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岸田 秀再読その9 「日本人はどこへゆく」岸田秀対談集 2005 [本]

「日本人はどこへゆく」岸田秀対談集 青土社 2005

 

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 生きること、考えること 池田晶子(1960〜2007 46歳6ヶ月没)

 

 池田 晶子は、日本の哲学者、文筆家。東京都港区出身。 専攻は哲学。専門用語にたよらず日常の言葉によって「哲学するとはどういうことか」を語り続けた。著書に『帰ってきたソクラテス』、『14歳からの哲学』など。ウィキペディア

 

 池田晶子の没後「わたくし、つまりNobody賞」が創設されたように、岸田氏と虚無感など持つ雰囲気が似ていて、二人の対談を期待して読んだが、噛み合わなかった感じ。池田氏の考えることは趣味ではないか、と言う岸田氏の問いを彼女は無視する、といった具合。死生観のところも、最後の全部あるという逆転に対する岸田氏の反応もない。残念。

 

 岸田  死を恐れると言うのは、非常に個人差がありますね。

池田 私には全然ないんですよ。何故かと言うと、死がないからです。徹底的に考えたら、本当にない。

岸田 自分の死なんてものは人体験できませんからね。

池田 そうです。だからないんです。他人が死ぬのを見て自分も死ぬんだろうな、と言うのは類推に過ぎないでしょう?死体を見て、それを死だと思っているんですけど、それは死体であって死ではないんですよね。世の中どこを見ても死はないんだと気づいたら、あやっぱり全部あるんだってわかるんですね。

 

ニッポンの「性」はどこへゆくのか 佐藤幹雄

 

 佐藤氏がどんな人か不明だが、対談の相手の紹介が無いのは不思議な本だ。

 男は女から作られたと言うことを、岸田氏は知っているのだろうかとずっと頭にあったが、さすがそんなことは承知の助であった。恥入った。しかし、これを読むと男の方が女より幻想力が強いかの如く見えるが、そんなことはないように思うがどうだろうか。

 

岸田 生物学的に見ると、種族保存のためにはメスだけいれば良いので、オスはいらないのです。オスは後から余計なものとしてできたので、体質的にも女より弱いし、寿命も短いのは当然ですね。その弱点をカバーするためか、人類を存続させるために、社会規範を作り、その社会規範を支える大人と言う役割を無理に男に押し付けたわけです。男が進んで引き受けたのかもしれません。でもそうした社会規範が崩れ、男が無理して頑張らなければならない意味がなくなった。そんな感じですね。p 83

 

「自己」という病、「近代的自我」という幻想 河合隼雄(1928〜2007)

 

 

河合 隼雄は、日本の心理学者。教育学博士。京都大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。文化功労者。元文化庁長官。国行政改革会議委員。専門は分析心理学、臨床心理学、日本文化。 兵庫県多紀郡篠山町出身。日本人として初めてユング研究所にてユング派分析家の資格を取得し、日本における分析心理学の普及・実践に貢献した。ウィキペディア

 

 さすが同じ精神分析学者同志、話は早いという感じ。5歳年上の河合氏が岸田氏を立てているのが微笑ましい。ユンクの河合氏は穏やか、フロイトの岸田氏は過激。河合氏がセラピストだからか。たしか河合氏は箱庭療法士だったような。

 

岸田 結局気がついたのですけれど、「本当の自分」とか「真実の自己」とか、そんなものは自分の中に実在しているのではなくて、自分と言うものは結局「他人の中にある」と言うことに行き着いた。だから「自分を知る」ということは、自分の心の中を探求するのではなくて、自分は他人にどう見えているか、他人が自分をどう見ているかを知るということではないか。自分とは実体じゃないんだと考え始めましたね。p94

河合 「本当の自己」があると思うから、不安が2倍になるんですよ。僕はないと思うからね。それが当たり前と思って上手に転がしていかないと。

 

一神教vs多神教 浄土真宗本願寺派安芸教区にて

 

岸田 精神分析は、このように宗教と関係が深いですが、人間の見方において、浄土真宗ともよく似ていると言うところがあります。例えば、「歎異抄」にかの有名な「善人、なを、もて、往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言う文句がありますが、これを私は「自分を善人だと思っているような無自覚な人だって救われるかもしれないのに、おのれを見極め、己の悪を直視し、自分が悪人であることを知っている人は、救われるのは当然だ」と言うことだと解していますが、精神分析療法はまさにこのような善人を悪人にすることを目指すのです。 

 

 岸田氏の宗教観がずっと気になっていたが、流石に造詣も深く思考も深い。

 

 世界共存のための条件 西垣 通(1948〜)

 

 西垣 通は、日本の情報学者、小説家。東京大学大学院情報学環名誉教授、工学博士。 コンピューター・システムの研究開発を経て、情報化社会における生命、社会を考察する。『アメリカの階梯』などの小説も執筆。著書に『集合知とは何か』、『ビッグデータと人工知能』など。ウィキペディア 著書に「1492年のマリヤ」も。

 

西垣 人間中心の20世紀の知に対して、21世紀の知はどこが違うかと言うと、新な生命観ではないか。近頃の動物行動学とか分子生物学によって、人間と他の生物との境界がぼやけてきているのです。そういう新しい考え方に立って、もう一度仏教的かどうかわからないけれども、生きると言う意味を情報から見直す。あらゆる生き物の命はかけがえのないと言うのは、昔の日本人の素朴な聖性としてあったはずですしね…。それが多神教と一神教を結ぶ次元になるなんて大それた事は言いませんけれども、入り口位は覗いてみたいとぼんやり考えているのです。

 

岸田 生命の流れというのは、まさに我々人間も地球上の生命の中流の中にいるわけですけれども、僕は、人間は本能が壊れた動物で、その代わりに自我を作ったということをよく言っているわけです。自我というのは、いわば生命の流れから外れた存在じゃないか。それが人間存在の根拠になっている。そこで人間は、基本的に生命の流れから外れているという疎外感がある。そこの疎外感を何とかして生命の流れを全部失っているわけじゃないけれども、そこから疎外されていますから、生命の流れの中に戻りたいというか、それとつながりたいというか、つなげてくれるものか、が聖なるものというか、宗教的なものなんだと僕も考えているものです。無我ということが、仏教の基本原理ですが、自我を捨てる、自我を超える事を悟りの境地としているわけで、そのような気持ちには到達できないかもしれませんが、無我とははまさに、生命の流れから外れた人間の、そこへ戻りたい憧れを表しているのではないかと思います。

 

 新しい遺伝子解析や生物進化学、動物行動学とか分子生物学になどの情報学の進歩の上に新しい生命の流れ、生命感を考えたいとする西垣氏に対して、変わらず岸田氏は唯幻論を説く。頑固というか、強い意志、信念というか、幻想への確信(?)というかは、見上げたものだと驚くしかない。

 

 西垣氏との対談ではこのほか、一神教と多神教、聖俗分離、聖俗一致などについていたく興味を惹かされた。

 

西垣 一神教批判の暴力的、攻撃的性格は分かるが普遍論理的で諸民族を通して人間を結びつける力がある点には感心する。一神教の限界を知って欲しい気もある。一方でまた自閉症的共同体に見るように、多神教のいやらしさもある。一神教と多神教の共存は考えられないだろうか。

岸田 一神教は遠慮しないのが原理。遠慮すれば一神教出なくなる共存は難しい。

プロテスタントとカトリックではプロテスタントの方が一神教的。ユダヤ教とカトリックではユダヤ教の方が一神教的。プロテスタンティズムは、カトリックよりユダヤ教に近い。したがってアメリカはイスラエルに親和性。聖俗分離のプロテスタントは資本主義を生み科学を進歩させた。(社会学者マックス・ウエーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に見られるように。)

 

アメリカの原爆投下は、俗が最優先され、聖が俗に従属して俗を正当化したから出来たことだ。

 

あとがきで岸田秀氏は、この対談集の主軸は一神教と多神教であるとし、次のような結論に至る。西垣氏の問いに対する答えと同じである。

 

「あっちで多神教を非難し、こっちで一神教を罵倒して矛盾しているようであるが、私は、基本的には多神教である日本に何とか、一神教の欠陥を避けつつ、その利点を取り入れる道は無いものかと、虫のいいことを考えているのである。その場合、多神教はいい加減というか、寛容であって、多くの宗教の中の1つの宗教として一神教を容認するのであるが、他の宗教を認めないのが、一神教が一神教である所以であるから、一神教は多神教を容認せず、したがって、一神教と多神教の間には、お互い相手の利点を認め合い譲り合うと言う多神教的妥協は成立しないらしい。問題は難しい。」

 

 読後感

 精神分析、心理学は宗教とはごく近い。自分の宗教についての常識の無さ、宗教観の希薄なことを気付かされた。考えさせられること、考えねばならぬことは多いと知る。


 

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