は死のことを、ある時からやめにした。ために、人生に不安を覚えることがない。人は、無いものを不安がることはできないからである。代わりに、生きていることそのことが、力強き虚無となった。生きるということは、虚無を生きることなのだと知った。だから、震災にも戦災にも大不況にも動じない。既に死んでいるからである。」(「睥睨するヘーゲル」)

 また哲学者池田晶子の著書で教えて貰い、青空文庫で読んだ四行詩ルバイヤートも思い出した。二人はどことなく似たところ、あるいは親和性があるのかも知れぬ。

注)ルバイヤート 過去を思わず未来を怖れず,ただ「この一瞬を愉しめ」と哲学的刹那主義を強調し,生きることの嗟嘆や懐疑,苦悶,望み,憧れを,平明な言葉・流麗な文体で歌った四行詩。11世紀ペルシアの科学者オマル・ハイヤームのこれらの詩は,形式の簡潔な美しさと内容の豊かさからペルシア詩の最も美しい作品として広く愛読されている。(ネットから)

 

 ところで唯幻論ばかり読んでいて、ふと、我が家の猫(♀)を見ているとこいつ本能が壊れてしまったのでは無いか、と思うことがある。出自は野良で15歳くらい。

 避妊手術をすませているので、種族保存本能が壊れたごとく雄猫に興味を示さず、窓の外を歩く野良猫をシャーと威嚇するだけで、春になっても恋猫にもならない。

いつもツンとしているが、ときに気が向くと親しげにニャアと鳴き、擦り寄って来て体を押し付ける。もっとも老猫になってからのことだが。

 また個体維持本能も壊れたらしく、与えられたカリカリをまずいからもっと上等なのを出せと催促する。ネズミなどはなから追いかけそうも無い。テレビのダーウィンが来た!の鳥を見たり、窓から見える鳥などには興味がありそうだが、首をかしげたりするだけで飛びかかるでも無い。

 

 壊れたか 猫の本能恋忘れ

 本能は 壊れぬ証し猫の恋 ん?。


 

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